第一話 「おはよう」
感想で頂いたご意見より、少々加筆し読みやすいよう連載形式にしてみました。
やはり駄目だ。
また、いつもと同じ朝を迎えてしまった。
変わるはずがないと分かっていても期待してしまっている自分がいる。
朝から弱気じゃ駄目だ。
気分を切り替えて、目を開いた。
気だるい体を起こし、辺りを確認してみる。
ベッドの上で眠る彼女はまだ起きていなかった。
どうやら早く目覚め過ぎたようだ。
彼女を起こしては悪いので、俺は静かに布団を片すと顔を洗う事にした。
寝ている彼女を起こさない様にゆっくりと蛇口を捻り、少量の水を手に溜めて包み込むように顔を洗う。
さっきまであった眠気の様なもやもやした物が消えて多少はすっきりした気がする。
蛇口を閉めてタオルで自分の顔を包み込むと溜め息が漏れた。
彼女は依然目覚める様子はなかった。
時計を見てみるといつも起きている時間より三十分も早い。
通りで起きる気配が無い訳だ。
もう一度部屋に戻り、壁に掛けてある自分の上着から煙草を取り出す。
部屋を出る際に寝ている彼女を見てみるが…実に幸せそうに眠っている。
口はぽかーんと開かれ、気のせいか笑っている様な寝顔だ。
枕を胸に抱きしめ、布団は下敷きになっている。
…彼女は寝相が悪かった。
キッチンで換気扇を回すと煙草を一本取り出しライターで火を点ける。
ゆっくりとフィルター越しに煙を吸い込むと煙草の先端がジリジリと焼けた。
口から煙草を離すとむわっと紫煙が昇る。
喉から胸へ煙が肺に行き届き、今度はそれを吐き出す。
すーっと白煙が勢い良く俺の口から出て行く。
その行為を繰り返し行っていると、段々煙草は短くなっていった。
さっきまであった部分は灰となり、手元の灰皿でぼろぼろになっている。
煙草一本を吸い尽くすと手持ち無沙汰になった。
彼女はまだ起きる様子はない。
俺は意味も無くキッチンの中を歩き回ってみる。
床のタイルは固くて冷たい。
素足だと少しひんやりして気持ちが良かった。
そこで何か思い出せそうな気がした。
足を止めて床を見つめながら、考える。
何か、何かあったのではないか。
過去という言葉を思い浮かべながら、昨日の出来事、一昨日の出来事、順々に記憶を手繰り寄せる。
しかし三日、四日前の記憶となると朝食が何だったのかさえ曖昧になる。
特に何事も起きていなければ漫然と過ごした日々などいちいち正確に覚えている人などいないだろう。
だがこの家で初めて目覚めるより以前…つまり一ヶ月以上前の記憶に関しては自分が何処で何をしていた、何者なのかという事すら思い出すことが出来ない。
俺の記憶は一ヶ月前から始まっており、それより前の記憶があまりに綺麗に抜け落ちている。
そうなると本当に自分には過去というものがあったのかと怪しくなるが、こうして煙草を吸うぐらいの年齢であることは推測出来る為、少なくとも二十年以上は生きてきたはずの記憶の痕跡があるはずだった。
考えても相変わらず何一つ思い出すことは出来ず、何となく煙草をもう一本取り出して吸い始めた。
そこへ寝惚け眼の彼女が現れた。
「…何してんの」
とても眠そうだった。
彼女は大きく欠伸をすると冷蔵庫を開けて、牛乳パックをそのまま口につけて飲む。
「飲む?」
うっすらと目を開けて聞いてくる。
「…いい」
「そう? それじゃご飯食べよっか」
そう言って彼女は俺と同じ様に顔を洗い始める。
俺は何となくその光景を眺めていた。
顔を洗い終えると不思議そうに俺に向ける。
「ん、どしたの?」
「いや…」
「それじゃ、準備手伝ってよ」
言われた通りいつものように冷蔵庫から昨日の夕飯の残り物を持って部屋へ向かう。
部屋はカーテンを開いていたお陰で明るかった。
テーブルの上に持って来た料理を置いて、またキッチンへ戻る。
「あー…今日も眠い…」
キッチンでは彼女が一人ごちりながらご飯をよそっていた。
「はい、これも持って行って」
茶碗を二つ受け取り、また部屋に運ぶ。
これで朝食の準備は整った。
そこへ彼女も飲み物とコップを二つ持ってやって来る。
「ほーい、食べよ食べよ」
机の前に座ると彼女は早速食事に手をつけた。
俺もそれを見てから食事に手をつける。
この光景も今ではすっかり馴染んだ。
こんな日々が一ヶ月近く続いていた。
その事実にどうしようもない焦燥感がある。
それでも今、俺が何をしようとどうにもならない事は分かっていた。
だから俺はこうして流れに身を委ねるしかない。
「あんた、今日はどうするの?」
食事を続けながら聞いてくる。
「………分からない」
俺にはそう答えるしかなかった。
「ま、頑張ってね」
どうやらこの家の主である彼女の目も大分覚めてきたようだ。
彼女の名前は雪希。
俺を…拾った人だ。
彼女の話によると今から一ヶ月程前、仕事の帰り道に倒れていた俺を発見したそうだ。
頭部に擦り傷を負っていたがそれ以外に外傷はほとんど無かったらしい。
だが意識が無かった俺をその場で見捨てる訳にもいかず、自宅のすぐ近くだったこともあって俺を運んで介抱してくれた。
そのお陰で俺は無事翌日に目を覚ました。
しかし目覚めた俺には記憶の一部が失われていた。
何故倒れていたのか、その前に何をしていたのか、発見される前の自分の行動が何一つ思い出せなかった。
おまけに身分が分かる物も持っていなかったため、自分の名前さえも分からなかった。
記憶喪失。
恐らくそれが今の俺の病名ということになる。
目覚めると彼女は当然病院に行くことを提案したが、俺は何故か病院に行くことを拒否した。
理由は分からない。
行ってはいけないという、意味の分からない脅迫じみた観念があったのだ。
しかし雪希は俺を追い出したり警察に通報するどころか、逆に居候することを提案してきた。
疑いはあったものの、行く宛も記憶もない俺はひとまずその言葉に甘えることにした。
それから一ヶ月近く、こうして何事も無く雪希の家に泊まらせてもらっている。
居候させてもらってからもずっと雪希の様子は至って変わる事無く、平然と生活をしている。
その姿を見ているうちに俺は彼女を信用しても大丈夫だと思えるようになっていた。
雪希は一緒に生活しているうちに色々と思い出せるだろうと言ってくれている。
俺もいつまでも厄介になる訳にもいかないため、毎日記憶を辿る努力はしていた。
だが得体の知れない何かが、例えるなら時限爆弾みたいな物が俺の中に仕掛けられているような気分だろうか。
俺は記憶が戻るのを恐れている気がする。
しかしその反面、当然ながら記憶を取り戻したい気持ちも十分にあった。
その葛藤に苛みながら、現在に至る。
相変わらず雪希は嫌な顔一つしない。
かと言って喜んでいる様にも見えなかった。
彼女が何を考えているのかそれは未だに分からないが、邪険にする訳でなく深く干渉しても来ないため、今の俺にとってはありがたいことだった。
「ごちそうさまー」
そう言って雪希は立ち上がり、着換えを始めた。
俺は着替えを見ないようにして食べ終わった食器等をキッチンに運ぶ。
そしておかずを冷蔵庫の中にしまうと食器を洗う。
こういった家事は今の俺の役目だった。
雪希は平日は仕事のため朝から夜まで家にいない。
そこで俺は雪希がいない間、家事をやることを自ら提案した。
こうして寝泊りをさせて貰い、その上食事まで摂らせて貰っているのだからこの位は当然だろう。
「じゃあ私は行って来るね」
玄関の方から雪希のそんな声が聞こえてくる。
「いってらっしゃい」
俺はキッチンで洗い物をしながら玄関にいる雪希へ返す。
「いつもと同じ時間に帰るからね」
「分かった」
短いやり取りの後、ドアの閉まる音がした。
食器を洗い終わると特にやる事もないので部屋に戻る。
テレビをつけてみるとニュースがやっていた。
芸能人のスキャンダル、交通事故、世界情勢、最近のスーパーの諸事情。
知っているニュースもあれば、知らないニュースもある。
こういった時事ネタを知っているということは、一ヶ月以上前の記憶というか、知識は残っているということだ。
ただそこから有益な情報が得られる訳ではない。
しかし他にやる事もないので俺はそのままニュースを見続けた。
番組が終わる頃になると天気予報が始まる。
「今日は晴れのち雨…」
外を見ると雲一つ無い快晴だが、夕方過ぎから大雨になるらしい。
本当に雨なんて降るのだろうかと疑ってしまう。
天気予報が終わると、占いが始まった。
乙女座、天秤座、さそり座…。
次々と各星座の今日の運勢が発表されていく。
だが俺には今日の運勢が分からない。
自分の星座が分からないからだ。
俺の星座は一体どれなんだろうか?
ぼんやりとそんな事を考えてると番組が終わってしまった。
そのままチャンネルを変えてテレビを眺め続けるがどれも面白くない。
上着から煙草を取り出し火を点ける。
そういえば何で俺は煙草を吸うのだろうか。
吸い始めたきっかけは、いつから吸い始めたのだろう。
しかし思い出そうとしてもその記憶が無い。
ここ最近になって分かってきた事だが、恐らく俺は自分自身の過去の出来事に関して記憶がないようだった。
これが何を意味するのか、それはいくら考えた所で今は何の答えも見えない。
雪希の話によると俺が所持していた物はコートの中にあった煙草と、一錠だけの薬だけだ。
「薬か…」
立ち上がり掛けてある上着のポケットからその薬を取り出してみる。
一錠分だけの物で、何の薬なのかは分からない。
普通の薬と違い、気になるのは小分け袋に入っている点だ。
万が一これが毒物だとしたら…という理由から飲んではいないが、果たしてこの薬は一体何なのだろうか。
もしかして俺は何らかの持病を患っているのだろうか。
しかし考えたところで溜息だけが漏れた。
やはり自分のことは分からないままである。
病院や警察に行けば色々手掛かりは掴めると思うが…
「…それだけは駄目だ」
訳の分からない自分の主張に苛立ちを感じながら俺は薬を上着のポケットへ捻じ込む。
…暇である。
洗濯物はないし、掃除は昨日したばかりでやることが特に無い。
結局まだ早い時間帯だが夕食の材料を買いに行くことにした。