特大のひび 後
もはや人形であった。
線香の香りがくどくまとわりつく霊安室で、彼は2つの家族だった“物”を前に、黙って座り続けていた。特別な感情が沸いているわけでは無い。絶望に打ちのめされているわけでも無い。
ただ、彼の心の中の一番大事な部分がさらさらと、まるで砂時計の砂が小さな穴を通して落ちていくかのように、抜け落ちていく。
その実感だけが、彼にはあった。
高校2年の、雪が降るある日。
椎名伊織は天涯孤独の身となってしまった。
彼は涙を流さなかった。
流せなかった。
辛くないいわけが無く、むろん苦しくないわけも無い。それでも、彼は頑なに泣こうとしなかった。
しばらくして彼が霊安室を出ると、部屋の前の長いすにまことが座って黙り込んでいた。彼女は、霊安室から出てきた伊織を見るなり泣きそうな顔をしながら駆け寄ってきた。
「…泣かないで?」
彼は干からびたような苦笑を浮かべながら、彼女の顔をのぞき込んでそう言った。
しかし、彼女は首をふるふると横に振ることで「無理」と言う意思表示を示す。
変わらない苦笑のまま、伊織は彼女の背中をさする。
彼女が落ち着いてきたときだった。
いい、と腕を突っ張って伊織から距離を置くと、彼女はきっと彼をにらめつけるなり、
「…何でいおは泣かないの? そんな辛そうな顔してるくせに、今にも死んじゃいそうなくらいな顔してるくせに…なんで伊織は泣かないのよっ!?」
伊織の胸ぐらを掴んで怒鳴りつけた。
唐突な彼女の行動に、頭が着いていけず、ただ身体だけが反射的に胸ぐらを掴む彼女の手を解除しようと彼の手が彼女の手首を掴んでいた。
「…俺は、さ。泣いちゃいけないんだよ。…ずっと前に、父さんとそう約束したから。自分に負けるなって」
まことの少女らしい細く頼りない手首を掴んだまま、彼はぼんやりとした雰囲気でそう言った。
彼女は、まるで幻覚か夢の中にいるかのような錯覚を感じながら、その言葉を聞いた。そんな錯覚を感じるくらいに、彼の声には生気が無く、そして現実味が無かった。
ただ、彼女に分かることは、今目の前にいる椎名伊織は、自分が知っている椎名伊織ではない。同じ顔、同じ声、同じ背丈…外見は全て同じなのに、中身が全くの別物。
その違和感を本能的に感じ取り、それなのに自分が彼に何をしたいのかも分からず、彼女の心は不安と苛立ちで押しつぶされそうになっていた。
そして。
「…ヵ……伊織の、馬鹿っ!!!」
やり場の無いいびつな感情をぶちまけるように、彼女は怒鳴りつけ、逃げるように伊織のもとから走り去っていった。
伊織はその一連の流れを改めて反芻し、理解した。
そして、彼の心に、余りにも大きすぎるひびが入った。
彼自身にその自覚は無い。
ここら辺でひとまず作者からご挨拶。
ここまで読んで下さっている皆さん。
誠にありがとうございます。
感謝の極みです。
この小説はまだ続きますが、おつきあいのほどよろしくお願いいたします。
コメントなどいただけたらなお嬉しいですw