信長の最大の武器とは?
信長の強さの秘密。最大の武器とはなんでしょうか? 農兵分離した軍隊の強さでしょうか? 大量の鉄砲を取り入れた近代装備でしょうか? 私はどちらも違うと考えています。
まず農兵分離ですが、最近では信長だけではなく他の大名家でも行われていたと言われています。また、織田家の主力である尾張兵は弱いといわれていて、農兵分離した強い軍隊どころではありません。農繁期でも戦が出来るとも言いますが、他の大名だって農繁期に戦をしています。
では鉄砲を取り入れた近代装備でしょうか? これは頻繁にテレビなどでも言われています。尾張兵は弱い。尾張兵3人で武田兵1人の強さ。それを長篠の戦で鉄砲を大量に投入する事により勝った。信長が天下を取れたのは鉄砲のお陰なのだ。同じ様な番組を何度も見ました。
では、長篠の戦以外で、鉄砲の威力が決め手となって勝った戦いは何でしょうか? あまり聞いた事はありません。そもそも、鉄砲の威力で戦いに勝てていたなら、繰り返しますが長篠の戦までも尾張兵は弱いなんていわれていません。
勿論、長篠の戦では鉄砲の威力が大きな勝因です。ですが、それを持って信長の強さの秘密とは言えないでしょう。
ここで不思議な事があります。尾張兵は弱いのです。ですが、強くなくては天下は取れません。弱いけど強い。という事になります。まあ、これは単純に、弱い兵でも勝てるほどの大兵力を用意したという事もあります。
ですが、信長はいつも言われるほどの大兵力で戦っていたでしょうか? 確かに数千の兵士か動員出来ない相手には数倍の兵力で攻めましたが、万単位の兵力を動員できる相手に、そう何倍もの兵で攻めたのは稀です。信長は、ほとんど常に周囲を敵に囲まれ軍勢を分けざるを得なかったのです。
ここで、主な信長の敵とは誰だったでしょうか。まず、今川、斎藤、浅井、朝倉、武田、毛利。後は宗教勢力で大名達とは形態が違い同一には語れない石山本願寺。決着がつかなかった上杉。他は雑魚です。
まず今川は起死回生の桶狭間の戦いで倒しました。斎藤は当主の突然死で棚ぼた的に倒しています。浅井は信長の妹を娶っているので大きく取り上げられ目立っていますが、軍事的には、朝倉のおまけみたいなもんです。つまり、信長の主な敵は朝倉、武田、毛利でした。
ここで、一般的な大名の滅び方とはどの様なものでしょうか。城を幾つも持つある程度の規模の大名の場合、一回の戦での当主の討ち死になどを除けば、領内に攻め込まれ、徐々に領地を取られ国力が低下していき最後には滅亡です。
※無論、大軍勢で一気に攻め潰すというのもありますが。
では、朝倉、武田、毛利はどうでしたでしょうか?
まず朝倉です。
信長の越前攻めにより危機に瀕したが、浅井の寝返りにより逆に信長を追い詰めました。もっともこれは信長には逃げられ、その軍勢への追撃も殿を務めた木下藤吉郎の活躍により失敗します。
その後、体勢を立て直した織田は反撃に転じます。戦いの形態は浅井の居城である小谷城と木下藤吉郎が守る横山城がにらみ合い、そこに朝倉が援軍に出陣する。というものです。
一時朝倉、浅井連合が優勢な時もありましたが、基本的に朝倉が劣勢で戦費もかさみ遂には家臣達の出兵拒否にあいます。この時朝倉家当主の義景はやむなく出兵拒否した家臣達を置いて自分で軍勢を率いて出陣します。そして織田に大敗し追撃されそのまま瞬く間に朝倉は滅びますが、実際、家臣に出兵拒否された時点で朝倉家の滅亡は決定付けられていたでしょう。
次に武田です。
室町幕府の将軍足利義昭が目論んだ信長包囲網に参加する形で織田に戦いを挑んだ武田でしたが、その最中当主の武田信玄が病没します。その後は息子の勝頼が武田家を率い戦い、序盤は優勢に戦います。ですが、徳川家の長篠城を攻めその救援に来た信長との戦い(長篠の戦)に大敗北。その後は劣勢となります。
長篠の戦の後、織田が東美濃の岩村城を取り返してからは、織田と武田の直接対決はなりを潜め、徳川家康が対武田戦の矢面に立ちます。ですが、この当時の徳川家はほとんど信長の家臣扱いでした。
長篠の戦の前年の事ですが、徳川の遠江の高天神城が武田に攻められ信長はその救援に行きます。しかし信長は間に合わず高天神城は武田の手に落ちます。そこで信長は、間に合わなかった謝罪にと軍資金として黄金一駄を家康に贈ったと言われていますが、普通の同盟だったとすれば、間に合わなかったからといってそこまでの責任が信長にあるでしょうか。信長にそこまでの責任があること事態、当時の徳川家が織田の傘下である印でしょう。また、この黄金で武田と戦う様にとの意味合いもあったと考えられます。
ちなみに黄金一駄とはどの程度の金額かといえば、一駄は136キロといわれ、天正大判(10両)の重さが165g、金の含有量が122gらしいので、大体10万両ぐらいかと。で、1両が20~35万円なので200~350億円。とんでもない金額です。
そして長篠の戦以降、家康はその軍資金で武田に対し反撃を開始します。武田は外交の失敗により北条などとも険悪となりそちらにも対応が必要でしたが、それでも本来の武田の国力と徳川の国力では倍ほども差があったにもかかわらず、徳川が優勢となります。特に徳川が高天神城の奪還に動いた時は、武田は軍資金不足で救援にすら動けませんでした。
※他に当時険悪だった北条家を警戒して武田は援軍を送れなかった。織田と和睦交渉中だったので援軍を送らなかったという説もありますが、眉唾です。特に和睦中だからというのは意味不明です。織田=徳川と考えたとしても、和睦中だから攻められても防衛しないなどありえません。(甲陽軍鑑に書かれているそうですが、あれは小説です。甲陽軍鑑には軍師山本勘助が重要人物として登場しますが、軍師山本勘助は使番山本菅助をモデルとした架空の人物であり、架空の人物が需要人物として書かれているものは小説です)
ちなみにこの高天神城ですが、武田信玄が大軍でも落とせず息子の勝頼が落とした為、それを持って勝頼は父を越えたといわれる事もあるそうですが、一旦取った後は奪還に動く家康からの防衛に戦費がかさみ、経済的にかなりの負担になっていたともいいます。
こうして信長から軍事費の提供を受けた徳川に本来倍以上の石高を持つ武田が押され高天神城も落とされ、(実際、北条対策の負担もあるのですが)武田は経済的に破綻し家臣が織田に寝返り滅亡が決定的になりました。(それを契機に織田は武田領に攻め入りますが、裏切りが続出して瞬く間に武田は滅びます)
最後に毛利です。
毛利は信長によって京を追放された足利義昭の求めに応じ(求められなくても自らの保身の為にかもしれませんが)、当時信長と戦っていた石山本願寺の救援として織田に戦いを挑みました。この時上杉謙信の時を同じくし反織田に動いた為緒戦は優位に進めます。
ですが、体制を立て直した織田家による反撃が開始されます。とはいっても、毛利の領地と織田の領地の間にある大名や豪族達を如何に自陣営に取り込むかの戦いに終始します。悲惨を極めたという三木城の兵糧攻めも篭る別所長治は毛利の家臣ではなく、毛利傘下の大名です。
つまり両陣営共に、調略によって相手側の大名、豪族を自陣営に引き入れ、自陣営の大名、豪族が相手に攻められたら救援に行く。という事の繰り返しなのです。
そして徐々に織田に有利に進み毛利家参加の大名である宇喜多家が織田に付いた事により、やっと毛利家領地が戦場となり有名な備中高松城の水攻めが行われます。この時毛利家は4万の軍勢で救援に向かいますが、織田にかなわないと悟り和睦を持ちかけます。(信長が本能寺の変で亡くなりうやむやになりましたが)
この和睦は毛利が5ヶ国(備中・備後・美作・伯耆・出雲、3ヶ国という説もあり)を織田に差し出す。というもので和睦というより降伏です。領地を割譲しておいて、その後、やはり織田と敵対するもなにも無いでしょう。
とはいっても、この時の毛利の軍勢は4万といわれ、織田(羽柴秀吉が総大将)の軍勢は毛利方から寝返った宇喜多勢も入れて3万。軍勢の数では勝ってないか? どうして領地に攻められるまで圧されたんだ? と考えてしまいますが、毛利家はそれまでの織田家との戦いにより戦費が枯渇し軍事行動が限界に達していました。つまり領地の石高から算出される最大動員兵力数は多いのですが、軍事費が無いので実際出陣出来ない。なので数では劣るはずの羽柴秀吉に押されるのです。(これは武田が徳川に押されたのと同じですね)
ここで改めて状況を確認します。
朝倉は、始めの織田に攻められたものの、その後は浅井への援軍に終始し家臣からの出兵拒否により敗北が決定的となった。
武田は、自分で攻め取った城の防衛、再奪取の戦いに終始し家臣の裏切りにあい敗北が決定的となった。
毛利は、織田との中間勢力の取り合い、支援のし合いがほとんどであり、初めて(私が知らないだけで他にも有るかもしれませんが)の自領土での戦いで織田にかなわないと悟り和睦(降伏)する。
通常考えられている、領地を攻め取られ衰退していく、という手順を踏んでいません。ほとんど領地外での戦いをしている内に勝敗が決してしまっているのです。
何故かといえば、単純に信長とは経済力が違ったからです。当時は、一回の合戦でかなりの戦費が必要だった様で、ある大名は年に2回も戦をして領民が苦しんでいた。という記録があります。その程度の経済力です。そこに年に3回も戦いを挑めばどうなるでしょうか? すぐに軍資金は枯渇します。つまり、極端な話し決定的な敗北さえしなければ戦っているだけで相手が疲弊し滅ぶのです(勿論、止めは刺しますが)。
では、そんなに戦わなければ良いかというと、信長が攻める以上守るしかありません。では、自分からは攻めなければ良いかといえば、攻められっぱなしという訳にも行きません。お互い相手の腰に手を回しダンスを踊れば相手のステップに合わせるしかなく、信長の早いステップについていけず足を絡ませ仰向けに倒れたという感じでしょうか。
しかも織田は他にも敵が居ます。(武田だって織田(+徳川)意外に敵は居ましたが)それでも、織田は戦い続けられました。それほど経済力に差があったのです。
ちなみに朝倉家が織田と戦っていた期間に、織田と朝倉との戦いは(主だったもので)8回ですが、織田は朝倉、浅井以外との戦いを含めれば、倍の16回。
武田と織田と9回(+徳川との戦い。この数は調べられませんでした)ですが、織田はその期間に68回もの戦をしています。
毛利とは17回と42回です。
圧倒的に信長の方が出陣している回数は多いのに、疲弊し滅ぶのは相手の方です。
※無論この数字は目安であり、拾いきれない戦いはもっとあったでしょう。ですが、各地で戦っていた織田がそれぞれの大名より多く戦っていたのは間違いなく、また、領内での戦いに入る前に勝敗が決していたのにも変わりありません。
余談ですが、一般的に’男の子’というものは一番初めに好きになる戦国大名は、大抵は織田信長と思います。ここで更に戦国時代を好きになれば、その後色々調べている内にどうやら信長より戦が強い武将はいくらでもいる事を知り、そちらに流れます。そして大体ここら辺で興味も薄れてきて、信長って実は対した事ないよね。という認識になります。
ですが、そこで興味を失わず更に年齢を重ねると、信長に戻ってくる人も多いと思います。確かに信長の戦の勝率は実はあまり高くないと言われる事もありますが、そんなのは些細な事と理解します。
年1回しか戦が出来ない大名と、年10回戦が出来る大名。当然戦い方も違います。
年1回ならば、ライフルで相手の急所を狙う様に慎重に十分準備を重ねます。時には数年をかけて準備を行い、必勝を狙います。自然、勝率も高くなるでしょう。
ですが年10回戦えるなら、もうマシンガンです。2、3発は外れるかもしれないし、当たっても急所じゃないかも知れないですが、それでも何発か当たったら相手は死ぬでしょう。勝率も何もありません。そして実際1人の相手に10発も要らないです。同時に何人かの相手が出来ます。
ライフルとマシンガン。それぞれ長所と短所があり、どちらが上とは言えません。それを命中率のみ比較しライフルが優れていると判断するのは偏ったものの見方と思います。
※無論、マシンガンを乱射する間を与えずにライフルの一撃で相手を倒すこともあるでしょう。
他の大名達が、一発必中を狙う戦いで地道に領土を広げる中、信長は弾丸をばら撒く様に戦をし続け急速に領土を広げました。そしてその玉数で激しい銃撃戦を行い相手の弾丸を枯渇させれば、相手の身体(領土)はほとんど無傷なまま手を上げさせる事が出来るのです。
つまり、信長の最大の武器は経済力に裏付けられた出陣回数なのです。
※当然、それって経済力が武器なんじゃないのか? という話もありますが、多くの場合その経済力によって最新兵器(鉄砲)を大量に揃えていた、金銭で多くの兵士を雇っていた、などの話が多く、出陣回数に関連付けての話はあまり聞かないので。