地竜鯨2
人々は逃げていた。どこに逃げるというあてもなく、ただ目の前の事態から逃げるために。次は自分が食われることを恐れて。
砂色の鯨は泳いでいた。水ではなく砂漠の中を。獲物を追う素振りも見せずに、悠々と。
少年――大神隆也は待っていた。異形を目の前にして、逃げることもせず。
混沌の様相を呈する砂漠に少女は――九家達百合は現れた。黒く輝く髪をなびかせ。巫女服を身にまとい。雷鎚の黒弓を携えて。
― * ― * ― * ― * ― * ―
「地竜鯨だったかしら。それで良いわよね」
「うむ。以前出現した妖魔と酷似している」
「確実にあん時取り逃がしたやつだな。気ぃ付けろ? 結構強いぜ」
前回も聞こえた姿無き声が、百合に注意を促す。
「“妖律”は?」
「見えてるだろ。地中遊泳能力。地縛走って名付けてたな」
「地面に潜ってる時に呪力を感じないわ」
「恐らくそれも能力なのだろう」
会話の最中も百合は警戒を怠らない。冷静に自身の状況、周囲の様子、敵の動きを観察していた。
「まあ、熟練の退魔師ならこの程度の敵、なんてことないわ。そろそろ安心させてちょうだいね、百合」
「分かってるわ」
気だるげな女の声にも短く返し、地中を潜行する異形――地竜鯨であろう隆起を鋭く睨んだ、瞬間。
「――っ!」
地竜鯨が再びその姿を地上に現した。砂漠から全身を跳ね出させ、勢いそのままに少女を喰らわんと口を開ける。
「はっ!」
百合は地竜鯨よりも更に高く飛び上がることでそれを回避すると、
「『霹靂閃』を!」
「あいよ!」
そのまま空中で身を翻し、黒弓から漆黒の雷鎚を迸らせた。轟音が遮蔽物のない砂漠に響き渡る。
昨夜、白鴉を一撃のもとに撃墜せしめた黒雷を受けて、なお地竜鯨は見た目に違わぬ頑強さを見せた。黒雷は着弾部位をわずかに焦がしたに過ぎず、巨体は小揺るぎもしない。
空中での交差を終え、百合と地竜鯨はほぼ同時に着地、再び砂色の鯨は地中に潜った。
「これは思った以上に難敵か」
「百合が弱すぎるんだろうが。俺の『霹靂閃』の威力じゃねえ」
「折角攻撃チャンスだったのに~。あれじゃ、敵さんも警戒しちゃうわよ?」
百合が敵の出方を窺う間にも姿無き声は、それぞれ好き勝手に文句を言ってくる。正直鬱陶しかったが、
――わかってるわよ。
と、内心で呟きながらため息をつくに留めた。
そう、分かっている。自分の未熟さも、彼らから信頼されていないことも。
当然、口にするのも別のこと。
「砂色のマッコウクジラって感じだわ。歯があるし、頭が大きいし」
「そうなると一度潜られると大変ね~」
「そんな話はどうでもいい。『霹靂閃』が効かないとなると、どうするのだ」
自身でも無意味だと思う会話。自身の弱さからのバツの悪さをごまかす間にも、地竜鯨の攻撃は続く。
巨体を生かした突進。尾びれを用いた打撃。足元からの鯨飲。人間にとってはどれ一つ取っても致命的なそれを、百合は紙一重で躱していく。
しかし、彼女にしても余裕が有るわけではない。紙一重の回避は、直前まで敵の接近に気づかない証でもあった。
「やっぱり呪力が分からないっていうのは辛いわね。どこから来るのか……分からないわよ!」
言いつつ、直下からの突き上げを躱す。当然、ギリギリの回避の後に反撃をする余裕はない。『霹靂閃』を構えた時には、再び敵は砂の中に潜っている。
「ああクソ! 面倒だな、オイ!」
「完全に警戒されちゃってるわね~。最初のあれ以来、大きく砂から飛び出る攻撃をしてこないもの」
姿なき彼女(?)の言う通り、先程から地竜鯨の攻撃は砂から僅かに身を出すものばかりであった。獲物を食らうための動きではなく、敵を殺すための動き。
百合が考える間にも、視界の端で砂が蠢いた。尾びれが猛烈な速度で振るわれ、必殺の威力を秘めて襲い掛かる。それを回避して『霹靂閃』を撃ちこむが、
「ちっくしょう! また潜りやがった!」
地中に潜ることで悠々と回避されてしまう。
先程から繰り返される一連の流れ。その進展の無さに百合は深くため息を着く……、暇もなく再び質量の暴力。
突進。回避。潜砂。殴打。潜行。鯨飲。
終わりの見えない戦いに、百合は確実に疲弊していった。
「あれ、結構苦戦してるんじゃないのか?」
百合が地竜鯨なる異形と、不利な持久戦を強いられる中、隆也に出来たことは少し離れてそれを眺めることだけだった。
最初は、今回も圧勝してくれるだろうと(多大に幻想を抱いた)期待をしていたのであるが、今回は大分相手が悪いらしい。
(どうしよう……)
今更になって、自分が彼女に頼りきっていたことに気づく。まさか彼女が苦戦するなど考えてもみなかった。初見での凄絶な強さ、美しさから分厚いフィルターがかかっていたようだ。
(何か……。何かしないと……)
しかし、所詮一般人に過ぎない隆也に何が出来るはずもなく、徐々に心の中が焦りで満たされていくばかりだった。
(嘘だろ……? 普段あんな事言ってるくせに、肝心なときには何も出来ないのか……?)
隆也が力なく固まっている間にも、地竜鯨の怒涛の、そして臆病な攻撃は続いている。
そして、
「あぐっ!」
とうとう百合の着地際を狙って振るわれた巨大な尾びれが、違わずに百合の身体を強打した。口から悲鳴が上がると同時に、華奢な身体がひとたまりもなく吹き飛び――砂煙を上げて砂漠に突っ込んだ。
隆也が思わず身を乗り出すと同時に、地竜鯨も猛追をしかけるべく、その身を僅かに砂から出しながら猛烈なスピードで百合の落下した場所に迫っていく――と、巨体を再び砂に隠した。その瞬間、乾いた轟音と共に、砂漠を這うように黒雷が突き抜けていく。
砂煙が晴れると、ようやく百合の姿が見えてきた。あれほどの衝撃を受けたにもかかわらず、僅かに巫女服が傷ついただけで、凛然と砂漠に目を走らせている。どういう理屈か、体に外傷らしい外傷は存在しない。
隆也は百合が無事であることに安堵の息をついたが、すぐに気を引き締めた。百合は僅かにも弱った様子を見せないが、未だ不利な状況は変わっていない。
そんな状況で己の無力を嘆いている暇は、無い。
(反省会は後だ! とにかく今は考えろ!)
渦巻く自責の念を無理矢理振り払うかのように強く頭を振ると、隆也は必死で考えを巡らせる。
そうしている間にも、百合は執拗に食らいつく地竜鯨との格闘を続けていた。目に見えるダメージはなく、先ほどの一撃ほどのクリーンヒットもないものの、疲労の色は遠目からでもはっきりと分かるほどになっている。
(いいじゃないか! 無力な男が知恵を使ってヒロインを助ける! 最っ高に燃える展開だ!)
手を固く握りしめ、砂漠の舞踏を睨みつける。輝かんばかりの赤と白が、少しずつ砂に染められていく。
(何か……! 何かあるはずだ! 姿も気配も無い敵を倒す方法が!)
砂漠に迷い込んでから、今までを必死で思い出す。何かヒントが有るはずだ、と。何か打開策があるはずだ、と。
そして、その祈りにも似た執拗な思考の果てに、
「やってやるよ……!」
隆也が見つけた打開策はまさしく、無力な男の執念と呼ぶに他ならないものであった。
延々と続く回避と反撃の応酬に、先に悲鳴を上げたのはやはり百合だった。そもそもこちらからは相手の姿も気配も確認できないのに、相手には攻撃が届く気配もないのである。
明らかに不利な状況で、百合が追い詰められていくのは当然と言えた。僅かにうつむいて、乱れた呼吸を必死で制御しようとする身体には、無数の擦過傷が走り、当初の凛とした余裕は感じられない。
「くっ!」
そうしている間にも地竜鯨は、百合の背後から猛烈な勢いで突進してくる。振り向かず、聴覚だけを頼りにそれを回避するが、反応が僅かに遅れ、巫女服の端が宙に舞う。
(ちっ。限界が近いか……)
(戦闘経験の無さが響いてきたわね~。こういう状況でどれだけ踏ん張れるかは、地力が物を言うから)
(攻撃が届いたとしても、初撃の様子では効果は薄いだろう。ここは一旦退いて、策を練るべきではないか?)
割と薄情なスタンスであった姿なき声らが、余りにも不利な状況に撤退の選択肢を考慮し始めた所で、それは来た。
「おーい! 聞こえるかー!」
突如砂漠に響き渡る男の声。驚いた百合が、声のした方を反射的に振り向くと、百合たちが必死の戦闘を行う一帯から少し離れたところに、こちらに向かって手を振る男の姿が見えた。
「なっ! あの男!」
「昨日のバカじゃねえか。何やってんだ、あいつ」
「この廃退世界にいる事自体は、来た時に気付いてたけど、まだ逃げてなかったのね。まあ、逃げ場なんかないんだけど」
「だが、何をしているのだ。死にたいのか」
嫌でも見覚えのある姿に、全員揃って顔(?)をしかめたものの、
「作戦がある! とりあえず聞け!」
隆也の発した言葉に、思わず身体が硬直する。それを隙と見た地竜鯨の突進を危うい所で躱す。
「百合! 止まるな!」
「ああもう! 鬱陶しい!」
百合が地竜鯨から常人離れした速度で離れ始めるのと同時に、隆也は聞こえるように大声で叫び始めた。
「先ず、そいつは砂に潜ることと、馬鹿固いこと以外は、普通の鯨ってことでいいんだよな!? 心臓が二つあったり、異常な再生力があったりはしないよな!?」
「おい、なんか言ってるぞ」
「う~ん。まあ、実際のところはわからないけど、問題ないんじゃないの? ねえ、フツ?」
「む? うむ。妖魔は自らの性質を表すものの異形となるからな。 大本は元の生物と変わらぬはずだが……」
そこで、姿無き声の中でもひときわ貫禄のある声は、何かを気遣うように言葉を止めた。
「いいわよ、フツ。気にしなくても。いくらあいつが気に入らなくても、このままジリ貧で殺されるよりはマシだわ」
このままでは勝ち目がないことは明確である以上、百合には気に入らない相手でも利用するしかない。それはこの場の全員がわかっている。
「まあ、腹立たしいことには変わりないけれど」
「んじゃま、念話をつなげるわよ~」
地竜鯨を回避し続ける百合の身体から、薄紫色の光が発せられる。それは風に揺れる糸のようにたなびくと、真っ直ぐに隆也へと向かい、包み込んだ。
「うわ、なんだこれ!?」
『念話のパスを繋げたのよ』
『テレパシーみたいなもんだ』
「そ、そうか、便利なんだな。じゃあ、急いで作戦を説明するぞ。お前たちの問題っての言うのは、あの鯨に攻撃する隙がないこと。それから、攻撃力が足りないことなんだよな?」
もはやこの程度の不思議では驚かなくなってきた隆也は、改めてこの問題を確認する。自身の作戦が果たして上手くいくのか、それを判断するために。
『攻撃力の方はまだ何とかならぁ。ただ問題は、強い攻撃を撃つためにはそれだけ時間がかかるのよ』
『集中して力をためて、結局当たらないんじゃしょうがないからね~』
「よし、なら大丈夫だ。つまり、あいつに隙が出来れば倒せるってことだろ?」
『確かにそうだが……。それが出来ぬから、苦戦しておるのだ』
結論を言わない隆也に、次第に焦れ始めたのか百合の表情には苛立ちが見える。距離があるため、隆也にそれを知る術はなかったが。
『いいから早く、作戦を説明しなさい』
「駄目だ。それは言えない」
『はぁ!?』
「全部伝えてしまうと、うまくいかない可能性があるんだ。だから、とりあえずそこから離れてくれ。そして、全力を出す準備をしてほしい」
『…………』
沈黙を受けて隆也は、無理かな、と思う。元々隆也は彼女に信頼されていない。こんな曖昧な説明で、命のかかった作戦を任せてくれるのは難しいだろう。だが、ここはなんとしても譲るわけにいかなかった。男として、何より主人公として、ここは退くわけにいかない。
「頼む! どうせそのまま戦っても、皆そいつに食われて終わりだろ!? だったら、少しでも可能性がある方に」
『いいだろう』
「賭けたほうが……! え?」
あまりにもあっさりとした肯定に、一瞬思考が停止する。しかし、それに驚いたのは隆也だけではなかった。
『ちょっとフツ! こんな作戦、乗れるわけが……』
『どうせやれることなど他にないのだ。それに……、あやつは信じても良い気がする。そういう目をしている』
『そんな曖昧な……』
なお抗議の声をあげようとした百合は、しかし諦めたようにため息をつく。
『確かに他に手もないか……。いいわ、攻撃の準備をすればいいのよね?』
「ああ! ありがとう!」
会話を終えると、なおも追撃しようとしてくる地竜鯨から
「はっ!」
『霹靂閃』で牽制しながら距離をとる。撹乱のために周囲に無差別な射を繰り返し、戦場から離脱した。
「さて、この辺りでいいかしら」
「かなり距離をとったわね~。流石はビビ……」
「うるさいわよ」
十分に距離を取ったことを確認し、呪力の集中に入る。あの男は一体どんな作戦を考えたのだろうと、期待している自分を意識しないようにしながら。
「よし」
遠く離れた百合が、何やら集中し始めた様子を見て、隆也は満足気に頷いた。その間、地竜鯨を警戒するのも忘れない。今は百合からかなり離れたあたりで、円を描くように潜行しているが、油断するわけにはいかなかった。
「さて、行くか!」
それらを確認すると、突如隆也は走りだす。
地竜鯨に向かって、真っ直ぐと。
遠目で、百合が驚愕しているのが見えた。当然だ。何の力もない男が、いきなり自殺しに行ったようにしか見えないだろう。慌ててこちらに駆け出そうとしてくる。
しかし、百合と同時に地竜鯨もまた、隆也に気付いていた。非力な存在が自らに向かってくる様子を、どのように捉えたのかは定かではない。鴨葱と思ったのか、あるいは五月蝿い小蝿と認識したのか。だがその瞬間、地竜鯨はそれまでの百合への警戒をやめ、隆也へと意識を向けていた。
「これが……、作戦だ……!」
我ながら陳腐で幼稚な作戦だと、自嘲の笑みを浮かべながらつぶやく。だが、隆也に出来ることと行ったらこれくらいしか無かった。そして、その行動を取ることに、恐れも迷いも無い。
自身を撒き餌にした捕鯨。
その凡なる作戦に、地竜鯨は見事に乗ってしまった。激烈な速度で隆也に向かって突進を始める。
隆也は拳を握りしめてそれを見つめた。全身から汗が止まらない。一瞬一瞬が膨大な時間にも感じられるが、その間に出来ることと言ったら、より強く拳を握り締めることだけ。
(無謀かもしれない……。けど――)
とうとう地竜鯨が隆也を喰らわんと大きく体を跳ねあげる。直上から鯨飲しようと大きく口を開いた――瞬間、
「『降魔』!」
百合の勇ましい叫びが砂漠に響き――隆也をかばうように背にして、地竜鯨との間に立ち塞がった。空間転移と見紛うばかりの神速。その腰には昨晩も一瞬だけ見た日本刀が下げられ――左手の黒弓は充ちた力を溢れさせるように黒雷を迸らせていた。
「っつあああああああ!」
烈帛の一声とともに極太の雷鎚が放たれる。黒雷は真っ直ぐに天へと駆け上り――直上に迫っていた地竜鯨を貫いた。
初撃とは比べ物にならない威力のそれは、地竜鯨の大きく開けた口から尾びれへと貫通し、空へと消える。
一拍遅れて響いた轟音に耳を押さえる隆也の目の前で、体に風穴を開けた鯨は、その残りを砂へと変えた。
降り注ぐ大量の砂を被り、肩で息をする百合を見て隆也は思う。
(ああ、やっぱり。この子は凄くて……、かっこいいな……)
それだけを感じて、隆也の意識は途切れた。
締め切りを守れないのはダメですね、自分で決めたことなのに。
言い訳はたくさんありますが、未熟さを吐露するだけですよね。
多分これからは、月に1度の更新頻度になるかもしれません。
完結はさせます。プロットはありますので。
どうかお付き合いください。