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①②③



序章


 榎本深雪は夢の中にいた。嫌な夢である。悪夢と言っても過言ではない。忌わしい記憶の扉を強引に押し開けようとする悪夢を深雪は嫌っていた。深雪は、びっしょりと寝汗を含んだ敷布団から体を跳ね上げ、驚いたような声を発し、忙しく肩を上下させる。――あぁ、これで何度目だろうか? この夢を見るのは。深雪は、虚ろな形相で部屋の窓を開けた。清々しい金色の陽光が差し込み、爽やかな涼風が深雪の髪を掬いあげた。透徹とした外の空気を吸い込み、あの恐ろしい夢の事を思い返していた。夢の中で、暗い街を独り歩く深雪。彼女は、忽然と背後から正体の知れぬ漆黒の影に襲われたのである。寝醒めの悪さにつくづく愛想をつかせる深雪であったが、それでも、ここのところ毎晩のように見る夢なのだから、いい加減慣れたと言えば、慣れた。

「大丈夫……」

 深雪は安堵したように自らの胸元に手を当てた。寝巻(パジャマ)は汗で染みている。この夢を見た時、決まって深雪は朝風呂に入ってから大学に通うのが日課だった。

 大学一回生の深雪は、小さな六畳半の賃貸マンションに身を置いている。こんな狭くて壁の薄い部屋でも深雪にとっては楽園に近かったのかもしれぬ。――不可解な現象さえ起きなければそれで良かったのだが、不思議と深雪の転居先のマンションには幽霊らしき影が現れるのだ。

深雪は霊感体質である。

 幼い頃からずっとそうだった。

 他人には見えない筈のモノが、深雪には見えるのだ。

 時折、悪夢を見てしまうのは、その体質が影響しているのかもしれぬ。深雪の両親も、彼女が幼い頃は、その体質を聊か気味悪がっていた様で、よく祈祷師に相談しにいったらしいが、結局深雪の体質は治らなかった。そして何年もの月日が経つに連れて父母たちは彼女の体質について触れなくなった。――というよりは、深雪の方が、例え自宅に幽霊やもののけの類が現れようとも、あえて家族の前で、「霊がいる」 などと、公言することが無くなったのだ。幼い頃からずっとそんな生活に慣れていた深雪は、小学校や中学、高校といった公共の面前でも霊感体質の事はずっと黙秘し続けてきた。

 気持ち悪がられるかもしれぬ。

 そのような劣情が、深雪を内気な性格にしたのかもしれない。

 深雪は、自分を本当に理解してくれない家族を疎ましく思い、高校に通うようになってからは、ずっとアルバイトをしながら独り暮らしをする様になった。

 だが、一つのマンションにずっと居る事は彼女にとっては困難だったのである。

――見えてしまうからだ。

 どうやら曰くつきのマンションというのには、本当に出るらしい。しかし安い家賃しか支払う事が出来ない深雪にとっては、どうしても訝しいマンションに縁があるらしく、度々、部屋の中で不可解な人影を見てしまう度に、彼女はそれを気味悪く思い、引っ越しを繰り返していたのだった。

 しかし、彼女はある時、その不可解な人影に奇妙な共通点を見出すことになる。

 その人影は妙にやせ細っていて、少年のようなシルエットを彷彿とさせたのである。影は一体誰なのか? 思考の果てに、深雪は怪訝な影の正体を突き止めたのである。

 幽霊は中学時代の同級生だったのだと。

 深雪は、その同級生の事を 「こぼう」 と呼んでいた。あだ名である。無論、彼には佐原(さはら)結城(ゆうき)という本名があったのだが、彼の容貌は、「こぼう」 を連想させるせいか、深雪は彼を中学に入学してからずっとそう呼んでいた。しかし、彼と特別、懇意な仲というわけではなかった。「こぼう」と呼んでいたのも、クラスメイト達とのひそひそ話をしている時だけであって、「こぼう」自身とは、それほど会話した事もなかった。深雪は、「こぼう」 が嫌いだった。茶褐色の痩せ細った風貌に、小さくて冴えない目付。丈の短い制服のズボンに、よれよれの白シャツは、男らしさを微塵も感じさせないせいか、結城はクラスメイト達から、随分と浮いていたのである。そんな薄い印象の彼を深雪はよく影でからかっていた。

 深雪は、「こぼう」 とは対照的な容貌だった。

 妖艶な黒色の光彩。満月の様に丸い瞳。瞼に覆いかぶさるほどに長い睫。白く神秘的な顔立ちに、セーラー服の襟元からすらっと伸びた首筋。膨らみ始めた胸元を覆い隠すような赤リボン――深雪の外見に非は無かった。彼女の風貌は多くの男たちの目を惹いた。

 たった一つの欠点と言えば、霊感体質である。

 深雪は中学に入ってすぐに幾人かの男に交際を求められた。最初は興味本位だった。世の中は広い。どこかに自分の特殊な体質を受け入れてくれる人間が居ると思っていた。だが、深雪のそんな儚い願いは、意図も簡単に打ち砕かれたのである。深雪は交際していた男達に、何度がその体質について打ち明けた事がある。

――私、見えるの。 

 たった一言で、男達は深雪を気味悪がり、離れていった。

 深雪が嫌いなのは 「こぼう」 だけではなかった。

 深雪が嫌いなのは男だ。

 中学時代の深雪は劣情の塊だった。クラスで浮いていたのは 「こぼう」 だけではない。自分もだ。だが、深雪はその事実を受け入れたくない余りに結城をさげずみ、軽蔑していた。そうしなけらば、自分も――深雪はいじめの本質に悩み苦しんできた。

 昼休みの最中、何人かの男に暴行されている結城を見ても、深雪は遠目で眺めている事しか出来なかった。


 それが、悲劇の始まりだった。

「こぼう」 の抱える苦悩。絶望。鬱積した想いの数々を、周りの生徒達が理解できるはずもなく、彼は、とうとう狂ってしまったのである。

溜まりに溜まった不満の爆発。結城は、謂れのない事で迫害を受けている自分に、救いの手一つ差し出さぬ愚かな担任教師を――

殺したのだ。

結城は夕暮れ時に、帰宅途中の担任教師、(ひいらぎ)(はじめ)の背面から出刃包丁を突き刺した。肺まで到達した鋭利な刃は、柊の命を呆気なく奪ったのである。

蝉時雨が鳴く季節に訪れた悲劇は、テレビのニュースなどでも大大的に報道され、深雪の通っていた中学は、一役有名になったのであった。

あろう事か、その事件の第一発見者が深雪だった。深雪は見てしまったのだ。結城が担任教師を刺す瞬間を。深雪は事件の重要参考人として警察から事情聴取を受けた。

――私、見たんです。結城くんが、先生の後ろから包丁を。

 深雪は、屈強そうな顔付きの刑事にそう証言した。結城が補導されたのはそのすぐ後である。

 結城は罪を認め、少年院に送還された。

 深雪が彼の死を知ったのは、中学二年の時である。地元の新聞で小さく記載されていた記事を読んで、深雪は結城が少年院の中で餓死したという信じられない事実を知った。

 餓死?

 新聞記事を更に詳しく読み進めてく内に深雪は彼の死の真相を理解した。佐原結城は、自害したのである。彼は全ての食事を口にするのを拒絶し、度重なる栄養失調の果てに命を失った。

 深雪の全身に悪寒が走ったのはその時である。自分は事件の第一発見者――自分さえ、あの証言をしなければ、「こぼう」 は少年院に送られる事も無かった。彼が自殺することもなかったに違いないだろうに。深雪は居た堪れない心境になった。

 深雪が、不可解な影を見掛けるようになったのはそれからの事であったのだ。

「こぼう」 を殺したのは自分だ。深雪は更なる負い目に縛られる様になった。謎の影が、深雪の転居先に現れる理由は、こぼう男が自分を憎んでいるからだ。

 深雪が、あえて今まで不審な祈祷師にお祓いを頼まなかったのも、そのような負い目があったからである。生前の彼は生徒達に忌み嫌われ、不幸な人生を送っていた。死んでからも尚、彼を祓ってしまっては憐れだろうに。深雪は、影の正体が、「こぼう」 だと分かった時、どこか安堵に似た感情を抱くと共に、彼の霊魂が一刻も早く自分の目の前から消えて欲しいと願うようになった。


 深雪は、窓を閉める。風の咆哮が鳴りやみ、部屋は静寂に包まれた。深雪は記憶の扉を再び閉じる。ふと部屋の壁掛け時計に目をやると、午前九時を廻っていた。深雪は忙しげに大学へ行く支度を済ませると駆け足で、部屋を飛び出して行った。


――お願い――ないで――


 部屋を飛び出した瞬間、また奇妙な幻聴がした。慌てて振り返る。

 誰も居なかった。深雪は、呆れたように溜息を一つ零した。


〔1〕榎本深雪 


「あっ――」

 駅から自宅へ繋がる一本道。巨大な繁華街を抜けると、周りの景色は、田舎の様に長閑になり、視界の遠くには深緑色の山の稜線が映えていた。交差する公道の下には歩行者用の小さなトンネルがある。ここは、深雪の通学路であった。深雪は、このトンネルを通るのが嫌だった。しかし、ここを通らないとマンションには帰れないのもあり、顔を顰めながら恐る恐る暗い穴の中を歩くのである。

 今日もやっぱりいた。

 深雪が目撃するのは、何も 「こぼう」の影ばかりではない。冥界に旅立つ事が出来ずに、現世で彷徨っている霊魂は町の至る所にいるのである。このトンネルも心霊スポットの類なのだろう。

 白装束を着た男が、寂しげにトンネルの脇で佇んでいる。トンネルの上は車道になっている為か、颯爽と駆け抜ける車の音が、トンネル内で谺していた。

 半透明の男は、じっと深雪を見つめている。

 深雪は、この報われない男の正体も知っている。昔、このトンネル上の車道では、軽自動車と大型トラックの衝突事故があったのだ。軽自動車にはこの男と、彼の父母が乗っていたらしい。三人ともその事故で亡くなってしまったそうである。今でもその車道脇には花束が添えられていた。どうやら亡くなった彼らの遺族達のたむけのようである。

 深雪は、この男の哀しげな眼差しに見据えられてると哀しくなる。大かた事故に巻き込まれた誰かの魂の残り火なのだろう。トラックのドライバーか、あるいは軽自動車のドライバーか。魂は、何を想い、こうやって自分の目の前に現れるのだろうか。

 深雪は、見えている癖に、見えていないふりをして、足早に駆け抜けようとした。心に隙を作っては駄目と自分に言い聞かせながら、歩く。歩く。

 いつもなら、これで切り抜ける事が出来た。しかし、この日ばかりはそうはいかなかった。ふいにっ右腕に違和感が走った。誰かが自分の手を握っている。焦燥に苛まれた。深雪は右腕に視線を投げる。絶句。

 男が、蒼白い顔で、深雪の手を掴んでいる。行かないで――といわんばかりに。

 初めて男と視線が重なる。

 見えていないフリを続けるのは困難だった。深雪は、面倒くさそうに溜息を洩らし、男の手を振りほどいた。

「何よ。何か用?」

 冷徹な物言いであった。

 男は言葉を発するわけでもなく、じっと彼女の漆黒の瞳を見つめている。

「用が無いなら、行くよ」

 深雪は、歩を刻み始めた。夕方から居酒屋のバイトがある。この世に未練たらしい想いを遺した幽霊とじゃれ合っている暇など無かった。深雪は、トンネルに男を置いてきぼりにしてやろうと、駆け足で走った。息を切らす。履いているブーツの音が空間に響く。――振り向いた。男はいない。

 深雪は怪訝に思い、駆足を辞めた。――へんだなと思って視線をトンネルの出口に向けると、男はいつの間にか、深雪の前に立ちふさがるように立っていた。この男はどうしても深雪を帰さないつもりである。

 深雪は等々呆れてしまい、

「今日に限って何なのよ? こう見えても私、忙しいんだけど」 と言った。

 男は、徐にトンネルの壁を指差した。そこには暴走族達が走り書いた様な汚らしい落書きあって、灰暗色の壁の所所には亀裂が生じている。

「なによ?」

 深雪は不思議に思い、男の元へ歩み寄った。男の指さす方向にじっと目をやると、落書きの中には、何やら赤い字で文字が書かれている。


 助けて。


 身の毛が弥立った。細い筆筋で、たった一言だけ綴られた文字は余りにも哀しく、意味深のようにも見えた。深雪は、誰のメッセージとも分らぬ文字について男に問いかける。

「これ、君が書いたの?」

 男は首を横に振った。話せないのだろうか。

 続いて男は上方を指差す。

「上? 車? 何?」 深雪は訳が分からなかった。男は頷いている。

 深雪に何かを伝えられたことに満足したのだろうか。男は、すぅっと、フェードアウトするように姿を消してしまった。結局、男の伝えたかった意図を理解する事は出来なかった。深雪は正解の無いクイズを出されたような後味の悪い感覚を覚え、聊か苛立ってしまった。

「あっ! バイト」

 深雪は弾けるように言って、颯爽とトンネルを駆け抜けた。

深雪の日常は常軌を逸しているのである。いや、これが深雪にとっての日常なのだ。

 自分でも狂っているとは思う。こんな体質でなければ、今頃どれだけ幸福な生活を送れているだろうか。きっと天性の容姿を生かして、色んな交際を重ね、幸せの階段を駆け上っているに違いない。町の中だけでは無く、部屋に戻ってもあの忌まわしい影が出る始末なのだから、我ながら呆れた人生である。

 また、引っ越ししたくなった。

 だが、あの影の正体が結城である事を知ってから、部屋を変える事に何の意味もない事を彼女は理解したのである。影は、部屋では無く深雪に取り憑いていたのだから。

 結城は何故、死して尚、現世を彷徨い続けるのであろうか。

 柊を殺して、彼の怨恨は消えただろうに。――彼にも、先ほどの少年の様に未練や伝えたい事があるのかもしれない。

 あるいは、結城は怨念の類か。

 深雪はふいにそう思った。毎日、毎日部屋の中で現れるなど、ストーカーより質が悪い。ましてや現われて何かするでもなく、ただ茫然と部屋の片隅で立ち尽くしているだけなのだから、迷惑にもほどがあった。

 影が悪霊の類ならば、何れ自分に呪いや祟りなどを仕掛けてくるかも知れぬ。そうなる前に、影を追い払わねばならないのだ。深雪は、暗い暗いトンネルを一気に走り抜けた。


〔2〕御影吉秋


「ごめん、ごめん、待たして悪かったね」

 六畳ほどの狭苦しい部屋。ヤニで黄ばんだ白塗りの内壁。目の前のテーブルの上には吸殻が山積みになった灰皿と、空き缶が散乱している。

 兵庫県警の応接室に通された私は、かれこれ三〇分以上も仲尾刑事に待たされていた。スーツ姿の仲尾刑事は、申し訳なさそうに会釈をして、目の前のソファーに腰をおろした。

「いえ、それで一体何の用です?」

 私は、仲尾刑事に話の内容を一切聞かされていなかった。昨日の夜、原稿の校正紙に目を通している最中の事であった。連載小説の締め切り間近を迎えていた私は、担当編集者から送られてきたゲラを何度も読み返し、文章の添削などを黙々と行っていた身なのだから随分忙しかったのである。そんな半ば苛立ちながらの作業中に、彼は突然と私の携帯に電話を掛けて来たが、明日の午後に警察署まで来てほしいという訝しげな内容だけを告げて、詳しい事情は後で話すと言って、彼はそのまま通話の切ってしまったのだ。相変わらずマイペースな男である。この刑事は、小説家の私を自由奔放の身と勘違いし、年中暇だと思い込んでいるに違いない。

 仲尾刑事は、私に緑茶を一杯注ぐと、流暢な語り口で、私を呼び出した理由を話した。

「――実は、また黒宮先生の力を借りたいんだ」 仲尾刑事は、柔和に眼尻を垂れ下げて言った。

「先生?――一体どうしたんです?」

 黒宮は、私が長年世話になっている占術師の事である。何か悩みがあった時や、相談したい時、黒宮白陽は何かと知恵を授けてくれる。私がアマチュアの小説家だった時代からずっと懇意にしている女である。胡散臭い身形をしている癖に、これがまた知る人ぞ知る有名な占術師なもので、この男――仲尾刑事も、彼女と一度会っただけで、彼女の魅力に心酔してしまったものだから、質が悪いものであった。

 仲尾刑事は以前、黒宮の推理によって不可解な事件を解決に導いた事がある。それ以来、彼は彼女の虜であり、私は差し詰め仲尾刑事と黒宮白陽の仲介者と言ったところであろうか。本職は売れない小説家をしているせいか、警察署に足を運ぶのも、この日が初めてだった。

「厄介な事件を担当することになってね、君も知っているとは思うが僕はまだ刑事として未熟な立場。それなのに、人手が足りないと言ったつまらない理由で、連続婦女暴行事件の捜査をする羽目になってしまって……困っているんだ」

 仲尾刑事の少年の様な円らな瞳はすっかり悄然としてしまっている。よほど参っているのであろう。

「連続婦女暴行事件ですって? しかし、貴方がそんな大きな事件を担当することになったのも、黒宮先生のせいでは? あの人の協力の元に貴方はあの事件を解決することが出来た」

 あの事件――とある宗教法人を崩壊させたのが、黒宮白陽である。

「確かにあの人のおかげで僕はこんな大きな事件を任されるようになった。――しかし、それはあくまでも彼女の協力があったから刑事として認められるようになっただけで、本当のところを言うと僕には刑事としての実力なんてこれっぽちもないんだ。なのに所長は、あの宗教法人を告発出来ただけで大手柄だとほめてくれた。――そのおかげでこの有様さ」

 頼りない男である。

 仲尾刑事は、ついこの間まで交番勤務だった。どうやら警察上層部の退職が引き金となり、大幅に人事異動が行われたらしく、この頼りない男は、渋々刑事という立場に身を置くことになったのであった。

「自分では事件を解決することが出来ない――だから黒宮先生の力を借りたいと?」

「その通りだ」

「だが、引きうけてくれるかな……先生は意外と忙しい身なんです。常に予約客で一杯だし、いつ休んでいるかも僕は知らない。わざわざ予約を断ってまで警察に力を貸す人だとは思えないのですが」

「そんな――」

 仲尾刑事は眉をひそめてしまった。

 黒宮白陽は神戸に事務所を抱え、一日何十人という予約客の相手をしている。その大半が女性客らしい。電話一本で予約を取ることは可能なのだが、これがまた厄介なことに、一か月待ちが当たり前のようだった。

 人気占術師であることには間違いなのだから、彼女の実力は本物なのだろうに。いや、占いだけではないか。その卓越した心理術は、絶望した人間を救う。私もその一人であった。

「先生に訊ねてみないと分かりませんが――事件の内容によっては彼女も動いてくれるかもしれません」

「本当かい?」

 仲尾刑事は溌剌とした形相で身を乗り出した。虫歯一つ無い白い歯は、どこかの芸能人を彷彿とさせる。

「明瞭とは言えませんが――それで一体どういった事件なんです?」

 仲尾刑事は、ここで漸く刑事らしい凛とした顔つきになり、詳しい事件内容を話すのであった。

「始まりは一月三十日の夜に起こった。通り魔事件さ。会社帰りのOLが見知らぬ男に襲われた。女性は襲われた男に白い布きれで口元に抑えつけられたらしく、その時の記憶が曖昧らしい。気がついた時にはどこかの廃嘘にいて、眠っていたそうだ。事情を訊ねてもただ襲われた事しか分らないらしい。厄介な事件でね、男の真意が分からないんだよ。女性を襲い、廃墟に連れていく。そこからの男の行為が謎めいている。実は女性の躰から、男の体液らしいものは発見されなかったんだ――」

 仲尾刑事は、怪訝な顔つきで首を横に振った。

「男の体液が見つからない?――では、犯人は女性を襲って何をしようとしていたんです?」

「それが分からないから困っているんじゃないか。似たような事件が三宮周辺で五件も起こっている。被害者の共通点と言えば、やはり夜道で襲われた後、布きれを口元に当てられ眠ってしまい、目ざめた時には廃墟にいた。だが、男の体液は見つからない。要するに男は彼女達と性行為がしたかったわけじゃないということだ」

「男が女性達を襲う時に使ったのはクロロフォルムですかね――」

「恐らくはね。被害者は、男に布きれを当てられる際に激しく抵抗している。だから、犯人が男であるという記憶だけははっきりと覚えていたんだ。――クロロフォルムは即効性が薄い麻酔薬ではあるが、数分間も吸えば流石に気を失う。――犯人の特徴を記憶にとどめるには十分だろう」

「どう言った特徴なんです?」

 仲尾刑事は、困惑しているように溜息を零した。

「これも、また困ったことに被害者から事情を訊ねたけど、今一犯人の動機が見えなくてね。未だに容疑者すら特定できないんだよ」

「動機が見えない?」

「五人の被害者の顔写真がある」

 仲尾刑事は、そう言って、背広の内ポケットから、被害者五人の顔写真を取り出した。写真をテーブルの上に並べた彼は深刻そうな顔でそれを見ていた。

「あの――いいんですか? 被害者の個人情報を僕なんかに話して」

 私は、何だか気まずかった。

「いいんだよ。君はもう関係者だ。それに僕は君を信用している。被害者の情報を詳しく知らない事には君だって先生に事件の詳細を話せないだろう」

「確かに――そうですが」

 この男は、どうしても私達を事件に巻き込みたい様である。面倒な事になった。

「一人目の女は、さっきも言ったOLだ。鳴沢南美 〔24〕 ――この女は、犯人は中年男性だったと言っている」

 仲尾刑事は、五人の顔写真を指差しながら、その後も滔々と情報を提供した。


〔目撃証言〕

二人目。

 豊崎亜樹 〔18〕 喜代田高校三年。テニス部所属。部活帰りに路地裏で男に襲われる。

 犯人はおっさんだったと証言。揉み合った際に自分より身長が低く、禿げあがった頭頂部が見えた。


三人目。

 古沢美紅 〔30〕 パート主婦。買い物帰りに襲われる。

 犯人は三〇~四〇代の男性だったと証言。ジャージ姿にサンダルを履いていた。力が強く、細みな体躯だったという。


 四人目。

 瀬川夏海 〔24〕 白咲大学二回生。バイト帰り、駅の改札口で、男と激しくもみ合う。抵抗する際に男に頬を殴られ青痣が残った。五人の被害者の中で唯一怪我をした被害者。


五人目。

 桜木怜奈 〔25〕 女優。所属事務所からの帰宅途中に襲われる。目覚めた時には財布から、現金が抜き取られていた。


◆◆


「確かに面倒そうな事件ですね」

 私は頭髪を強くかき毟った。

「やはり君もそう思うかい」

「犯人だけが中年男性と事以外今のところ分かる事はありません。被害者にも共通点が無い。職業や年齢もバラバラだ。唯一の共通点と言えば男の手口だけ。五人目の桜木怜奈に関しては、金まで盗まれている。訳が分からない」

「そうなんだよ。 だから困ってしまってね」

 仲尾刑事はすっかり消沈してしまっているようである。この男が黒宮を縋りたい理由がここにきて漸く理解出来た。

「犯人は無差別に被害者を選んでいる。――犯人の人物像が被害者によって違うって事は、犯人は一人じゃないのか」

「その可能性も否めない。これらの事件は半年に渡って繰り返されているんだ。未だに何の手がかりも掴めていなくてね」

「成程……だが、被害者は全員生きているのが不思議でならないな」

「どういう意味だい?」

「クロロフォルムには確かに睡眠作用がある。だけど、被害者の体質によっては何十分も嗅がせないと効力は発揮しません。サスペンスドラマの様に、都合良くすぐに被害者が眠るとは限らない薬品だし、その入手法も難しく、一般人が手に入れる事も不可能だと思います。第一、人が気絶してしまうほどのクロロフォルムを吸引した場合、被害者は死ぬことだってありえる。大量のクロロフォルムを吸った被害者は眠るか死ぬかとどちらかといわれるほど、極めて麻酔薬としての効果は薄いんですよ」

「偶然? いや、それとも犯人はそれほどまでにクロロフォルムの扱いに慣れているということか?」

「その可能性も確かだとは言えません。今ではクロロフォルムを取り扱っている病院は無い。患者の手術を行われる際にクロロフォルムを用いていたのは遠い昔、一九世紀ぐらいだと言われています。医療が発達した現代で、患者を死にいたらしめるかもしれないクロロフォルムを麻酔薬に使えば、その病院は訴えられてしまうでしょう」

「詳しいんだね。一体、そんな知識をどこで手に入れたんだい?」

 仲尾刑事は関心したように訊いた。

「以前、医学書を読んだ時に知ったくだらない蘊蓄ですよ。まさか役に立つ日が来るなんて思わなかった」

「そうか。――君は確か小説家だったね。本を読むのが仕事の様なものか」

 私は下手くそな笑みを作った。

 職業病である。

「クロロフォルムを扱う人間がいるとすれば、それは恐らく動物病院の類かと」

「動物?」

「えぇ、動物の手術を行う場合は、クロロフォルムを用いる事があるんですよ」

 仲尾刑事は、目を大きく見開いた。

「なら、動物医療に携わる人間が怪しいと言うのかい?」

「――はっきりとは分かりませんが、事件が三宮周辺でしか行われていないとなれば、近辺に存在する動物医院の関係者を探るのが、賢明かと」

 仲尾刑事は、おう! と歓喜した様に大きな声を出した。

「成程! 犯人はクロロフォルムを用いて、人間が死ぬか死なないかの瀬戸際を熟知していた。だから、五人は死ななかったんだ。――よって、犯人は幾度となく薬品を扱った事のある人物。御影くん。ありがとう。助かったよ」

 仲尾刑事は、ガッツポーズをした。

 仲尾刑事は、吹っ切れたような表情で、煙草に火を点ける。燃え盛る煙草の先端から煙が狼煙の様に漂っていた。

 その時である。

 応接室の扉が勢いよく開いたのは。

 勢いよく開いた扉が内壁と衝突し、乾いた音が響いた。扉の向こうには、仁王像のような強面の男が立っている。灰色の背広を着た体格の良い男だった。短髪に細い眉。赤いネクタイが映えている。

「仲尾! お前、こんなとこでサボってやがったか」

 男は不愉快極まりないと言った目付で言った。どうやら仲尾刑事の上司に当たる男の様である。仲尾刑事は、ヘラヘラと微笑を浮かべながら懸命に言いわけをしていた。

「堀口警部。――別にサボっていたわけじゃありませんよ」

「事件に関係ない奴に被害者の個人情報を流していた癖によくもまぁ、そんな白々しい言い訳が出来たものだな」

 男の名は堀口というらしい。

「聞いてたんですか・・・・・・」

 仲尾刑事の顔からはびっしょりと汗が噴き出していた。堀口警部は、私達の話の一部始終を盗み聴いていたらしい。

 ひたすら謝る仲尾刑事の姿を、私は黙然と見ているばかりであった。

 堀口警部は、仲尾刑事の背広の裾を掴むと、罵声に近いような声音で、

「さっさと行くぞ」

 と、言った。

「行くってどこにです?」

 仲尾刑事が、頓狂に訊ねる。

 展開の速さに彼の頭脳は着いていけないようだ。堀口警部は、親分肌なのかもしれぬ。

「また――被害者が出たんだよ。今度は少女だ」

「え? またですか」

 堀口警部は、力強く頷くと、彼を引き連れて扉の向こう側に消えた。――と思ったら、また部屋の中を覗き見て、彼は遺された私に、

「――青年、悪いがこいつから聞いた事は忘れてくれ」

 と、言い放って、また消えた。

 扉が喧しい音を立てて閉まった。

 私は呆気に取られてしまい、しばらくは、そこから動けなくなった。

「忘れてくれって言われてもな」 私はぼそりと呟く。

 私は堀口警部が言った言葉を思い出していた。

 六人目の被害者は少女だという。

 犯人は本当に目標を無差別に選んでいるということである。

――狂っている。

 そう思った。


 要するに忘れられる筈も無かった。









〔3〕黒宮白陽 七月三十日


 三宮の繁華街は、祝日のせいで賑わっていた。飲食店から漂う香りが、鼻腔を刺激する。到る所に蔓延る恋人達の群れ。募金活動や、客引きに燃える人々。パチンコ屋の扉が開閉する度に洩れる爆音。なんて賑やかな街なのだろう。深雪は、桜色の半袖シャツに、デニムといった割と質素な服装をしてきた事を聊か後悔していた。

 それでも自分は、あの人に会いたい。 深雪は規則正しく配列されたブロックの地面を力強く歩く。深雪はこの日、生まれ変わる決意にも似た感情を抱いていた。

 あの女なら、自分を変えてくれると信じて疑わなかった。訝しい占術師の名前を聞いたのは、一年前だった。深雪は、母親から黒宮白陽という摩訶不思議な占い師が居るという事を聞かされていたが、面倒くさがり屋の性分が影響してか、聞き流すばかりであった。

――見えなくなるかもよ。

 母親はそう言っていた。

 自分も一般人の仲間入りが出来るかもしれぬ。深雪は微かな期待を抱くまでには至ったが、それまで特に霊が見えて困った事もなかったので、進んでその占術師に元へ足を運ぶ気にはなれなかった。だが――

 あの謎の影の正体が分かってからというもの、「こぼう」 は毎晩のように枕元に現われる。今までは三日に一回か、一週間に一回だったのに、最近ではほぼ毎晩のように現れる。

 いくら自分が生まれつき霊が見えると言っても、これでは安眠出来たものではない。

 仕方なく深雪は、母親の薦めに乗ることにしたのである。

 四柱推命、姓名判断、数理霊感術、周易、波動修正、霊査、カウンセリング――数々の奇怪な術で、相談者の幸福を約束すると言う手法は、どこにでもいる占い師とさほど変わり映えはしないだろうが、それでも、「こぼう」 霊に悩まされる深雪は、誰よりも誰かに縋りたかった。

 

 灰暗色のコンクリート外壁。三階建てのプラザビルの一階は服屋である。隣には小さな遊戯施設があった。この質素なビルの三階に黒宮の事務所があるらしい。

 入口にある昇降機を使って三階に向かう。

 扉が開くと、待ち合い席に直結していた。細長い廊下は一面、お香の香りが充満している。廊下には座席が設置されており、数十人の女性客が、黒宮との対面を待っていたのだ。

 深雪は徐に腕時計の針にを見た。――午後二時二十分。予約の時間は確か二時半だった。もう少しで自分の順番が回ってくる。

 紅い垂れ幕が施された出入口から、晴れた様な面持ちの女性客が一人出てくる。いや、もう一人いる。漆黒の頭巾にゴシック調のドレスを纏った女に、女性客は深く礼をして去っていく。黒服の女は、「次の方、どうぞ」 と言った。 

 深雪は双肩を緊張させた。鼓動を整える。

 自分でも何故、これほどまでに緊張しているのか分らなかった。

◆◆


 端麗な女だった。蝋人形の様な彫りの深い顔に、通った鼻筋。蒼い眼。艶やかな紅い唇に、豊満な胸。ドレスの裾から伸びた手頸には天然石のブレスが幾十にも嵌められている。髪型は頭巾に覆いかぶされていてよく分らなかった。砂時計のように頸れた腰がなんだか――

 忌わしかった。

 小さなテーブルを挟み、黒宮と対面するように座った深雪は何から話していいのか戸惑い俯き加減で視線を伏せていた。

「どうしたの? 何か相談があってここに来たんじゃないのかしら?」

 黒宮の声音は透き通っていた。

 深雪は声を詰まらせる。沖縄の海を彷彿とさせる透明な蒼の瞳が、深雪の視線を奪ってしまった。深雪は怖くなった。誰かにこの体質を打ち明ける事が。

 今まで交際してきた恋人は、自分に霊が見えるからという理由だけで自分から離れていった。心的外傷が唐突に蘇ったのだ。

 それでも、高い相談料を払うのだから、何か話さなければ勿体ないとも思う。深雪は等々腹をくくることにした。

「あの――私、見えるんです」

 深雪は心臓が止まりそうになった。

「見える?――一体何が?」

「霊――」

 一瞬だけ間があった。

「あら、そうなの。それで?」 黒宮が余りに平然としていて訊ねたものだから、深雪は拍子抜けしてしまった。

「それでって……」

「霊が見える。――それで何が困ると言うの?」 

 この女は――

 深雪は困惑してしまった。

「生まれつきの体質だから、どうしようもないことと言うのは分かってる。――けど、あの影だけは、どうしても迷惑なの。毎晩、毎晩、寝床に現れて、部屋の隅っこで静かに私を見つめている。いつか、私をどうにかしてしまうんじゃないかって――とても怖いんです」

「影?……」

「――中学の時の同級生の霊だと思うんです。体格や雰囲気もどことなく彼に似ているし」

「詳しく話して頂戴」

 深雪は頷く。

 深雪は今まで誰にも話したことのない鬱積した想いを黒宮に打ち明けた。彼女になら話せる。彼女は霊の存在を否定しなかった。深雪は、まくしたてるように 「こぼう」 との過去を打ち明けたのである。

「苛められっ子が、担任教師を逆恨みして殺害。少年院の服役中に餓死するなんて、とんでもない話ね」 黒宮は虚ろに呟いた。

「本当なんです。――彼の事を思い出したのは最近になってからで、それまではその不可解な影の事をそこら辺にいる浮遊霊とかの類かと思っていた。だから、さほど気にもしていなかったんです。だけど、影の正体が 「こぼう」 だったって分かると、彼の影は毎日に様に私に会いにくるようになった」

「きっと彼の怨念が現世に残ってしまったのね。よくある話よ。――それで、我慢できなくなった貴女は私の元に来た――というわけね」

「はい――私、もう嫌なんです。出来る事ならこの体質そのものを何とかしてほしい。だけど、それが叶わぬ願いだという事も分かってる。それならば、あの影だけでも祓う事は出来ないのか。そんな願いを携えて私はここに来ました。貴女が悪霊払いをやっているということも母親から聞かされて」

「――成程ね。確かに人間というのは知らず知らずの内に霊に取り憑かれる事が多い。自縛霊。生き霊。動物霊。――その種類は千差万別で憑かれている本人ですら気付かない程の影響しか及ぼさない事が多い。貴女に憑いているのはきっと怨霊ね。狂わしいまでの深い恨みの中で死んだ青年が、怨霊になり変わり、関わりのあった貴女に取り憑いた」

「関わりがあったなんて言い方辞めてください」

 深雪は、毅然とした口調で言った。

「関わりは無かったと言いたいの? クラスメイトだと言うのに」

「はい。私は彼を軽蔑していました。痩身でこぼうみたいな姿も、質素な顔付きも暗い話し方も何もかも――だから彼は苛められていたんです。そんな彼と関わろうという人なんてクラスの中にはいませんでした。教師を逆恨みしたのもそのせいです」

「そう――分かった。なら訂正するわ。貴女は、「こぼう」 霊と何等関わりが無いというのに、ただ「見える」という理由だけで影に好かれた事が嫌で嫌で仕方が無いと?」

「はい。その通りです。何の謂れのない縁で取り憑かれる身にもなってください」

 深雪は唇を一文字に結び、小さく震えていた。

「何の縁も無い――貴女には彼に取り憑かれる、それ相応の理由が無い。確信はあるのかしら?」

「それは――」

 深雪は覆すように、――無いとも言い切れませんがと曖昧なことを言った。

「確かに、私は佐原くんが苛められている所を見ても知らん風を装ったりしていました。私には彼を助ける理由もなかったし、そうしているのは私だけじゃない。クラスメイトのほとんどが、彼が虐げていた。彼に肩入れすれば私だってどうなっていたか分からない。――無視するしかありませんでした。どうして彼は私に憑いたのか理由も曖昧だし……」

「彼の怨霊が他の生徒では無く何故貴女を選んだのか? それが貴女を悩ませる疑問ね」

 深雪は神妙に頷いた。言う通りである。

「しかし、災難ね。よりによって怨霊に憑かれるなんて」 黒宮は憐れむように言った。

「どういう意味ですか?」

「浮遊霊とか動物霊なんかより、余程、質が悪いという事よ。――貴女はとてつもなく迷惑な憑き者に気に入られたということ」

 深雪は背筋が凍りそうになった。

「貴女なら祓えるのではないのですか?」

 黒宮は、渋い表情を浮かべる。

「貴女は怨霊について、どのくらいご存知?」

「え……怨霊について――ですか?」

 深雪は知らない。知っている事と言えば、祟り神の一種だということだけだ。

「生前に深い怨念を抱いて死んだ人の霊とか――ですか」

「当たらずとも遠からずってとこかしら。歴史は得意?」

「いいえ。余り」

 黒宮は、生徒に語りかける教師の様な口調で話を始めた。

「なら、平安初期の桓武天皇の話がいいわね。第五十代目の天皇陛下、桓武帝は、平城京、長岡京、平安京と三度の遷都を繰り返している。彼は呪われた天皇と云われる程、忌わしい怨霊の影に怯えていたの。強い道教思想の持ち主で、陰陽道による怨霊封じの為に度重なる遷都を行った」

「ちょ、ちょっと待って下さい。 行き成り何の話ですか?」

 深雪は頓狂な声を出した。勉強なら大学の講習だけで十分である。

「関係ある話なのよ。言ったでしょ。怨霊の影に怯えて都を転々とする桓武帝――どこか貴女に似ていないかしら」

 深雪は、あ――と声を漏らした。確かに似ている。自分も忌わしい影に怯えて、マンションを転々とし続けてきた。黒宮は、桓武天皇の話を用いて怨霊についての見解を話してくれているのか。深雪は、納得したように 「づづけてください」 と言った。

「特に有名な話だと早良(さわらの)親王(しんのう)の話がいいかしら。彼は桓武天皇の実の弟だったの。通常皇位継承は兄から弟へ引き継がれるもの。よって桓武帝が何らかの形で天皇の位を失った時、次の天皇は、早良皇子が就く筈だった。――しかし桓武帝はどうしても我が子である()殿()親王に位を譲りたかった。要するに桓武帝にとって実母弟である早良親王は邪魔だった。そんな時よ。長岡京造営の責任者、藤原種継が暗殺されたのは。――帝はここにきて漸く一つのアイディアを閃く事が出来た。それは、暗殺の嫌疑を弟である早良親王に掛けたのよ。現在で言う容疑者のようなものね。当時は天皇の言う事は絶対だったから、桓武帝が親王を拘束するのは他愛もないこと。無実の罪を着せられた早良親王は淡路に流され、絶望と深い悲しみの中で自害した。――死因は断食」

「断食……」

 深雪の瞳が氷結する。

 早良親王の壮絶なる死際は、結城の最期を彷彿とさせた。

「自分で殺した癖に桓武帝はその後、早良親王の祟りに怯えるようになる。親王が死んでからというもの都には数々の災難が訪れた。桓武帝の母や皇后が相次いで死ぬ。桓武帝は慌てて、彼を供養し、早良親王に 「崇道天皇」 という(おくりな)な与えた。死んでから天皇になったって何の意味も無いでしょうけれども、それでも祟りが納まるなら桓武帝にとって地位や名誉などどうでも良かった。かつての日本国家にとって、それほどまでに怨霊とは恐ろしいものだった。京都や奈良には崇道天皇を祀っている神社だってある。怨霊を侮ってはならない。彼らは生者の思考を脅かす悪しき魔物なの。今では科学が進歩して霊魂などにはあまり注目されなくなったし、平成の世で、怨霊が出たから宮内庁を移すと言ったら全国民から笑われるでしょうね」

 同じだと思った。

 こぼうの影に畏れて引っ越しを繰り返す自分は、崇りを恐れていた桓武帝と全く――

 なんだか、

 滑稽だった。

「怨霊が恐ろしいものだとは分かりました。――けど話がまだ見えません。貴女は何が言いたいの?」

「怨霊とは、生きている人間が創り出したといっても過言ではないと言うことよ。よく考えてごらんなさい。早良親王が断食の果てに死んだあと、桓武帝の周りで不幸が重なる――もしかしてそれは偶々だったかもしれないじゃない」

 黒宮は、小馬鹿にしたような物言いである。

 深雪は、はっと目を見開いた。

「――桓武帝の罪悪心が、早良親王を怨霊にしたという事ですか?」

 黒宮は静かに顎を引いた。

「ご名答。上手く早良親王に藤原種継暗殺の濡れ衣を着せた桓武帝だったけれども、彼は後々か、親王への所業を後悔することになっている。天皇という絶対的な地位で、上手く冤罪を闇に葬りさろうとしたようだけど、死んだ彼に 「崇道」の追号を送ってしまったなら、自らの罪を白状したも同然ね。桓武帝は自分の願望を叶える為なら実の弟でさえも殺してしまう極悪非道な王だった」

「早良親王へ犯した罪への懺悔が、報われない彼の魂を悪しきものにした。――じゃあ、私に憑いている影も、私自身が怨霊と認識しているだけで違うというの?」

「それは――まだはっきりとは分からない。しかし、貴女の認識が変化すれば、貴女に不幸は訪れないのかもしれない」

 黒宮は、支離滅裂な事を言った。

「よく――分りません」

 深雪は不安になった。

 黒宮は、「情報不足よ」 と追弁する。

「――それより、貴女、その傷は?」

 黒宮はここで、深雪の左腕に目をやった。

 深雪の左腕には、何針が塗ったような傷跡が残されていた。

 深雪は、紫色の亀裂傷を覆い隠す。まるで、見られたくないと言った風に。

「事故に遭ったんです。結構昔の事だけど――私がまだ高校生だった頃。その時の記憶はあまり覚えていません」

「覚えていない? それだけ深い傷を負ったというのに?」

 深雪は虚ろに視線を伏せた。何かを考え込む様に口を結び、翳りのある眼差しを宙に漂わせる。

「交通事故だった……自転車で車道脇を走っていた時に、車に接触したんです。衝撃に逆らう術もなく私は自転車ごと、地面に叩きつけられて頭を強く打った。――だから覚えていないんです」

「そう――」

「傷の事は、今回の相談とは関係ないはずです。先生は、私にこれからどうしろと言いたいのですか?」

 ここで黒宮の蒼眼は、ぞっとするほどの冷たさを増した。

 思わず深雪は、言葉を喪失する。しかし、深雪は話せる事は全て話したのだ。相談料を払うのだから、何かしらの改善策を提供して貰わないことにはここに来た意味が無い。深雪は魔女の冷たい視線を受け止めた。

「――他に何か 『こぼう霊』 の事について話せる事はないかしら?」 黒宮が訊ねた。

「全てお話したつもりです。これ以上彼の影についての情報は私はもってない。――先生、もし彼の影に関しての情報が不足していて、彼の怨霊を祓えないというならば、私の霊感体質をなんとかしてくれればいいんです。この力さえなければ私には彼が見えない。見えなければ気にする必要もなくなる。なんとかなりませんか?」

 今度は黒宮が考え込む番であった。

「霊感体質というものはね、幼少期の人間なら誰しもが持っているものよ。だけど普通は大人になるにつれて、その体質は消えていくもの。しかし貴女の様に一部の人間には大人になっても霊感が消えない場合がある。そういう人たちの事を霊能力者といい、その能力を生かして、祈祷師になる人もいる。だけど、この能力が厄介なもので、赤の他人からは霊能力者達の能力が本当か嘘かが分からない。霊感商法というものがあるぐらいだから、霊感があると偽って他人の祈祷をして、金儲けに走る愚かな人もいるのだって否定できない事実なのよね。まぁ、兎に角、見えるモノを見えなくするなんて事、出来ないの。よく考えてみて。貴女の生まれ持った感性や、感覚。才能を他人の私がどうこう出来ると思うかしら?」

「――それは……しかし、なんとかして貰わないと困るんです」

 深雪は落胆した。

 黒宮は、彼女の落胆を気にもしないと言った風な毅然とした口調で、訝しい言葉を放つ。

「それに――貴女は嘘を吐いている」

 深雪の目が大きく見開いた。唐突に何を言うのだ? この女は。

「嘘――私、嘘なんて吐いていません。何を言うの?」

 黒宮は、不適な笑みを浮かべ、

「――覚えていないのなら、それでいい。だけど、本当に佐原結城の怨霊を祓いたいのなら、貴女はあなた自身の過去を思い出さなければならないの」

 と、諭すように言う。

 深雪は、意味が分からないといった様な面持ちである。

 当たり前だ。自分は、本当に知っている事を全て黒宮に話した。それだと言うのに、この無粋な女は、自分を嘘つき扱いしている。

 深雪は、苛立ったように椅子から腰を上げた。もう、ここにいる理由は無かった。深雪は、手提げカバンから二つ折りの財布を取り出し、中から千円札を三枚取り出す。如何にも不愉快そうな顔で、それをテーブルの上へ差し出すと、彼女は虚ろな声音で、「ありがとうございました」 とぼやいた。何も解決していないというのに、何故こんな金を払わなくてはならないのだ。深雪は腸が煮えくりかえりそうな心境であった。

「思い出したら――またここに来なさい。その時は、無料で貴女を救ってあげるわ」

 黒宮は踵を返した深雪に、そう言った。

 訳が分からない。

 深雪は、振りかえる事もせず、赤いカーテンの向こう側へと消えた。

 一体何を思い出せばいいのだ。

 深雪は家に帰る途中、ずっと心の中で考えていた。

 自分は、詐欺にあったのだ。

 そう思えてならなかった。

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