鬼のお面
僕は、とある骨董屋で奇妙なお面を手に入れた。
奇妙というか恐ろしいと言うべきだろうか。そのお面は、いわゆる鬼をモチーフにしている。険しい目つき、固く結んだ口元。人に恐怖を与える象徴としては申し分の無い出来であった。そんなものを僕はなぜ手にしたかと言うと。
僕は変わりたかった。今の僕自身から。だから、この鬼のお面さえ付ければ別の誰かになれる、そんな気がしたのだ。
「そんな都合が良いわけがないよな」
そのお面を眺めるのにも飽きて、でもそのまま部屋に飾るのも薄気味悪かったので、押入れの中にしまうことにした。
その夜、嫌な夢を見た。あの鬼のお面をつけた何者かに追い掛け回されている。次第に彼との距離が詰まり、背中を掴まれ押し倒された。そして、僕の首に彼の手が回り凄い力で締め上げてくる。僕は力一杯振り解こうとした。その拍子で彼のお面が外れた。その素顔は鬼の形相であったが、僕自身だとはっきり分かった。
そこで目が覚めた。全身汗びっしょりとなったのでシャワーを浴びた。そして、あのお面を押入れから取り出し、あの悪夢のせいで恐怖感が一段と大きくなってしまったので、それを近所に捨てることにした。
それから、もうあの悪夢のことは気にしないようにして、普段通り朝ご飯を食べながら、ニュースを見た。そのニュースでは何やら近所で通り魔殺人があったとの報道を見た。僕はその時は、その出来事については大して興味も示さなかった。
僕は大学生の一人暮らし。でも、将来何をやるのか何がやりたいのかも決められず、ただ惰性のまま大学生活を送っていた。今日もただ単位のためだけに大学へと行く。
「おはようっ!」
僕はぼーっと歩いていたため、突然の声にびっくりした。声の主は同学年の知り合いである楓であった。
「あ、ああ。おはよ」
僕も返事だけ返した。楓は大学の女の子で唯一、普通に話せたが、人見知りの僕は楓と深い関係になることもなく、ずっとただの友人のままだった。
「通り魔だって……。怖いよね」
朝のニュースの事だ。やはり女の子にとっては気になることらしい。
「気をつけてね。男の子だからって襲われないとは限らないし」
楓はもう講義が始まると言って、駆けて行った。僕も講義が始まりそうだったので、講義室へと急いだ。
にゃあ……。その時、一匹の猫が僕の前を通り過ぎた。ちょっとびっくりしたが、よく見ると愛らしい子猫であったので、僕は立ち止まり手招きをした。
痛っ。子猫は僕が差し出した手を引っ掻いた。
「すみません」
声がした方を振り返ると、そこにはなんだか場違いな服装の少女が立っていた。それは何と言ったか、ゴスロリって言うんだっけ。お人形さんが着るような可愛い服を少女は着ていた。明らかにこの大学の学生ではない。少女は、何というか無表情という表現が一番当てはまるだろう。動かないと、まるで本当の人形のようにも見えてしまいそうだった。
「この子やんちゃなの……」
少女は深々と頭を垂れた。僕はそこまで気にしていなかったので、別に大した傷じゃないと言った。僕は立ち去ろうとしたが、少女が呼び止めた。
コレ……、とだけ言われて手渡された。僕は一瞬で血の気が引いた。あのお面だ。
「朝、あなたが落としているのを見たもので」
「立派なお面ですね。今度は無くさないようにしてください」
その時、僕は捨てたのだと正直に言うのもなんだか気が引けたので素直に受け取ることにした。
「お面ってね。自分の正体を隠してくれるものだけど、時には逆に自分の心を代わりに映してくれるものでもあるの……」
ゴスロリの少女は何やら話し始めた。それは独り言のようにも聞こえた。僕は講義もあってその場を早く離れたかった。
「それは大切にした方が良いよ。きっと役に立つから」
僕は会釈だけ返し、その場を去った。
その日は、あのお面とか、少女の意味深な言葉のせいで講義には集中できなかった。その日の講義を終え、帰路についた。
その日の夜も奇妙な夢を見た。何処かで悲鳴が上がった。今どうやら誰かが逃げ回っているようだ。前回と違って、僕ではない誰かが何者かに追われている。だが、僕には何に追われているのか分かっていた。
どうやら追い詰められてしまったようだ。僕は隠れてその光景を覗いていた。追われていたのは女性で、追っている方は……やはり、昨日の夢に出たあの鬼のお面の男だ。手にはナイフを持っている。お面の男がナイフを女性に向けた。僕は恐怖でうずくまっていたが、あのお面の男をどうしても止めなければならないという気持ちが抑えきれず、勇気を振り絞ってお面の男に飛びかかった。
その後の展開はだいたい昨日と同じだ。僕が殺されそうになって、お面の男の正体が僕自身でそこで目が覚めるというオチ。夢のことなので、気にしないようにと心がけた。あのお面はどうしたかというと、昨日の夜の内に捨ててしまった。近所だとまた誰かに見られるのが嫌だったので、僕の家からだいぶん離れた山の中に放り投げてきた。
今日も通り魔のニュースをやっている。まだ犯人は捕まっていないようだ。
「今日、一緒に帰ってくれない?」
今日の講義が終わって、偶然会った楓から声をかけられた。
「今日ちょっと用事があって遅くなるんだけど、ほら。最近物騒でしょ? だから、さ」
これは願ってもないことだった。少なくとも僕は楓に好意があったので二つ返事で引き受けた。
楓を待っている間、暇だったので大学内をぶらぶらとして暇を潰していた。
にゃあ……。
見覚えのある猫を見かけた。すると、思ったとおり、例のゴスロリの少女もそこに居た。また偶然会ったと一瞬思ったが、その手に持っているものを見て、身がすくんだ。
あの鬼のお面だ……。
「これ……」
少女がお面をこちらに差し出した。
僕はその手を思いっきり弾いた。
「いい加減にしろっ! 僕はそれを捨てたんだよ!」
僕は声を荒げたが、少女は少しも動揺せず、落ちたお面を拾い、大事なもののように汚れを払った。
「お前は何なんだよ? 昨日も付けていたのか? 僕に付きまとうなよ。警察呼ぶぞ?」
少女は相変わらず、冷静であったが、ごめんなさいとだけ言うと、もうそのお面を渡そうとはしなかった。僕もこの少女と関わっていると気味が悪かったので、その場を去ろうとした。
「気をつけて」
去り際に、背中越しに少女がそう言ったのが聞こえた。少しだけ振り返ると、それまで無表情だった少女の顔に哀れみのようなものが見えた。僕は気にすることなく、その場を去った。
楓の用事が終わるのが割と遅く、辺りはもう暗くなっていた。
「ごめんね。付き合わせちゃって」
僕は楓の家まで送って行くことになった。こんな絶好の機会は二度とないとは思っていたが、僕は特に何もすることが出来ず、楓の言葉に適当な相槌を打つぐらいしか出来なかった。無事に送ることが出来ればそれでいいや、と思っていたその時。
突然、路地裏から眼の前に何者かが現れた。
あの鬼のお面の男だ。
一瞬、これも夢かと思ったが、楓の叫び声で、これは夢ではないと確信した。
お面の男……。いや、よく見ると、あれは女?
それにあの服は見たことがある。そう。あのゴスロリの少女だ。
そうだ。あのお面はあの少女が持っていたはずだ。だから、あのお面を彼女が持っているのは当然、と思った瞬間。少女が僕に飛びかかってきた。そこで僕の意識が途絶えてしまった。
気が付くと、僕は別の場所に立っていた。人気の無さそうな路地裏だ。ふと目を移すと、そばで楓がうずくまっている。楓に呼びかけようとしたが。
「来ないでっ!」
楓は明らかに僕に対して拒絶を示した。僕はその時、顔に違和感を覚えた。顔にへばりつくようにして何かが付いている。僕はそれを引き剥がした。あの鬼のお面。確かさっきまであの少女が付けていたはず。僕はお面を取ったことで楓の反応が変わるかと期待したが、相変わらず僕を恐れているようだった。
しかし、その場所がどういう場所が思い出すにつれ、僕の身体に戦慄が走った。あの悪夢で最期に辿り着く場所。よくよく辺りを見ると、赤い鮮血の跡がいたる所に飛び散っている。そして、そこには……人、だったものもあった。
楓が悲鳴を上げた。僕は鬼のお面を見た。以前見たときよりもより醜悪な顔つきになっているように見えた。
まさか……、この鬼のお面が?
この鬼のお面が僕の身体を乗っ取り、通り魔殺人を繰り返していたのか?
有り得ない。そんな事は有り得ない。
そう思いつつも、次第に殺された人の感触が思い出されていく。そう。あの日は絞め殺した。あの日はナイフで刺し殺した……。
気を保つことが出来ず、錯乱状態になりながらも、僕自身、そしてそのお面に対する恐怖は絶頂に達し、お面を地面に投げ、足で思いっきり踏み潰した。
パキッという木が砕ける音が確かにした。
路地裏の暗がりから少女の姿が見えた。少女は手鏡を僕に対して向けていた。
そこに写っていたのは、僕では無かった。そう。鬼だった。
ゴスロリの少女は猫を抱えて、路地裏から出た。辺りは警察が詰め掛けていた。少女は警察に見つからないようにその場を離れた。
「にゃあにゃあ。もう喋っても良いかにゃ?」
少女に抱えられた猫はするりと少女の腕から抜け出した。
「良いよ。たぶんこの辺ならもう大丈夫」
「にゃあ。危なかったにゃ~。木葉もあの男に殺されかねない勢いだったにゃ」
「私は大丈夫。そんなに簡単には殺されない。それにこのお面、あの人にどうしても返さないといけなかったし」
「そもそもあの男は何であんなにそのお面を怖がっていたのにゃ?」
木葉と呼ばれた少女はあの場所から拾ってきた割れたお面を見つめた。割れたお面を合わせると、そこには見るからに穏やかそうな老人の顔が出来上がっていた。決して鬼の形相などではない。
「さあ? あの人にはこのお面が鬼のようにも見えたのかもね。お面はその人の心情を映すものでもあるからね」
このお面を手に入れた青年は自分を変えたいと思っていた。自身が元々持っていた殺人衝動を抑えられるように変わりたかったのだ。そのために選んだのがこの穏やかな老人のお面だったのだ。だが、いつしか自分の本性とお面を入れ替えてしまった。だからお面が鬼の姿に見えてしまったのだ。少女はそれを分かってもらおうとして、このお面を彼に何度も返そうとしたのだ。
「でも、どうして木葉はあのお面をあの男に返そうとしたのにゃ? 男の鬼のような本性とお面が入れ替わって万事問題なかったんじゃないのにゃ? 最期はあのお面のせいで男は錯乱してしまったんじゃないのにゃ?」
「ん~。そうね。でも、いくらお面を被って偽ったところでいつかはバレるものよ。私はただ真実を伝えたかっただけ。どうしても分かってくれなかったから、結局最後は自分の姿を見せてやったけどね」
少女は微笑を浮かべて手鏡を取り出した。
「木葉は何を考えているのか、小生には分からないにゃ……」
「分からなくていいよ。猫に分かられたら逆に悔しいから」
にゃあ……、と猫は呆れたような声で鳴いた。
「さて。子猫ちゃんのご主人様を早く見つけないと、ね」
ゴスロリの少女は猫を連れて、闇の中へと消えていった。
……。
僕の足元には男の死体が転がっていた。
それが自分自身だと気が付いて、ここが夢の続きだと分かった。
これが本当の自分。
僕はこの醜い自分を受け入れ、今までの罪を受け止めた。
それは辛くて悲しくどうしようもなかったが、なぜだが、清々しい気分でもあった。
それは、そう。ちょうどお面を外してありのままの自分の顔を見せた時のような気持ちの良い感覚であった。