第1話・親にあらず・第2項
陰踏、クラブ巫女に集う。
東京JR四ッ谷駅からおよそ五分。雑居ビルの地下1階にクラブ巫女はある。
店のドアにはすでに〈本日貸切〉の貼り紙。海尾わたると望月乙女は、そのドアをそっと押した。
店にはろうそくの明かりだけが瞬いていた。カウンターやソファーにいくつかの人影が見える。
「これで全員だな」
わたるの耳に聞き覚えのある声が届いた。陰踏の総帥、服部蔵人の声だ。
「忙しいところ、みなよく集まってくれた。話の前に少し紹介しておこう。乙女の隣に立っているのが、海尾わたるだ。はるばる九州からきてもらった。齢は36。これからみなと一緒に働いてもらうことになる」
暗闇の中の人影が、それぞれのやり方でうなずいた。
「時間があまりない。乙女。みなに詳細を」
「それでは早速。なみだの名は高桑雄太。現在6歳の男児です。なみだにはかつて弟がいました。一昨年の夏、2歳のときに車の中で死にました。母親がパチンコ店で遊戯中の出来事で、なみだは彼の弟が息をしなくなるまで、同じ車にいました。その弟が息を引き取る直前、窓の外に母親の姿が見えました。そのとき、母親はうっすらと笑っていたそうです。今度は僕が、ママに殺されるかもしれない。そう話してくれました。なみだはいま、ひどく怯えています。なみだの話では、母親はいま、新しい父親と山中湖へ旅行中。戻るのは明後日の予定だそうです。明日、わたしと海尾とで直接会いに行く予定です」
服部蔵人は乙女の話を聞きながら、事実をひとつずつ確認するようにうなずいている。
「では、みなに聞きたい。面倒かもしれないが、1度わたるに名を言ってから話し始めてほしい」
「話の続きの前に、ちょっとだけいいかしら」
カウンターの奥から、オペラ歌手がアリアを歌うときのような声が響いた。みんながそちらを見る。
「ねえ、蔵人。新人君のために雰囲気を作りたいのはわかるけど、これじゃああんまり暗すぎるわ。ひとつだけ灯りをつけてもいい?」
クラブ巫女に明かりが灯った。全員が眩しそうに目を細める。暗闇の中では怪しく見えた人影も、光の下では街行く人々とそう変わりはない。
「こんばんは。あたし、望月八千代。もう三十年以上、このクラブのオーナーをしてるわ」
わたるはカウンターの奥にいる八千代に向かい、ぺこりと頭を上げた。金髪。透き通るような白い肌。真っ赤なルージュ。紫のスーツが地味に見えるほど、メリハリの利いた面立ち。服部蔵人とはふた周り以上歳が離れて見える。
「じゃあ、俺から話そうか」
蔵人の隣に座る小柄な男が口を開いた。登山ジャケットにジーンズ姿。ボサボサの髪に濃い眉毛、数日剃っていない無精ひげを蓄え、まるで黒澤映画の用心棒みたいな顔をしている。
「おっと、忘れてた。俺は風間相太。普段はフリーのジャーナリストをしてる。よろしくな。蔵人さんにはもう話したけど、みんなには乙女の話を少し補足する。事件については、2年半前に裁判が終わってる。事件の当日、なみだの母親の高桑エミリは、朝9時から知り合いの男とふたりで東京郊外のパチンコ店に入って、午後5時まで8時間も遊戯に興じた。当日の日中の気温は38℃。裁判では、炎天下に幼子を放置した保護責任の意識の欠如とその過失の重大さが問われた。エミリは裁判で『こんなことになるとは思わなかった。たいへんいけないことをしてしまった』と証言しただけだ。4年の求刑に対して、下された裁きは実刑2年。そしてこの春に刑期を終えて出てきた」
「アホみてえな女だな。そんなことになるなんて小学生でもわかるだろ!」
ソファーにどっかりと腰を下ろしている男が、怒鳴るように言った。茹で上がった蟹のように、顔を真っ赤にして怒っている。座っていてもそれとわかるかなりの大男で、シャツを脱ぐのにひと苦労しそうなほど二の腕が太い。まるで赤鬼だ。
「いまのが、根来久紀さん。下町で旋盤工場の社長をしてる。私たちに必要な道具を作ってくれる人よ」
わたるの隣で乙女がぼそぼそと呟く。
「ちょっと社長。話が終わるまで我慢してよ。俺だって頭にきてるんだからさ。いい、冷静に聞いててよ。出所後の高桑エミリは、すぐに男と一緒に暮らし始めている。当然なみだの高桑雄太も一緒だ。でもどうやらこの男、2年半前の事件当日、パチンコ店にエミリと一緒にいた男らしい。男の名前は水野竜也。渋谷でいまもうだつの上がらないホストをしてる」
「それって本当の話なのかい?」
根来の向かいに座る優男が口を挟む。
「ああ、どうやらな」
「じゃあ何? なみだは母親と一緒に弟を死なせた男とひとつ屋根の下に寝起きしてるってこと。しかもその男が新しい父親になるって、母親から告げられている。まったく僕にはアンビリーバブル過ぎる現象だ」
男はそう言って両手を大きく左右に広げた。まるで俳優みたいだ。いちいちリアクションが大きい。ハリウッドのアクション映画のヒーローの隣くらいなら、出演していてもさほど違和感はないだろう。
「伊達黒輝さん。六本木で心理カウンセラーをしてる。女性を口説かせたら日本で5本の指に入るでしょうよ」
乙女は鼻で笑った。伊達が話を続ける。
「僕はその少年の心理状態が心配だな。乙女さんのところに自分ひとりで電話してきたんだろうから、よっぽど切羽詰った状態だろうね」
伊達の隣には細い朱色のふちのメガネをかけた学生風の女がいる。スカートからはみ出た膝の上で、しきりと右手の人差し指を動かしている。
「あの女の子。何してるんですか」
わたるは小声で乙女に聞いた。
「長島伊勢さん。大事なことを膝にメモする癖がある。そして1度メモしたら、二度と忘れない。東部大学生物学部の学生で、まだ三年生なのに研究員をしてる。専門は自然毒物研究よ」
カウンターに腰掛けた服部蔵人は、目を閉じたまま腕組みをし、熟慮を重ねているようだった。
「それで、どうするの? 蔵人」
望月八千代が蔵人に言葉を促す。蔵人は何かを納得したようにひとつうなずくと、陰踏たちに向かって指示を出す。
「おそらく、今回の仕置の場は山中湖になる。ブン屋はすぐに山中湖へ。乙女は明日、なみだの少年、泡溜が戻り次第、水野竜也。心理は同じくエミリ。社長と学生は待機。次の集合は1週間後にしておくが、今回の仕置は予断を許さない。急な連絡にも即座に対応できるようにしておいてくれ」
一堂がうなずく。
「わたしは水野のことをもう少し調べておくわ。この世界はわりと狭いから」
そう言ってから、八千代はジタンに火をつけ、紫の煙をゆっくりと吐き出す。
「よろしく頼む。それから、みなには念のために言っておくが、我らが探るべきは表に見えている事象ではない。泡溜の心根だ。やつらの心根を探れ」
ふたたびクラブ巫女の灯りが消された。陰踏の一団はそれぞれ街明かりの中へ姿を消していく。どこへ行くべきかわからず、わたるは乙女の背中を追った。後をついていく間、乙女に聞きたいことが山ほどあった。とくに自分が名を呼ばれなかったことについて、乙女がどのように考えているのか。それが知りたかった。
(第1話・第2項/了)
※第3項、すぐにアップします。




