第1話・親にあらず・第1項
世にはびこる悪に、まっとうな裁きを下す。
仕置の徒、登場。
この世には悪がある。
信じがたい悪がある。
どこかで誰かが泣いている。
助けてくれよと泣いている。
誰かが討たねば。
我らが討たねば。
流れた涙は報われない。
財団法人市民保護センター御用聞課は、もう黄昏に包まれつつある。
「毎日ひとりで寂しいだろうけど、死んだって何もいいことはないよ」
海尾わたるは昼食も取らずに、受話器に向かって朝からひとりで懸命にしゃべり続けている。
「大丈夫。おばあちゃんはもうひとりじゃないよ。俺がついてる。寂しくなったら俺を孫だと思って、いつでも電話してきてよ。たまにはこっちからも会いに行くからさ」
海尾わたるは小1時間の長話を終え、ようやく受話器を置いた。他の電話を確認したが、保留中だった電話はすべて切れてしまっていた。
隣では女上司が熱心に爪を研いでいる。それが1日の内で最も大事な仕事だとでも言いたげだ。
「ちょっと乙女さん。保留中だった3つの電話はどうなったんですか?」
望月乙女はすべての電話を銀色のヤスリで指し示す。いちいち言葉で説明するのが面倒なようだ。
「ところで、いまの、だれ?」
「高橋トメさん。今年で78歳。台東区のアパートでひとり暮らし。身寄りなし。死ぬ方法を教えてくれって」
「死なないわね」
少し鼻で笑ったあと、乙女は即答した。
「なんでそんなことわかるんですか。おばあちゃんの声、いまにも首を吊りそうな感じでしたよ」
乙女は事務椅子をゆっくりと90度回し、わたると向き合った。乙女の鋭い視線がわたるを射抜く。
「聞こえなかったわ。いのちの声が」
吸い込まれそうなほど深く青みがかった碧の虹彩。その瞳で見つめられると、わたるは何も言えなくなってしまう。まるで魔法でもかけられたみたいに。
「ねえ、この3日でもう3度目だからよく聞いて。自分に与えられた本当の仕事を忘れるないで」
そう言い終えると、乙女は自分のデスクに向き直り、日誌の新規欄に高橋トメの年齢、性別、住所、電話番号を記入した。そしてふたたび、熱心に爪を研ぎ始める。
わたるはひとつ大きなため息をつきながら、御用聞にやってきてからの3日間を思った。仕事といえば、ずっと電話を取り続けること。ここには自分と乙女の他にも、男女2名の職員が在籍している。でもこのふたりは、昨日わたるが相談にのった相手の家に出向いて行ったきり、朝から戻ってこない。
「乙女さん。これでもう3日ですよ。いったいいつになったら、その本当の仕事っていうやつがくるんですか」
乙女からは何の反応もない。わたるはまたひとつ大きなため息をつきながら、席を立った。
「どこにいくつもり」
乙女の鋭い視線がわたるに向けられる。
「別にサボるつもりはないですよ。僕だって出るものは出るんです。それに」
「しっ!」
ひんやりとした銀色のヤスリが、わたるの唇に当てられた。
「ちょ、ちょっと何ですか。突然。危ないじゃないですか」
「我慢なさい」
「はぁ? ほんとに漏れそうなんですけど」
「いいから黙ってて」
乙女は強引にわたるの肩を抑えて座らせる。それからわたるの目の前にある電話を食い入るように見つめた。
「来るわよ」
「何がですか。出前でも取ったんですか」
「そんなとこよ」
3秒後――。
電話が鳴った。受話器を取りかけたわたるの手を、乙女は遮った。乙女は青みがかった碧の瞳でわたるを見つめながら、
「いのちの声が聞こえるわ」
と呟いた。それから、ゆっくりと受話器を持ち上げた。
「こちら、市民保護センター御用聞課です」
そう言ったきり、望月乙女は沈黙した。受話器の向こうから声は聞こえてこない。けれども乙女の耳にはすでに、相手の命掛けの声が聞こえているのだ。
わたるは、この3日間で初めて、乙女の真に迫る眼差しを見た。青みがかった碧の瞳には、まるで受話器の向こうの相手の様子が見えているみたいだ。透き通るような白い肌が、瞳の碧をより際立たせている。高く筋の通った鼻、官能的な真っ赤な唇。よく見なくても相当な美人であることは、わたるにもよくわかっている。
乙女の赤い唇がようやく動いた。指先がメモを取る。
「ぼく、お名前は? タカクワ、ユウタ、くんね。近くにお母さんはいる? そう。出かけてるのね」
電話の相手はどうやら男の子のようだ。わたるは乙女の手元にあるメモを見て、そんな見当をつけた。
「お母さんと新しいお父さんとの旅行はいつまで? そう。あさってなの。じゃあ、それまでは大丈夫なのね」
乙女はしゃべり終えると、次はユウタくんの言葉に耳を傾ける。わたるの耳には乙女が話す言葉しか伝わってこない。
「ユウタくん。明日かならずこちらから会いに行くわ。でも念のために、いまからお姉さんが言うことをよく聞いて。万が一、今日お母さんと新しいお父さんが家に戻ってきて、ふたりの様子が変だと思ったら、すぐに家を出なさい。タクシーに乗って、これからお姉さんが言う住所を運転手さんにしっかり伝えるのよ。お金の心配はしなくていいから。それと、110番は絶対にダメ。警察に駆け込んでもダメよ。じゃあ、お姉さんの言ったこと、繰り返してみて」
最後に、乙女は自宅の住所を告げたあと、その電話を切った。そしてすぐさま携帯を取り出すと、誰かに忙しなくメールを打ち始めた。
わたるの携帯が鳴った。
画面は〈クラウディ〉からの着信を知らせている。着メロは石原裕次郎の〈赤いハンカチ〉シブい設定だ。
隣では、望月乙女の携帯が同じメロディを奏でている。わたるは乙女の目を見た。
「服部さんからですね」
乙女は素早くわたるの口に銀のヤスリを当て、首をゆっくりと横に振る。ヤスリの先端が目の前で怪しく光る。
「はじめて?」
わたるは背筋に寒気を感じながら、目だけでうなずいた。
「ここでその名前を出してはダメ。そろそろ他のふたりが帰ってくる」
市民保護センター御用聞課内で、電話の主クラウディについて知っているのは、わたると乙女のふたりだけである。クラウディというのは単なる符号で、電話の主の本当の名前は、服部蔵人という。警視庁地域総務課に籍を置いている。しかし、これは表向きの顔である。本当の顔は別にある。さきほどの〈赤いハンカチ〉は、メンバーに緊急招集を告げるためのものである。
「わたしがさっきメールで知らせたの。クラウディはさっきの男の子を〝なみだ〟と認めたわ」
「じゃ、じゃあ」
乙女は碧色の瞳を輝かせながら、ゆっくりとうなずいた。
「四谷のクラブ〈巫女〉は知ってるわよね」
「はい。そこでクラウディと初めて会いましたから」
乙女は腕時計を確認した。時刻はもう少しで午後6時を差そうとしていた。
「きょうは課長の机に日誌を置いて、定時に出るわ」
乙女がお色直しをする間、わたるはちょうど1週間前のできごとを思い出していた。クラブ巫女のカウンターで隣に座る服部から、自分のこれからのことについて説明を受けた。
わたるは日本全国を股にかける秘密組織〈風の会〉のメンバーである。さらにその組織の中には、〈陰踏〉と呼ばれる少数精鋭の集団が存在している。わたるは今年の春、陰踏に抜擢されたばかりである。
「〈なみだ〉は放っておけねえ。我らの仕事はただひとつ。そのなみだを救うこと。〈泡溜〉は消さねばならない」
ブランデーグラスを揺らしながら、服部はそう言った。〈陰踏〉における〈なみだ〉とは、この世でその命を不条理な危険に晒されている人々のことを示す隠語である。それに対して〈泡溜〉とは、悪(灰汁)の塊を指す。つまり、なみだを泡溜から救うことが、陰踏の重要な仕事である。
――いよいよ本当の仕事か。弱きを助ける期待と、強きを挫く不安がない交ぜになって、わたるの胸中に広がった。
〈第1話・第1項/了〉




