彼の名は
城に戻ると、かなたは青年と狼を自分の部屋へと招き入れました。
それから、厨房へと向かうとそこにいた料理長に軽い食事を作ってもらいました。すでに夜も更けていたため、かなた自身の食事がまだだったからです。
そして、近くを通りかかったメイドに青年に着せるための服をもらってかなたは部屋へと戻りました。
部屋に戻ると、青年が部屋の隅にある本棚を眺めていました。
その本棚は、隅にあると言っても本棚自体がとても大きいため、存在感がありました。
青年の頭以上もあるそれには、中一面びっしりと大小様々な本が並べてあります。
「かなたは本が好きなのか」
青年に持ってきた服を手渡しながらかなたはうなずきました。
「どんな本を読むのだ」
「本なら何でも、です。
始めは兄上にならってただ目を通していただけだったのですけど、気がついたらいつの間にか僕が本好きになってしまったみたいで。
兄上も僕の本好きにびっくりしていました」
「我もよく、本を読め、と言われたものだ。だが、その時は本なぞにはさほど興味はなかったからな。今にして思えばそれをちゃんと聞いておかなかった事を後悔している」
かなたが持ってきた青いシャツに手を通し、その肌触りを確かめます。
「また、服を着る事が出来るとは思わなかったな。
こうして服を着ると、自分が人間だったと実感出来る」
「でも、どうして白い狼の姿でいたのですか」
言ってからしまった、とかなたは思いました。聞いてはいけないとかなた自身が思っていたからです。
「すみません、聞いてはいけない事でしたか」
「いや、かまわぬ。しかし、我も理由はよく知らぬのだから、かなたが満足出来る様な答えは出来ない」
すまぬな、そう言って青年はまた本棚へと視線を移します。
「ただ、これだけは言える。
我をこの呪いの鎖から解き放ってくれたのは間違いなくかなただ。それは間違いない事であるし、我はその事に感謝している」
「僕はただ、その白い毛に触れてみたくて手を出しただけです。呪いを解くなんてそんな大それた事は考えてもみませんでした」
そう言うと、かなたは自分の手を見つめました。
何のへんてつもない自分の小さな手がかなたの目の前にあります。この手が少なくとも人ひとりの呪いを解いた事がかなた自身、とても信じられなかったのです。
「王家の者なのだ、先祖にそういった力を持った者がいたのだろう」
「確かに、先祖にそういった力を持っていた人もいます。ですけど、先日来た魔法検定士は僕に魔力はない、と言ってました」
この者は魔法使いには向かないでしょう。
白い髭を生やした魔法検定士がため息まじりに言っていたのをかなたは思い出していました。
そして同時に、気にする事はないよ、と優しく慰めてくれた兄のともしびの笑顔も思い出していました。
つい最近の事なのに、かなたにはそれが遠い日の出来事に思えました。
「魔法検定士の言う事なぞはいっときなものだ。何しろ、世界は常に変わっていくもの、人もまたしかりだからな」
「でも、魔法に関する勉強は何一つしていませんが…」
そうつぶやくかなたに、青年は何も答えません。そして、この話は終わりだとばかりに話を切り替えました。
「ところで、何か切るものはないだろうか。髪が邪魔なので切りたいのだが」
青年が自分の長い髪を一房握りしめます。
かなたが机の引き出しから鞘に収まった小刀を取り出すと、青年に差し出しました。
「この部屋の奥に姿見があります。そこを使ってください」
「それはありがたい」
小刀を手に青年は奥へと消えました。
ベッドのそばに目をやると、緋色の瞳の狼が尻尾に顔を埋めて眠っています。
時々、うっすらと眼を開けてはその緋色の瞳でかなたを見つめています。
まるで、かなたの様子をうかがっているかの様です。
かなたもまた、そんな狼の様子を何気なく眺めます。
どの位、そうしていたでしょうか。
狼が緋色の瞳を奥の方へと向けました。
かなたもそれにつられて奥の方を見ました。
奥から出てきたのは、長い髪をざっくりと切った青年の姿でした。
銀色の髪は肩ほどまで切られています。
顔にかかっていた髪も切られてそこに隠れていた顔が姿を表していました。
銀色の髪に隠れていたのは、まだ幼さの残る少年の顔でした。
髪と同じ銀色の瞳、白い肌はそのままでいれば、女性を振り向かせるほどの美しさではありましたが、右目の古傷がそれだけではない、精悍さを醸し出していました。
ざっくりと髪を切ったものの、切り損ねたのでしょうか、長い髪がひと房、肩にかかっています。
青年のそばに狼が近づきます。
そんな狼の背中を青年は優しく撫でました。
「あの…」
おずおずと、かなたがたずねます。
青年が狼の背中に手をかけながら銀色の瞳でかなたを黙って見つめます。
「どうして、そんな泣きそうな顔をしているのでしょうか」
一瞬、青年がきょとんとした顔をします。それから、何か思い当たったのでしょう、寂しそうに笑いました。
「気にする事はない。ただ昔の事を思い出していただけだ」
なおも心配そうな顔をしているかなたに、青年は今度は屈託のない笑顔を向けました。
「かなたがそんな顔をする事はない。これは我自身の事だからな。しかし、心配してくれた事に感謝しよう」
それから、不意に真面目な顔でかなたに言いました。
「かなたよ、もし、そなたが良ければ、我とこの者をかなたの側に置いてもらえないだろうか」
「僕の側にですか?」
青年のこの突然の申し出に、かなたがきょとんとしています。
「でも、どうしてですか」
「かなたの事が気に入ったからだな、きっと」
青年が楽しそうに笑います。
「腕には自信がある。用心棒としてはもってこいだと思うぞ」
確かに、とかなたは思いました。
一緒にいた時間は長くはありませんが、白狼の姿の時にかなたを襲わなかったばかりでなく、逆に心配してくれた事から彼は悪い人ではない、そう思ったからです。
「もし、我を疑うのならどうだろう、我に名前をつけてもらえないのだろうか。そうすればかなたも我を信用してくれると思うが」
「それは出来ません」
かなたが慌てて首を振りました。それがどんな意味を持つかわかっていたからです。
「それをしてしまったらあなたの自由はなくなってしまいます。せっかく呪いがとけたのに、どうして僕があなたの自由をまた奪わないといけないのでしょう」
「その一言だけでも我はかなたに頼んだ甲斐があると言うもの。
しかし、我はやはりかなたに名をつけてほしいのだ」
「でも…」
なおも渋るかなたに、青年は静かに微笑みます。
「この姿を見てわかったのだ、我の人としての人生はすでに終わってしまったのだな、と。
長い間あの姿でいたからな、すでに我の身体は魔力によって保たれていると言ってもいい」
「でも、それがどうして僕に名前をつけてほしい事と関係あるのでしょうか」
「人としての人生が終わってしまったせいだからだろうか、我は自分の名前を覚えていないのだ。
もちろん、誰でも、と言う訳ではない。なら人の姿に戻してくれたかなたにお願いするのがすじかと思ったまで」
いかがだろうか、そう青年がかなたにたずねます。
王家の者から名を賜る事、それは同時に王家に忠誠を誓う事でもありました。
そして、その誓いを破ったが最後、その名によってその者に災いがふりかかるとも言われていました。
王家の一員であるかなただけに、それが如何にその者の人生を変えかねないか、よくわかってました。
「僕は、あまりそう言った事は好きではありません」
少しうつむき加減になりながらかなたが呟きます。
「名前でその人に忠誠心を誓わせるなんて、本当にそれでいいのでしょうか。忠誠心はそれで縛りつけてはいけないと思うのですけど…」
「そうだな」
青年がうなずきます。
「しかし、我はそんな事に関係なく、かなたから名前をもらいたい」
青年の、銀色の瞳がかなたを見つめます。
その姿を見て、かなたは考えこんでしまいました。
どの位、そうしていたのでしょうか。
「わかりました」
青年の真摯な態度にかなた自身も吹っ切れたのでしょう、大きくうなずきます。
「あなたに会う名前を考えます。気にいっていただけるかわからないのですけど…」
しばらく考え、かなたは口を開きました。
「…はやと…はどうでしょう」
「…かなたは優しいな」
銀髪の青年、はやとはそう言って優しく微笑みました。




