狼の群れ
どのくらい、そうしていたのでしょうか。
いつの間にか泣き疲れたのでしょうか、大木の幹に寄りかかってかなたが眠っています。
すでに日も暮れて、夜になっていました。
森の木々に囲まれたその広場に星は見えるものの、月はまだ見えません。そのせいか、森の中は薄暗く、辺りも薄ぼんやりとしか見えません。
その中を、カサカサと草を踏む音が聞こえてきます。
その音で、かなたは目を覚ましました。
同時に、音が止みます。
代わりに、その薄暗闇の中に、赤い物がいくつも浮かび上がりました。
寝ぼけまなこの目を擦りながらかなたがそれに手を出そうとしたその時でした。
ゆっくりと、月明かりが木々の間から青白い顔をのぞかせ始めました。
その月明かりが、赤い物の正体をさらします。
その目の前の光景に、かなたの手が止まりました。
かなたの前にいた物、それは。
たくさんの狼達。
赤く浮かび上がっていたのは、その狼達の、爛々と輝く瞳。
狼達の前に、かなたは動く事が出来ませんでした。
逃げなくては。
そう思いながらもかなたは立つ事すら出来ません。
その中の、狼達の中でもひときわ大きい一頭がかなたの前へと出て来ました。
「ほう、我らを見て逃げないのか」
舌をダラリとさせながら狼はかなたを見つめます。
「いや、違うな…。その顔は腰が抜けて立ち上がれない、そんなところだろう」
まるで、この場を楽しんでいるかの様なその声を聞いているうちに、狼に対する恐怖心は徐々に収まり、目の前の狼を見る余裕も出てきました。
月明かりに、狼の姿が浮かび上がります。
他の狼とは違う白い毛並みが月明かりに反射して時折銀色に輝きます。
その姿は王者の風格すら漂わせるものでした。
かなたがその美しい姿にしばし見とれていると、その白い狼は夜露に濡れた花の上に、ゆっくりと腰を下ろしました。
それから、自分の姿をまじまじと見ているかなたに向かって、たずねます。
「この姿が珍しいのか」
まじまじと見ていた事に気を悪くしたと思ったかなたは恥ずかしさに顔を真っ赤にしてうつむきました。
「白い狼は確かに珍しいからな。ましてや人の言葉を話すんだ、そうやって物珍しげに見たくもなるだろう」
白い狼の瞳が訝しげにすうっと細くなります。
「それにしても、なぜ子供がここにいる。夜の森は何が起こるか解らん。お前が今ここで我に食われても文句は言えないぞ」
「え、食べちゃうのですか…」
かなたの前に自分を取り巻く狼達の姿が見えます。
かなたには、その姿が今にも飛びかかってくる様に思えました。
「生きるためだからな」
白い狼はそうつぶやきました。
しばらく、静かな時が広場に流れます。
「何だ、逃げぬのか」
細い瞳のまま、白い狼がたずねます。
「逃げたいのだけど…」
狼逹を見ながらかなたが言います。
「これだけ囲まれていたら逃げてもどうせ捕まりますし、それに、ここにいる僕が悪いのですから、食べられても仕方ないのかな、と思って…」
「ほう」
白い狼は前足を曲げ、身体を横たわらせます。
狼逹が襲いかかってくるのを予想していたかなたは、白い狼のその予想外の行動に不思議に思いながらもたずねました。
「あの、僕を食べないのですか」
「何だ、食べてほしいのか」
眠たそうなその顔を前足の上に乗せて白い狼はかなたに聞き返します。
「そんな事はないです」
あわてて、かなたは首と手を振って否定しました。
「ただ、どうして食べないのかな、そう思って」
いつの間にかあれだけいた狼逹の姿が見えません。
「今はそうする理由もないからな。今回は見逃してやるから家へ帰れ」
「…今は帰りたくありません」
白い狼が上目遣いにかなたを見上げ、すぐ興味なさそうにまた瞳を閉じます。
眠ったのかな、そう思いながら白い狼の顔を見ていると、不意に、その瞳が細く開きます。
「だからって、ここにずっといる気か」
そう言われて、かなたは何も言えなくなりました。
そんなかなたに、白い狼は話しかけます。
「ここにいてもお前に食事を持ってくる者も、お前に新しい服を与える者もいない。全ては自分で何もかもやらないといけないのだぞ。
それに、ここにはお前を守る者もいない。お前みたいなひよっこは他の動物にすぐ食われてしまうぞ」
「でも、僕は今までここに何回か来ましたけど、そんな怖い動物ひな一度も会った事はありませんでした」
「それは多分昼間だったからだろう。夜は我ら以外の狼や熊も出る。今なら間に合う、家に帰ったらどうだ」
心配するような素振りもなく、ただ淡々と言う白い狼に、かなたは首を横に振ります。
白い狼もまた、それ以上は何も言わずに黙って眼を閉じました。
そのうち、寝てしまったのでしょうか、くう、くう、と規則正しい寝息がかなたの耳に聞こえてきました。
しばらく眠っている白い狼を見ているうちに、ふと、かなたはその白い狼の毛並みを触ってみたくなりました。なぜなら、その毛並みはふわふわしていてとてもさわり心地がよさそうに思えたからでした。
(ちょっとだけなら…)
触れたらもしかすると白い狼は起きてしまうかもしれません。最悪、起きてしまったら怒ってそのままかなたを食べてしまうかもしれません。
それでも、今のかなたには恐怖心より好奇心が勝っていました。
手を伸ばし、おそるおそるかなたはその白い狼のキラキラ光る首をそっと、軽くなでました。
その時でした。
白い狼が不意に淡く輝きだしたのです。
あわててかなたは手を引っ込めたものの、白い狼は淡く輝いたままです。
同時に、白い狼が身体を起こします。
その前足が宙に浮きます。そして、かなたの目の前で前足は徐々にその姿を変えていきました。
白い毛がなくなり、代わりにしなやかな白い手が姿を見せます。
同時に、身体を被っていた白い毛皮がずり落ちて、代わりに白い肩が姿を現しました。
それと同時に、その肩を覆うかの様に、長い白銀の髪が緩やかに流れ落ちていきます。
そして気がつけば、かなたの目の前には白い狼ではなく、腰まである白銀の髪と白い肌の青年が座っていたのでした。
白銀の髪に隠れて青年の顔は見えません。
驚いているかなたの目の前で青年は両手を胸の高さまで上げます。
それから、それが自分の手だと確認するかの様に両手を眺めたり、ゆっくりと開いたり閉じたりを繰り返します。
しばらくそうしていたでしょうか。
両手を下ろすと顔をあげてかなたを見ました。
半ば髪に隠れた顔がかなたを見つめます。
目の前で起こったこの出来事にかなたはただただ驚いて声が出ません。
そんなかなたに白銀の髪の青年が声をかけました。
「お前が何故驚くのか」
青年の目の前で、かなたはただ声もなく驚いたままです。そんなかなたに青年がもう一度声をかけると、ようやっと我に返りました。
「その…。目の前の出来事にびっくりしてしまって…」
おどおどしながらもかなたが答えます。
かなたの言葉に、青年も納得したのでしょう、軽くうなずきました。
「言われてみれば、確かにそうだな」
白銀の髪に顔が隠れて、その表情はかなたからは読み取れません。しかし、その声はどことなく楽しそうな様子が伺えます。
「お前、名を何と言う」
「え?」
唐突に言われてかなたはきょとんとしています。
「恩人にお前呼ばわりは悪いからな」
青年に言われるままにかなたは自分の名前を名乗ります。
「僕はかなたと言います。あの…、恩人って、どう言う意味ですか」
「言葉通り、見た目通りだな」
口元に笑みを浮かべて青年が答えます。
それ以上何も言わないので聞いては悪いのかと思い、かなたが何も言わないでいると、いつの間にか数頭の狼が青年の側に近づいて来ました。
その狼達を見回して、青年は言います。
「すまぬ、我はもうお前達のもとには戻れぬ。後はお前達の好きにするがいい」
しばらく名残惜しそうに青年の回りにいた狼達でしたが、やがて一頭を残して森の中へと消えて行きました。
残った一頭の狼が、緋色の瞳で青年を見つめます。
青年の白い手が伸びてその狼の首を愛しげに撫でました。
「これ以上我に付き合う事はないだろうに…。本当に物好きだな」
苦笑いを浮かべている青年の気持ちを知ってか知らずか、その狼は青年のそばに近づき、ごろん、と寝そべります。
「仲がいいのですね」
青年と狼の様子を見ているうちに、いつの間にかかなた自身、笑みがこぼれていました。
「かなたとは違った意味で助けてもらったからな」
寝そべっている狼からかなたに視線を戻して青年がいいました。
「かなたに訪ねたいのだが、この我が働ける所はないだろうか。我の知り合いはもうこの世にはいないであろう。自分の食いぶちは自分で稼がないといけないからな」
「それなら、父上に頼んでみましょうか。もしかしたら城で働けるかもしれません」
「それはありがたい」
青年の口元が嬉しそうにほころびます。
「かなたはそこで働いているのか」
「言うのも恥ずかしいのですが…。僕は王家の者です」
「恥ずかしいなんて事はないだろう。むしろ誇らしい事ではないか」
青年の言葉に、かなたは首を横に振ります。
「そうなのでしょうか。
最近、父上も兄上もお城の者達も何となくよそよそしい気がしてならないのです。それどころか、明朝、僕に、西の別館へ行きなさいと、言うのです」
そして、ぽつりと呟きました。
「僕は嫌われているのかな…」
そのまま、かなたは黙りこんでしまいました。
どの位そうしていたのでしょうか。
「かなたがそんなに落ち込んでも仕方ないではないか。それに、回りの者達にその理由は聞いたのか」
かなたがうなずきます。
「みんな、平和の儀礼が近いからと言うのです。今回から兄上が儀礼を任される事になって、それが理由ではないかと言っているのです。
でも、兄上はどんなに忙しくても僕の事は気にかけてくれました。だから、今回の事は僕にとっても初めてでどうすればいいかわからないのです」
目の前の白い狼だった青年を見ながらかなたは何故彼にこんな話をしているのだろう、そう思っていました。
「すみません。見ず知らずのあなたにこんな話をしてしまいまして」
「かまわぬよ」
青年がうなずきます。それから、かなたに長い白銀の髪に隠れた顔を向けて、言いました。
「それで、かなたはどうなのだ」
「どう…とは」
急に訪ねられたかなたは、その聞かれた意味がわからずにきょとんとしています。
「今のかなたを見ていると自分はすべての者達に自分の事を否定されている、そう思うのだろう。
でも、かなた自身はどうなのだ」
青年に聞かれてかなたは少し考えています。
どの位そうしていたのでしょうか、やがて顔を上げてかなたは言いました。
「僕自身はよくわかりません」
「そうだろうな」
青年がうなずきます。
「他人が否定しても、自分自身は否定出来ない。いや、それをしてはいけないのだろう。
かなたよ、もっと自分自身に自信をもってもよいのだぞ。それにまだ若いのだ、かなたが今これから見た事、聞いた事をしっかり勉強すればいい。そうすれば、自ずとみなが認めてくれる。
そのためにはまず」
青年がにっこりと笑います。
「自分はいらない人間だと思うのをやめる事だな。そして、かなた自身もこの時の流れを見て自分から動けばいい。人の顔色ばかり伺っては何も出来ないぞ」
ゆっくりと立ち上がり、かなたに声をかけました。
「それでは、城へと参ろうか。この月明かりなら帰れない事はない。この森は我にとっては庭の様なものだからな」
かなたもまた、青年に習って立ち上がります。
そのかなたの前で青年が持っていた毛皮を羽織りますと、たちまち、あの白い狼へと姿を変えました。
「乗っていけ。その方が速い」
戸惑いながらも、その大きな背中に乗り、その手を首に絡ませます。
かなたを振り落とさない様に気をつけながら白い狼が音もなく走り出します。
その横を、緋色の瞳の狼が音を立てずに駆けて行きました。