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第50話 長く、何かを我慢してきた人の数値です


王宮の東の庭の奥に、小さな東屋があった。

楓の林に囲まれた、白い石の東屋。屋根の下に、小さな円卓と、椅子が二脚。

秋が、深まっていた。

楓の葉が、真っ赤に色づいていた。風が吹くたびに、葉が一枚、また一枚と、東屋の屋根に落ちてきた。

アルトは、その東屋の椅子に座っていた。

向かいの椅子に、王女が座っていた。

二人きりだった。

侍女が一人、楓の林の入口に控えていた。東屋から、声の届かない距離に。

付き添いの母は、王宮の控えの間で待っていた。「お茶会よ。二人きりの」と聞いて、母は朝から三回卒倒しかけた。


王女は、茶を淹れていた。

手袋のまま。

白い、肘の上まである手袋。その上に、もう一枚、薄い手袋を重ねていた。

二重の手袋で、ポットを傾ける。茶碗に、琥珀色の茶が注がれる。

手つきは、丁寧だった。

一滴も、こぼさなかった。

王女は、茶碗をアルトの前に置いた。


「どうぞ」


静かな声だった。


「……ありがとうございます」


アルトは、茶碗を手に取った。

温かかった。

王女は、自分の茶碗にも茶を注いだ。

それから、椅子に座り直した。

背筋を伸ばして。両手を膝の上に重ねて。

ドレスは、深い蒼の絹だった。その上に、肩掛け。その上に、外套。

外套の襟が、顎の下まで立てられていた。

首筋は、見えなかった。


沈黙が、落ちた。

楓の葉が、屋根に落ちる音。遠くで、鳥が鳴く音。

王女は、何も言わなかった。

茶碗を、手に取ることもしなかった。

ただ、膝の上で手袋を重ねて、まっすぐに座っていた。

迫ってこなかった。

身を寄せなかった。囁かなかった。手に触れなかった。

香りも、纏っていなかった。

洗いたての布の匂いだけが、かすかに。


(……二人きりでも、同じなんだ)


侍女がいてもいなくても。女王がいてもいなくても。

この人は、何もしてこない。

アルトは、茶を一口飲んだ。

それから、言った。


「……殿下は、お茶を、召し上がらないのですか」


王女が、顔を上げた。

銀灰色の目が、アルトを見た。

今日は、すぐには逸らさなかった。


「……後ほど」


王女は、言った。

それから、少しだけ間を置いた。


「先に、お伺いしたいことが、ございます」


王女は、円卓の端に置いてあった、羊皮紙の束を手に取った。

紐で綴じた、薄い束だった。

表紙に、王立大神殿の紋章が押されていた。


「王家の権限で、取り寄せました」


王女は、手袋のまま、束を開いた。


「フェンネル卿の、天賦の儀からの、鑑定の記録の写しです」


アルトは、目を瞬いた。


(取り寄せた)


(王家の権限で)


王女は、頁をめくっていった。

一頁目。天賦の儀の日。


筋力十四。体力十六。敏捷十五。器用二十二。魔力十八。知力四十一。


その次の欄で、王女の指が止まった。

二重の手袋の、指先が。


「……精神」


王女は、その数字を、声に出して読んだ。


「八十五」


楓の葉が、一枚、円卓の上に落ちてきた。

王女は、それを払いもしなかった。

鑑定の記録を、見つめていた。


「一般の男性の、精神の平均は、十五前後と伺っております」


王女は、静かに言った。


「八十五は、その五倍を超えています」


それから、頁をめくった。

天賦の儀から、今日まで。定期鑑定の記録が、一週ごとに並んでいた。


八十五。八十六。八十七。九十。


遠征から戻って。


百四。


「……今は、百を超えていますね」


王女は、記録から顔を上げた。

銀灰色の目が、アルトを見ていた。

まっすぐに。

逸らさずに。


「この数値は」


王女は、言った。


「長く、何かを我慢してきた人のものです」


アルトは、動かなかった。

茶碗を、手に持ったまま。


(……え)


十八年。

天賦の儀の日、記録係のペンが止まった。セラフィナの声が止まった。


「何か、心当たりは」


聞かれて、アルトは答えた。


「……特には」


(十八年我慢してました)


誰にも、言わなかった。

セラフィナは、儀式の日に、口の端を見て、何かに気づいた。クラウディアは、花の香油の夕暮れに。リゼットは、心拍計の山脈に。マルグリットは、十二呼吸に。ロッサは、顔に書いてある、と。

五人とも、気づいた。

ただ、五人が気づいたのは、アルトが「何を」欲しがっているか、だった。

この人は、違った。

この人が見ていたのは、アルトが「どれだけ長く」それを抑えてきたか、だった。


「王家の情報網で、伺っておりました」


王女は、鑑定の記録を、円卓の上に置いた。


「天賦の儀の後、ほどなくして。フェンネル卿には、その」


王女は、少しだけ言葉を選んだ。


「……世界的に見ても、異常な、女好きの疑惑がある、と」


(バレてた)


(王家にまで、バレてた)


アルトは、穏やかな顔を保とうとした。

保てなかった。

顔が、少しだけ、熱くなった。

王女は、それを見ていた。

ほんの少しだけ、口元が動いた。

笑ったのかもしれなかった。分からなかった。すぐに、元の表情に戻ったから。


「それを聞いて、わたくしは、フェンネル卿に、興味を持ちました」


王女は、言った。


「……正直に、申し上げます」


「……はい」


「この国で、女を恐れない殿方がいる。それだけで、わたくしには、十分に興味深いことでしたので」


王女は、膝の上で、二重の手袋を重ね直した。


「ですが」


銀灰色の目が、円卓の上の、鑑定の記録を見下ろした。

精神、八十五。


「この数値を見て、別のことを、知りました」




「フェンネル卿は、女を恐れない」


王女は、言った。


「それどころか、女に、惹かれる。この国の殿方とは、正反対に」


「……」


「けれど、この国では、そのような殿方は、いないことになっております。いれば、病か、淫魔憑きを疑われる」


王女は、アルトを見た。


「ですから、フェンネル卿は、それを、隠してこられた」


楓の葉が、また一枚、落ちてきた。


「十八年間」


王女の声は、静かだった。


「誰にも、言えずに。誰にも、相談できずに。この国の、普通の殿方を、演じ続けて」

王女は、鑑定の記録の、精神の数字を、二重の手袋の指先で、そっとなぞった。


「その十八年が、この数字です」


アルトは、何も言えなかった。


誰にも、言ったことがなかった。

十八年。

家族にも。男友達にも。神官にも。騎士にも。研究員にも。商人にも。冒険者にも。

精神を貸して、本音を全部吐き出したときでさえ。

口から出たのは、鎖が最高だとか、跪く角度が完璧だとか、脇がいいとか。

欲しいものの話ばかりだった。

我慢していた、という話は、一度もしなかった。

我慢していたことは、自分でも、当たり前すぎて。

言葉に、したことがなかった。

それを、この人は。

鑑定の記録の、一つの数字から。


(この人も)


アルトは、王女を見た。

外套の高い襟。二重の手袋。首筋を隠す蒼い髪。迫らない。囁かない。触れない。香りを纏わない。

一杯だけの茶。


(この人も、何かを)


それは、王女の前で、初めて言葉になった内心だった。

崩れたのではなかった。微震したのでもなかった。

ただ、静かに、言葉になった。


(この人も、何かを、我慢してる)


「……殿下」

アルトは、言った。

声が、少しだけ掠れていた。


「なぜ、それが、お分かりになったのですか」


王女は、すぐには答えなかった。

円卓の上の、鑑定の記録を見つめていた。

それから、外套の内側に手を入れた。

もう一枚、羊皮紙を取り出した。

小さな、折り畳んだ羊皮紙だった。

王女は、それを、円卓の上に置いた。

アルトの方へ、そっと押しやった。


「……わたくしの、鑑定の写しです」


アルトは、目を見開いた。

王族の鑑定の記録は、王家の秘密だった。誰にでも見せるものでは、なかった。

王女は、それを、差し出していた。

アルトは、羊皮紙を開いた。


エリシア・アズール十八歳女

筋力35(+80)/体力40(+80)/敏捷40(+80)/器用45(+80)

魔力50(+80)/知力60(+80)/精神110(+80)

スキル:【臣従の冠】


全部の項目に、括弧書きで、八十が加算されていた。

それは、後で考えることにした。

アルトの目は、一つの数字に、止まっていた。


精神。

素の値で、百十。


アルトの、百四より、高かった。


アルトは、顔を上げた。

王女が、こちらを見ていた。

銀灰色の目が、まっすぐに。

逸らさずに。


「同じ数字を、毎日、鏡の中で見ておりますので」


王女は、静かに言った。

それだけだった。

それ以上は、何も言わなかった。

何を我慢しているのか。どうして、服が厚くなっていくのか。どうして、一杯だけの茶なのか。

何も。

アルトも、聞かなかった。

聞けなかった。

聞いたら、この人の、何かが壊れてしまう気がした。

二人は、しばらく、黙って向かい合っていた。

楓の葉が、円卓の上に、ひらひらと落ちてきた。

王女が、ようやく茶碗を手に取った。

一口だけ、飲んだ。

冷めていたはずだった。

それでも、王女は、ゆっくりと飲み干した。


王女が、立ち上がった。

アルトも、慌てて立ち上がった。


「本日は、ありがとうございました」


王女は、一礼した。

それから、自分の鑑定の写しを、円卓の上から取り上げた。

外套の内側に、しまった。

アルトの鑑定の記録の束は、円卓の上に残したままだった。


「……殿下」


アルトは、思わず言った。

何を言うつもりだったのか、自分でも分からなかった。

ただ、何か言わなければ、と思った。


「殿下は、大丈夫、なのですか」


王女の動きが、止まった。

背を向けかけたまま。

外套の高い襟の上から、肩越しに、アルトを振り返った。

銀灰色の目が、一瞬だけ、揺れた。

それから、王女は、穏やかに微笑んだ。

初めて見る、王女の微笑みだった。

完璧な微笑みだった。


「お気遣いなく」


王女は、言った。


「わたくしは、平気ですので」


それから、背を向けて、楓の林の方へ歩いていった。

一度も、振り返らなかった。

アルトは、東屋に立ったまま、その背中を見送っていた。

外套の裾が、赤い楓の葉を、静かに払っていった。

王女の、二重の手袋の指先が。

歩きながら、体の脇で、小さく、震えていた。



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