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第3話 定期鑑定、一回目


鎖が、増えていた。

神殿の奥、廊下の突き当たりにある小鑑定室。 扉を開けた先で待っていたセラフィナを見て、アルトはまずそれに気づいた。

一週間前、奥の間で見たときは、肩から斜めに走る鎖が二本だった。 今日は三本ある。

新しい一本は、まだ銀の色が明るかった。 胸の下を通って、背中へ回り、反対の肩から降りてくる。

結果として、胸の上に一本、下に二本。


(……増えてる)


「お待ちしておりました、フェンネル様」


セラフィナは、一週間前と同じ柔らかい声で言った。 目だけが、一週間前より少しだけ落ち着かなかった。


「本日より定期鑑定を担当いたします。どうぞ、お掛けください」


「よろしくお願いいたします」


アルトは静かに一礼した。


(なんで増えてるんだ)




小鑑定室は、奥の間よりずっと狭かった。

窓が一つ。机が一つ。椅子が二脚。 机の上には、奥の間のものより一回り小さな水晶板が据えられている。

壁際には小さな棚があって、乳香の香炉が細い煙を上げていた。

扉の外には、付き添いの長姉エルゼが控えている。 男性保護法では、外出時の付き添いは原則として同じ部屋にいなければならない。ただし純潔の鎖をつけた神官との面会に限っては、扉の外でよいことになっていた。

神官は縛られているから、安全だというのが理屈だった。


(その理屈、今日で崩れそうなんですけど)


「では、水晶板に両手を」


言われた通りに手を置く。

セラフィナが机を回り込んできた。 彼女の手首の枷から伸びた鎖は、今日は壁の金具に繋がっている。その長さいっぱいに、彼女はアルトの真横に立った。


「定期鑑定は、儀式のものより精度が低いのです。ですので、どうしても近くで見なければなりませんで」


「……そうなのですね」


「失礼いたします」


彼女が、身を屈めた。

水晶板を覗き込むために。 アルトの肩越しに。

金色の髪が、アルトの耳のすぐ横で揺れた。


(近い)


乳香の煙の奥から、あの匂いがした。 一週間、ずっと思い出していた匂い。陽だまりに置いたミルクのような、柔らかくて甘い匂い。


(いい匂い)


アルトは目を閉じた。


(2)


(3)


(5)


「鑑定を、始めます」


耳元で声がした。


(7)


(声)


(11)


水晶板が淡く光った。


「筋力十四、体力十六、敏捷十五」


彼女が数値を読み上げる。 一つ読むたびに、吐息がアルトの頬をかすめた。


(13……17……)


「器用二十二、魔力十八、知力四十一」


鎖が、しゃら、と鳴った。 新しい鎖だった。古い鎖より、音が少しだけ高い。


(19……鎖が増えてる……23……)


「精神、八十五」


彼女の声が、そこでほんの少しだけ止まった。


アルトは目を閉じたまま、横顔に視線を感じていた。


読み上げのたびに、彼女はこちらを見ている。 数値を読み、顔を見る。また数値を読み、また顔を見る。


(29……31……)


「スキル、【ステータス貸与】。レベル一。……前回と、変化はございません」


「そうですか」


声は、落ち着いていた。


(37……41……43……)


セラフィナが体を起こそうとして、鎖が机の角に引っかかった。 彼女は小さく声を上げて、もう一度身を屈め直した。

さっきより、近かった。

新しい鎖が、彼女の胸の下を締めつけて、そこが法衣の上からはっきりと形を持っていた。 アルトの目の前、手を伸ばせば届く距離で。


(47……49……あ、49は素数じゃない……)


(むり)


「……異常は、ないようですね」


アルトは目を開けて、穏やかに言った。


「ありがとうございます、セラフィナ殿」




鎖を机の角から外すのに、少し時間がかかった。

セラフィナは顔を赤くしながら、手首の枷ごと鎖を引っ張っている。 縛られた腕では、うまく角度がつけられないらしい。


「お手伝いしましょうか」


「い、いえ! 殿方に触れていただくわけには」


彼女は慌てて首を振った。


「神官の側から男性に触れてはならない、という誓いがございまして。触れていただくのも、その、紛らわしいので」


「失礼しました」


アルトは手を引っ込めた。


(神官の側から、ね)


鎖がようやく外れた。 セラフィナは小さく息をついて、机の向こうの椅子に戻った。

記録簿を開く。 ペンを取る。 数値を一つずつ、丁寧に書き込んでいく。

アルトはその手元を見ていた。

縛られた腕で書くのは不便そうだったが、字は驚くほど整っていた。 一つ書くたびに水晶板の表示を確かめて、一画も間違えないように。


「丁寧に、書かれるのですね」


「神の前で記すものですから」


彼女は顔を上げずに答えた。


「一つでも偽れば、それは神に嘘をつくことになります。……私には、できません」


書き終えて、ペンを置く。

それから、彼女は顔を上げた。


「フェンネル様」


「はい」


「一つ、お伺いしてもよろしいでしょうか」


空色の目が、まっすぐにこちらを見ていた。


「儀式の日、なぜ……」


彼女はそこで言葉を探した。 探して、探して、結局一番素直なものを選んだ。


「……なぜ、あのようなお顔を」


来た、とアルトは思った。

一週間、考えていた答えがあった。 何度も頭の中で繰り返して、声の調子まで決めてあった。

アルトは少しだけ目を伏せて、静かに言った。


「男として生まれた以上、覚悟はしておりました」


間を置く。


「どのようなスキルを授かろうと、それが神の御心なら、受け入れる。そう決めて、あの日を迎えましたので」


完璧な模範解答だった。 天賦の儀の手引書に、そのまま載せられるような。


「……そう、ですか」


セラフィナは頷いた。

頷いて、それ以上は何も聞かなかった。

ただ、目は納得していなかった。 一週間前と同じ目だった。


(信じてないな、まだ)


彼女の視線が、ふっと下がった。 アルトの顔から、胸元へ。それから机の上の、自分の手首の枷へ。

彼女は枷を見つめたまま、小さな声で言った。


「鎖を、一本増やしました」


「……気づいておりました」


「神官長様に申し出て、新しく支給していただいたのです」


彼女は新しい鎖の上に、指先をそっと置いた。


「儀式の日、少し……落ち着かなかったものですから。もう一本あれば、心が静まるかと思いまして」


(逆効果です)


(完全に逆効果です)


「……静まりましたか」


聞いてから、しまったと思った。 聞くべきことではなかった。

セラフィナは、ほんの少しだけ首を傾げた。


「……分かりません」


彼女は鎖から指を離した。


「この鎖を巻いて、今日を待っておりましたら、なぜか余計に」


そこで彼女は、自分が何を言いかけたのかに気づいたらしかった。

白い頬が、みるみる赤くなった。


「し、失礼いたしました。本日の鑑定は以上です」


「……はい」


アルトは立ち上がった。


(余計に、なに)


(余計に、なんなんですか)


聞けなかった。 聞いたら、たぶん何かが終わる気がした。あるいは、始まる気がした。




扉に手をかけたとき、背中で声がした。


「フェンネル様」


振り返る。

セラフィナは椅子に座ったまま、膝の上で縛られた手を組んでいた。 窓からの光が、金色の髪の縁を白く光らせていた。


「この部屋には、たくさんの殿方が鑑定にいらっしゃいます」


「ええ」


「皆さま、床ばかり見ておられます」


彼女の声は、静かだった。


「鎖をつけた神官の前で、殿方は顔を上げられません。怖いのだと思います。目を合わせたら、何かされるのではないかと」


彼女は少しだけ笑った。 困ったような、寂しいような笑みだった。


「私は、そういうものだと思っておりました。神官とは、殿方にとってそういうものなのだと」


アルトは何も言えなかった。


「……フェンネル様は」


彼女は、そこで言葉を切った。

続きは言わなかった。 ただ、空色の目でアルトを見ていた。

床ではなく、自分を見ていた男を。


「……また、来週。お待ちしております」


「……はい。また、来週」


アルトは一礼して、扉を開けた。




廊下では、エルゼが壁にもたれて待っていた。


「終わった?」


「はい。異常なしとのことです」


「そう。よかった」


姉はアルトの顔を覗き込んだ。


「顔が赤いわよ。暑かった?」


「香炉の煙が、少し」


「あそこ狭いものね」


二人で並んで、神殿の長い廊下を歩く。

石の床に、二人分の足音が響いた。 アルトは一定の歩幅を保ちながら、頭の中でずっと同じことを考えていた。


(来週)


(あと、七日)


(……七日って、長くないか?)


一週間前までは、十八年待てた。 それが今は、七日が長い。


(いや、待てよ)


アルトは歩きながら、通達の文面を思い出していた。

週に一度の定期鑑定。スキルの安定を確かめるため。


(安定しなかったら、どうなるんだろう)


神殿の大扉の手前で、エルゼが足を止めた。


「あ、手袋」


「手袋?」


「さっきの部屋の前の長椅子に置いてきちゃった。取ってくるから、ここで待ってて」


姉は小走りで廊下を戻っていった。

アルトは大扉の脇で、春の陽射しが差し込む中庭を眺めていた。





帰りの馬車の中で、エルゼが言った。


「ねえ、アルト」


「はい」


「あの神官様、何かあったの?」


アルトは窓の外から姉に目を移した。


「何か、とは」


「手袋を取りに戻ったらね」


エルゼは膝の上の手袋を指先でいじりながら、首を傾げた。


「扉が少し開いてたのよ。それで、中が見えたんだけど」


アルトは黙って続きを待った。


「あの神官様、あなたが部屋を出たあと」

姉は不思議そうに言った。


「真っ赤な顔で、壁に額をつけていたわよ。鎖をじゃらじゃら鳴らしながら」


「…………」


「具合でも悪かったのかしら。来週、何か差し入れでも持っていく?」


「……そう、ですね」


アルトは窓の外に視線を戻した。

馬車が揺れる。 王都の街並みが、ゆっくりと後ろへ流れていく。


(壁に、額を)


(鎖を、鳴らしながら)


アルトは膝の上で、静かに拳を握った。


(来週まで、もたない)



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