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第14話 跪きました。ご命令を


「本日の訓練、終了しました」


夕暮れの訓練場で、クラウディアが片膝をついた。

砂の上に、右の膝。 左の拳を、立てた左膝の上に。 背筋は、跪いていても一本の線のようにまっすぐだった。

灰色の目が、下からアルトを見上げていた。


「走り込み、一周と四分の一。素振り、四十一回。腕立て伏せ、三回。いずれも前日比で向上。以上、ご報告いたします」


「……ありがとう、ございました」


アルトは、穏やかに答えた。


(毎日)


(毎日、これ)



計画書の最後の頁に書いてあった通りだった。

騎士団の慣例。 訓練の終わりには、指導役が対象に跪き、本日の終了を報告する。

本来は、新任の騎士が教官に対して行う作法らしい。 教わった側ではなく、教えた側が跪く。教えを受け取ってくれたことへの、礼として。

それを、クラウディアは毎日、一日も欠かさず行った。

最初の日、アルトは何が起きたのか分からなかった。

訓練が終わって、砂の上に座り込んでいたら、目の前で騎士が跪いた。 長身の、黒髪の、副長が。

自分を、見上げて。


(……っ)


二日目も、跪いた。

三日目も。四日目も。

アルトは毎日、その瞬間のために、残りの体力を取っておくようになった。 倒れていると、跪かれても見えないからだ。


(こんなことのために、走り込みの最後の四分の一を)


(いや、こんなことじゃない)


(これは、大事なことだ)



二週目に入って、アルトの体は、少しずつ変わり始めていた。

朝の準備運動で、倒れなくなった。 走り込みは、一周を越えた。素振りは四十回を超えた。腕立て伏せは、三回。

三回。

最初の日、ゼロ回だったものが。


「三回目。……記録しました」


クラウディアが手帳にペンを走らせるとき、その声がほんの少しだけ弾むのを、アルトは聞き逃さなかった。


「副長殿」


「はい」


「嬉しそうですね」


クラウディアのペンが、止まった。


「……計画が順調に進んでいるので」


「ああ、計画が」


「はい。計画が」


彼女は手帳を閉じた。 耳の先が、わずかに赤かった。

神殿の定期鑑定でも、変化は出ていた。

体力十六が、十八になった。 筋力十四が、十六になった。

セラフィナが水晶板の数値を読み上げながら、少し寂しそうに言った。


「騎士団の方々は、お上手なのですね。体を、鍛えるのが」


「副長殿が、真面目な方なので」


「……そうですか」


その日、彼女は鎖を一本、多めに巻いていた。



三週目の、ある日のことだった。

その日は、蒼薔薇騎士団の休日だった。

月に二度、騎士たちは訓練を休む。 詰所は静かで、訓練場には誰の姿もなかった。

ただ一人を除いて。


「本日は団の休日ですが」


クラウディアは、いつも通りの直立で言った。


「計画を中断するわけには、まいりませんので」


「……休日なのに、副長殿が」


「休日だからです」


彼女は、きっぱりと言った。


「任務ではありません。私的に、計画の続きを見るだけです」


(私的に)


その日の彼女は、騎士服ではなかった。

動きやすい、簡素な麻の上衣。 黒髪は、いつも通りに束ねていた。けれど、束ね方が少しだけ緩かった。

訓練は、いつも通りに進んだ。

準備運動。走り込み。素振り。腕立て伏せ。 アルトは息を切らし、汗をかき、砂の上に座り込んだ。

夕暮れが、訓練場を茜色に染めていた。




「本日の訓練、終了しました」


クラウディアが、アルトの前に片膝をついた。

いつもの作法だった。 右の膝を砂に。左の拳を左膝の上に。背筋はまっすぐ。

灰色の目が、下から見上げていた。

いつもの光景。 三週間、毎日見てきた光景。

けれど、その日は一つだけ違った。

跪いた彼女の体から、ふわりと、何かが立ち上ってきた。

革でも、鉄でもなかった。 剣の手入れ油でも、石鹸でもなかった。

甘い。 淡い。

花の匂いだった。


(……え)


ほんのかすかな香りだった。 近くに、跪かれるほど近くにいなければ、絶対に分からないほどの。


(花)


(花の、匂い)


(この人から?)


「走り込み、一周と二分の一。素振り、四十七回」


クラウディアが報告を続けていた。 淡々と、正確に。いつも通りに。


「腕立て伏せ、四回。いずれも前日比で向上」


風が吹いた。

花の匂いが、もう一度、ふわりと揺れた。 彼女の左の手首のあたりから。


(いい匂い)


「以上、ご報告いたします」


報告が、終わった。

いつもなら、ここでアルトが「ありがとうございました」と答えて、彼女が立ち上がる。

アルトの口から出たのは、別の言葉だった。


「……いい香りですね」


自分でも、驚くほど自然に出た。


「花の」



クラウディアが、固まった。

跪いたまま。 左の拳を膝に置いたまま。

灰色の目が、大きく見開かれていた。

一呼吸。 二呼吸。

彼女の顔から、すっと表情が消えた。

それから、耳の先から、赤くなっていった。

耳の先。耳たぶ。首筋。頬。 夕陽のせいではなかった。夕陽よりも、ずっと赤かった。


「……気づかれ、ましたか」


声が、かすれていた。

報告のときの、あの一分の揺れもない声ではなかった。


「何年も」


彼女は、跪いたまま、視線を落とした。


「何年も、誰にも、気づかれなかったのです」


アルトは、黙っていた。


「任務のない日だけ。ほんの一滴だけ。騎士が香りを纏うのは、規律に反しますので」


彼女の左手が、膝の上で握りしめられていた。


「誰かに気づいてほしくて、つけているのでは、ありません」


「……はい」


「ありません、と……思って、おりました」


風が、止んだ。

訓練場が、静かになった。

クラウディアは、顔を上げた。

その目は、もう報告のときの目ではなかった。



彼女は、ゆっくりと立ち上がった。

アルトは、彼女が帰るのだと思った。 今日はもう、何も言わずに。

違った。

クラウディアは、訓練場の端の武具架けまで歩いていった。 そこに立てかけてあった、自分の剣を取った。

鞘から、抜く。

夕陽を受けて、刃が茜色に光った。

彼女は剣を手に、アルトの前に戻ってきた。

そして、もう一度、跪いた。

右の膝を砂に。 剣を両手で捧げ持つ。刃を自分に、柄をアルトに向けて。

叙任式の、あの作法だった。

王女の前で、新任の騎士たちがしていたこと。 彼女自身が、誓約の更新でしていたこと。

それを、今、アルトの前で。

計画書のどこにも書いていない作法を。

灰色の目が、まっすぐにアルトを見上げていた。 頬は、まだ赤かった。唇が、かすかに震えていた。


「……跪きました」


彼女は、言った。


「ご命令を」


(——エッッッロ!!!)


アルトは、その場に立っていた。

穏やかな顔をしていた。 背筋も、ちゃんと伸びていた。

膝は、少し笑っていた。


(命令)


(命令って言った、今)


(この人、俺に、命令を求めてる)


目の前で、騎士が跪いていた。 剣を捧げて。花の匂いを纏って。耳まで赤くして。

ご命令を、と。

アルトの中で、十八年分の建前が、静かに音を立てていた。

断ればいい。 この国の男なら、誰でもそうする。「お立ちください」と言って、背を向ければいい。


(……無理だ)


(これを、断れる男は、この世界のどこにもいない)


(いや、この世界の男なら全員断るんだけど)


(俺には、無理だ)


「……仕方ありませんね」


アルトは、静かに言った。

それから、ほんの少しだけ考えた。

フェンネル家の屋敷には、母と姉たちがいる。 神殿の小鑑定室は、セラフィナの部屋だ。

だとしたら。


「私の家ではなく」


アルトの声は、少しだけ掠れていた。


「詰所の、副長室で」


クラウディアの肩が、ぴくりと震えた。

それは、命令だった。 彼女が求めた、最初の命令。

彼女は剣を捧げたまま、深く頭を垂れた。


「……拝命します」


夕陽が、訓練場の砂を茜色に染めていた。

付き添いのヘルガは、訓練場の端の日陰で、揚げ菓子を齧ったまま、口を開けて固まっていた。



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