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第12話 体力、十六


準備運動の途中で、アルトは倒れていた。

蒼薔薇騎士団の訓練場。初夏の朝の砂の上に、仰向けで。

空が青かった。雲がゆっくりと流れていた。


(……まだ、準備運動なんだけど)


周りでは、女騎士たちが何事もなかったように体を伸ばしていた。腕を回し、脚を開き、前屈して、跳ねる。軽々と。楽しげに。

その中で、アルトだけが砂の上に転がっていた。

影が差した。

見上げると、黒髪の女騎士が立っていた。

長い髪を、きっちりと束ねている。灰色の目が、上からアルトを見下ろしていた。

前回の合同訓練で、一人だけ組み手に入らず、帳面に何かを書いていた人だった。


「蒼薔薇騎士団副長、クラウディア・ヴァイスです」

彼女は、直立のまま名乗った。


「本日より、フェンネル殿の訓練を担当いたします。……起き上がれますか」


「……少々、お待ちを」


アルトは腕に力を込めた。

肘が、かくんと折れた。

クラウディアは、手帳を開いた。


「準備運動、開始から四分。腕回し二十回、屈伸十五回の時点で転倒」


ペンが、淡々と走った。


「記録いたしました」



アルトの体は、空っぽだった。

体力十六、筋力十四。この世界の男としては、ごく普通の数字だった。

その普通の数字から、今は神殿の方へ、かなりの量を貸し出している。セラフィナの祝福を満たすために、毎週の供給で、体の中身を少しずつ持っていかれている。

その状態で、女騎士の準備運動に混ざったのだから、倒れて当然だった。


「フェンネル殿」


クラウディアが、アルトの横に片膝をついた。


「計画書は、お読みいただけましたか」


「三十四枚、すべて」


「ありがとうございます」


彼女は少しだけ、目を細めた。嬉しそうに見えたのは、たぶん気のせいではなかった。


「では、改めてご説明いたします」


クラウディアは手帳を閉じた。背筋を伸ばし、まっすぐにアルトを見る。


「本訓練は、軍務院の打診を受けたものです。将来、騎士団とフェンネル殿のあいだに契約が成立することを見据えて、行います」


アルトは、砂の上で固まった。


(え)


(言うんだ、それ)


「貸与の量は、フェンネル殿の素の力に比例します。素の力が伸びれば、貸与も伸びる。騎士団としては、その方が得です」


「……はい」


「つまり、貴殿の素ステは」


クラウディアは、一語ずつ区切って言った。


「国家の資産です」


(隠す気が、まったくない)


この国の女たちは、たいてい本音を誘いの作法の中に包んで差し出す。身を寄せて、耳元で囁いて、香りを纏って。

この人は、違った。

目的も、理由も、損得も、全部を報告書のように並べて、まっすぐに差し出してくる。


(……逆に、新鮮)


「ですので」


クラウディアは立ち上がった。


「遠慮は、いたしません」



本当に、遠慮がなかった。

走り込み。訓練場を一周。アルトは半周で歩き始め、四分の三で膝をついた。


「走り込み、一周の四分の三。記録」


剣の素振り。木剣を五十回。アルトは二十回で腕が上がらなくなり、二十三回目で木剣を取り落とした。


「素振り、二十二回。二十三回目で落下。記録」


腕立て伏せ。アルトは一回目で、顔から砂に沈んだ。


「腕立て伏せ。ゼロ回。……記録」


最後の一言だけ、ほんの少し声が小さかった。

付き添いのヘルガが、訓練場の端の日陰で、揚げ菓子の袋を握りしめたまま固まっていた。


「アルト、生きてる?」


「……生きて、います」


「副長さん、もうちょっとこう、手加減とか」


「手加減は、いたしません」


クラウディアはきっぱりと言った。


「手加減をすれば、フェンネル殿の体は伸びません。体が伸びなければ、無理が溜まります。無理が溜まれば、いずれ壊れます」


彼女は手帳を胸に当てた。


「壊さないために、手加減しないのです」


ヘルガは口を開けて、何か言いかけて、閉じた。


(理屈は、分かる)


(分かるけど、今まさに壊れかけてる)



午前の最後は組み手だった。


「寝技は、計画書の通り除きます」


クラウディアが、木剣を置きながら言った。


「立ったままの、基本の取り口だけを。……お体に、触れてもよろしいでしょうか」


アルトは、少し間を置いた。


「……訓練、ですので」


「感謝いたします」


クラウディアが、正面に立った。


近かった。


背が高い。アルトより、拳一つ分ほど。鍛え抜いた長身が、目の前にあった。


「腕を、こう取られた場合」


彼女の手が、アルトの手首を掴んだ。

硬い手だった。剣だこのある、騎士の手。それなのに、掴み方は驚くほど丁寧だった。


「相手の重心は、こちらに来ます。ですので、半歩だけ、内へ」


彼女が半歩、踏み込んできた。

匂いがした。

革。鉄。剣の手入れ油。それから、几帳面に使い込んだ石鹸の、清潔な匂い。


(……っ)


「そこで、肘を」


彼女の腕が、アルトの肘に絡んだ。

汗ばんだ肌が、触れていた。朝からずっと訓練場に立っていた人の、熱を帯びた腕。


(……っ、っ)


「体を、こう回して」


クラウディアが、くるりと体を回した。

束ねた長い黒髪が、ふわりと宙を舞った。その毛先が、アルトの頬を撫でていった。


(汗……)


(鍛えた……腕……)


(革の匂い……と……髪……)


(あ、だめ)


「——今の動きを、ご自分でなさってみてください」


クラウディアが、一歩下がった。

アルトは、その場に立っていた。

穏やかな顔をしていた。背筋も、ちゃんと伸びていた。


「……はい。半歩、内へ、ですね」


(だめだった)



訓練が終わる頃には、アルトはもう立っていられなかった。

訓練場の端の木陰に、ヘルガと並んで座り込んでいた。水筒の水を、少しずつ口に含む。

クラウディアが、手帳を持ってやってきた。


「本日の訓練は、以上です」


「……ありがとう、ございました」


「明日も、同じ時刻に」


「明日も」


「計画書の通り、週五日です」


(週五日)


(神殿の鑑定が週三回)


(……体、もつかな)


クラウディアは手帳をめくって、何かを確かめた。

それから、ふと顔を上げた。


「フェンネル殿」


「はい」


「本日の記録を見る限り、貴殿の体は、ひどく消耗しています」


彼女の灰色の目が、まっすぐにアルトを見ていた。


「訓練の前から、です。私の訓練で消耗したのではなく、最初から空でした」


アルトは、黙っていた。


「理由は、存じております」


クラウディアの声は、静かだった。


「神殿の件、ですね」


「…………」


「責めているのではありません」


彼女は手帳を閉じた。


「ただ、計画を立て直します。貴殿が神殿に貸している分も、見込んだ上で。……壊さないために」


それだけ言って、クラウディアは一礼した。

背を向けて、訓練場の方へ歩いていく。

その背中を見送りながら、アルトは水筒を握りしめていた。


(……この人、真面目すぎる)


(真面目すぎて、全部、まっすぐだ)


隣で、ヘルガが揚げ菓子を齧りながら言った。


「あの副長さん、ちょっと怖いけど、いい人だね」


「……ええ」


「あたし、アルトが壊れたら泣くからね」


「壊れません」


「ほんとに?」


「……たぶん」



一週間が過ぎた。

アルトは毎朝、訓練場で倒れた。

ただ、倒れる場所が、少しずつ変わっていった。

準備運動の途中から、走り込みの途中へ。走り込みの半周から、四分の三へ。素振り二十二回から、二十八回へ。

腕立て伏せは、まだゼロ回だった。


「本日の腕立て伏せ」


クラウディアが手帳を構えた。

アルトは砂の上で、両腕を突っ張った。腕が震える。肘が震える。全身が震える。

体が、ほんのわずかに、持ち上がった。

それから、落ちた。


「……一回、と記録してよろしいですか」


クラウディアが、小さな声で聞いた。


「……持ち上がって、いましたか」


「指一本分ほど」


彼女は、手帳にペンを走らせた。


「一回。……記録しました」


その声が、ほんの少しだけ弾んでいた。


その日の訓練の終わりに、クラウディアが一通の書状を差し出した。


「来週、王宮で叙任式が執り行われます」


「叙任式」


「新任の騎士が、王家に剣を捧げる儀式です。騎士団の協力者として、フェンネル殿にも来賓としてご参列いただくよう、団長からの指示です」


アルトは書状を受け取った。

王家の紋章。蒼い封蝋。


「王女殿下も、お出ましになります」


クラウディアが、何気なく付け加えた。


「新任の騎士は、殿下の御前に跪いて、剣を捧げます」


アルトは、書状から顔を上げた。


(王女)


あの茶会の、空いた上座の席を思い出していた。冷めかけた茶。誰も手をつけなかった焼き菓子。

花の一輪もない、あの席。


(……どんな人なんだろう)



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