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第1話 十八年と、一本の鎖


「アルト。もし神官様が怖かったら、目を閉じていていいのよ」


朝食の席で、母がそう言った。 冗談の気配はどこにもなかった。

「大丈夫ですよ、母上」


(怖いわけがあるか)


アルト・フェンネルは穏やかに微笑んで、スープを口に運んだ。

今日で十八になる。 この国では春の成人の日に、その年に十八を迎える者が揃って歳を一つ取る。 そして男にとって、それは人生が決まる日だった。

向かいの席では、父のハインツが小瓶を三本並べている。 どれも薄い包み紙にくるまれていて、中身の名は見えない。 一本目、二本目、三本目。順番に飲み干して、深く息をついた。 目の下の隈は、アルトが物心ついた頃から一度も消えたことがない。


「父上。それ、毎朝飲んでますよね」


「……体に、いいんだ」


(何に効くんだろう、あれ)


父は多くを語らなかった。いつもそうだ。 準男爵という貴族の末席で、村一つの小さな領地を治め、法律で定められた三人の妻に誠実に務めを果たしている。正妻の母はこの屋敷に、あとの二人の夫人は村の別邸に住んでいる。それがどういう意味なのか、この家の誰もはっきりとは口にしない。


「いいスキルを授かって、優しい奥さん一人と穏やかに暮らすのよ」


長姉のエルゼが、アルトの襟元を直しながら言った。 二十四歳。しっかり者で、弟のこととなると少し過保護になる。


「そうそう。アルトの顔なら引く手あまただし」


次姉のヘルガが頬杖をついて笑う。


「あたしの弟じゃなかったら、今すぐにでも——」

「ヘルガ」


エルゼの手が、正確にヘルガの口を塞いだ。


「……今すぐにでも、なに?」


「なんでもないのよ、アルト。なんでも」


エルゼの笑顔は完璧だった。 ヘルガは姉の手の下でもごもごと何か言っていた。


(仲いいな、この二人)


アルトは席を立った。


「支度をしてきます」


「ええ。いってらっしゃい」


食堂の扉を閉めて、廊下を数歩進んだところで、背後から何かくぐもった悲鳴のようなものが聞こえた。 クッションに顔を埋めて叫んだときの音に似ていた。


(姉さんたちも緊張してるんだな)


アルトは少しだけ家族の愛情に胸を温めて、自室へ向かった。




この世界の男は、女が怖い。

それがアルトの生まれ落ちた場所の、一番目の常識だった。

女が八人生まれて、ようやく男が一人生まれる。 男は体が弱く、力も女に劣る。 そして男は、女ほど欲を持たない。持たないどころか、その手のことは消耗の種でしかない。

だから男は守られる。 外出には付き添いが要り、女が無断で男に触れれば罪になる。男の貞操は家の財産で、それを失った男は傷物と呼ばれる。 一度でも行為を経た男は、たいてい女を心の底から信じられなくなる。妻を迎えても寝所に怯え、家がうまく回らない。だから傷物の値は落ちる。

女は強く、飢えていて、そして基本的に男に優しい。 その優しさがときどき怖い。

男たちは幼い頃からそう教えられて育つ。 そして本当に、女を怖がる。


(——で、俺だけがこうなんだよな)


自室の鏡の前で、アルトは礼服の襟を整えた。

鏡に映るのは、濃い焦げ茶の髪に琥珀色の瞳の青年だった。 父譲りの顔立ちは、この世界では一級品らしい。街を歩けば女たちの視線が刺さる。付き添いの姉が睨みを利かせて、ようやく散る。


(前世だったら、この顔で人生イージーモードだったろうに)


前世の記憶は、ある時期からはっきりしていた。

日本という国。男子校の三年間。 教室も廊下も部活も、見渡す限り男しかいない三年間だった。 そこを耐え抜いて、ようやく大学の合格通知を手にした。共学だった。キャンパスがあり、サークルがあり、きっと何かがあるはずだった。

入学式の前日までは覚えている。 その先の記憶はない。

気がついたら、この世界で赤ん坊をやっていた。


(期待値が最大まで膨らんだ瞬間に、人生が終わったんだよな)


そして生まれ直した先は、男が女を怖がる世界だった。

アルトは怖くなかった。 むしろ逆だった。

体が大人になるにつれて、それは日に日に深刻になった。 女とすれ違えば目が追う。声が聞こえれば耳が向く。周りの男たちは誰ひとりそんなことにはならないのに、自分だけが。

相談できる相手はいなかった。 男友達に話せば、真顔で医者を勧められるだろう。

だからアルトは演じた。 貞淑で、控えめで、女の前では少し緊張しているふりをする、ごく普通のこの世界の男を。

完璧に演じきって、十八年。


(長かった)


鏡の中の青年は、静かに目を伏せていた。 誰が見ても、儀式を前にした慎み深い若者の顔だった。


(本当に、長かった)




王都大神殿の控えの間は、静まり返っていた。

今日、天賦の儀を受ける男は四人。 それぞれ付き添いの家族を外に待たせて、長椅子に並んで座っている。


「……顔色が悪いですよ、ユリウス殿」


アルトが声をかけると、隣の青年がびくりと肩を震わせた。

ユリウス・ヴァルデック。伯爵家の嫡男で、貴族の集まりで何度か顔を合わせた仲だった。 金の巻き毛の美青年だが、今は紙のように白い。


「アルト殿は平気なのか」


「平気、と言いますと」


「稀少なスキルを授かったらどうする。縁談が殺到するんだぞ。何人も、何人も……」


ユリウスは両手で顔を覆った。


「父上の友人に、高位のスキルを授かった方がいた。二十人の妻を娶ることになって、三年で髪が真っ白になったそうだ」


(二十人)


「……それは、大変ですね」


(二十人!?)


アルトは神妙な顔で頷いた。 頷きながら、内心では計算が始まりかけて、慌てて止めた。


「僕は平凡でいい」


反対側に座っていたフェリクス・ローデが、両手を組んで目を閉じていた。 子爵家の次男。穏やかで、いつも少し眠そうな顔をしている。


「平凡なら早く縁談がまとまる。優しい人と、一人だけ。それで十分だよ」


「でも、低すぎても困るんですよ」


一番端のトビアス・メルケが、膝を抱えて呻いた。 男爵家の三男。気が弱くて、何かあるとすぐに膝を抱える。


「低いと誰も貰ってくれない。高いと食い尽くされる。ちょうどいいのがいいんです。ちょうどいいのが」


三人が三人とも、処刑台の前の罪人のような顔をしていた。

天賦の儀。 十八歳の成人の日に、授与神アウレアからスキルを授かる儀式だ。 女にとっては職業の適性を知る晴れの日で、男にとっては違う。

男たちの間では、この儀式は俗にこう呼ばれている。

格付け、と。


(どっちでもいいじゃないか)


アルトは思った。 平凡なら、早く婚約して一人と。稀少なら、複数と。


(どっちに転んでも勝ちでは?)


「アルト殿」


ユリウスが顔を上げていた。 三人の視線が、こちらに集まっていた。


「今、何か言ったか」


「……いえ」


声に出ていたらしい。


「神の御心のままに、と。そう申し上げました」


「ああ……」


ユリウスは深く頷いた。


「強いな、アルト殿は」


「達観しているね」


「すごいです……」


三人の尊敬の眼差しを受けながら、アルトは穏やかに微笑んだ。


(あぶねえ)


扉が開いた。


「アルト・フェンネル様。お入りください」




奥の間は、乳香と蜜蝋の匂いで満ちていた。

高い天井。白い石の祭壇。その上に、両手で抱えるほどの大きさの水晶板が据えられている。 脇の書見台には、年配の記録係の神官が控えていた。

そして祭壇の前に、もう一人。

「本日の儀を務めます、神官のセラフィナ・リースと申します」

若い女だった。二十歳くらいだろうか。 ふわりとした金髪が、肩のあたりで柔らかく揺れている。

そして彼女は、鎖に縛られていた。

白い法衣の上から、銀色の鎖が幾重にも巻かれている。腕を体の脇に留め、腰に回り、肩から斜めに走って交差する。 手首には枷があり、そこから伸びた鎖の端は祭壇の脚に繋がれていた。

純潔の鎖。

神官が男に手を出さないよう、儀式のあいだ身を縛る神殿の作法だ。 女は強い。男は弱い。だから神の前でさえ、こうして縛っておかねばならない。

この世界の男たちは、この姿を見て安堵するのだという。 これで襲われずに済む、と。


(……え)


アルトは、安堵しなかった。


(いや、待って)


鎖は胸の上と下を通っていた。

法衣の上から締めつけられて、そこだけが不自然なほど前に押し出されている。 本人は気にしている様子もない。記録係も気にしていない。この世界の誰も気にしないのだろう。


(胸の、上下を、鎖が)


アルトの視線が、一瞬だけ止まった。


「あの……フェンネル様?」


セラフィナが小首を傾げた。 鎖が、しゃら、と小さく鳴った。


(音)


「失礼しました」


アルトは姿勢を正した。


「少し、緊張しておりまして」


「ええ、皆様そうです。どうか楽になさってください」


彼女は柔らかく微笑んだ。


「大丈夫ですよ。私はこの通り、縛られておりますから」


(それが大丈夫じゃないんですけど)


「お気遣い、痛み入ります」


声は落ち着いていた。顔も、たぶん平静だった。 十八年分の演技が、ここで初めて本当の試練に晒されていた。


「では、祭壇の前に膝をついてください。水晶板に両手を置いて、目を閉じて」


言われた通りに膝をつく。 石の床は冷たかった。

セラフィナが祭壇を回り込んで、すぐ横に立った。 鎖が届く範囲いっぱいまで。儀式の作法なのだろう。触れはしないが、近い。

近づいた瞬間、匂いが変わった。

乳香と蜜蝋の奥から、何か別のものが立ち上ってくる。 温かい。柔らかい。陽だまりに置いたミルクのような、ほのかに甘い匂い。


(……いい匂い)


「授与神アウレアの御名において」


彼女の声が、耳のすぐ近くで響いた。


(声、近い)


祈りの言葉が続く。 柔らかくて少しだけ掠れた声が、静かな奥の間に満ちていく。

アルトは目を閉じていた。 閉じているぶん、他の全部がよく分かった。

鎖の擦れる音。 衣擦れ。 すぐそこにある体温。 甘い匂い。


(あ、これ、だめなやつ)


「——その身に宿る天賦を、ここに示したまえ」


彼女が祈りの最後に、少しだけ身を屈めた。 鎖がまた、しゃら、と鳴った。


(エッッッロ!!!)


「……よろしくお願いいたします」


アルトの声は、完璧に落ち着いていた。




水晶板が光った。

手のひらの下から白い光が溢れて、奥の間を満たしていく。 眩しさに目を開けると、水晶板の表面に文字が浮かび上がっていた。


「鑑定結果を、読み上げます」


セラフィナが水晶板を覗き込んだ。 記録係がペンを構える。


「アルト・フェンネル様。十八歳。男性」


筋力 14 / 体力 16 / 敏捷 15 / 器用 22

魔力 18 / 知力 41 / 精神 85


「筋力十四、体力十六、敏捷十五……」


男としては標準的な数字が続く。 記録係が淡々と書き留めていく。


「知力四十一。これは高いですね」


「前世の……いえ、家庭教師に恵まれまして」


(あぶな)


「精神……」


セラフィナの声が止まった。


「……八十五?」


記録係のペンも止まった。


「失礼。もう一度」


「八十五、です」


「男性の平均は十五前後のはずですが」


二人の視線が、アルトに向いた。


「何か、心当たりは」


(十八年我慢してました)


「……特には」


「そう、ですか」


セラフィナは首を傾げながらも、先へ進んだ。 精神の数値は戦いや仕事に直接は響かない。珍しいが、それだけのことだ。


(それだけのことであってくれ)


「続いて、スキルを」


彼女が水晶板の下段に目を落とした。

その瞬間、水晶板がもう一度光った。 さっきよりも強く。白ではなく、金色に。


「え……」


記録係が立ち上がった。


「稀少度の表示が……」


水晶板の隅に、本来なら数字が出るはずの欄がある。 そこが、ただ金色に明滅していた。


「測定、不能」


記録係の声は、震えていた。


「この神殿で、この表示が出たのは……記録にある限り、初めてです」


アルトは膝をついたまま、動けなかった。


(測定不能)


(つまり、すごく稀少)


(つまり、ユリウスの言ってた二十人どころじゃない)


外に聞こえていなくてよかった、と思った。 今、自分がどんな顔をしているのか分からなかった。


「スキル名を」


記録係に促されて、セラフィナが水晶板を読む。


「【ステータス貸与】」


聞いたことのない名前だった。 記録係も首を振っている。


「効果を」


「は、はい」


セラフィナは文字を目で追いながら、ゆっくりと読み上げた。


「契りを結びし者に、自らの力を貸し与える。貸し与えし力は、神の恩寵によりて増幅される……」


「貸与型……しかも増幅つき」


記録係が息を呑んだ。


「国が動きますよ、これは」


(国)


「発動条件を」


「はい。発動、条件は……」


セラフィナの声が、そこで止まった。

彼女の目が、水晶板の一点で固まっていた。 読み進めようとして、唇が動いて、また止まる。

白い頬に、みるみる朱が差していった。


「セラフィナ殿?」


「あ、あの、これ……」


「読み上げなさい。儀式です」


記録係が静かに、しかしはっきりと言った。

セラフィナはぎゅっと目を閉じた。 鎖を握る手に力が入って、しゃら、と小さな音がした。

それから、震える声で読んだ。


「……発動条件。対象との、交合。および……」


息を吸う。


「……精の、授受」


奥の間が、静まり返った。

記録係の手から、ペンが落ちた。 石の床に当たって、乾いた音が響いた。

誰も拾わなかった。

この世界の男にとって、それがどういう意味を持つのか。 記録係も、セラフィナも、よく分かっていた。

力を使うたびに、行為をしなければならない。 消耗の種でしかないそれを。何度も。相手の数だけ。

稀少度、測定不能。 国が動く。

それは、この世界の男が想像しうる限り、最も残酷な運命だった。


「……フェンネル様」


記録係が、かすれた声で呼んだ。

アルトは膝をついたまま、顔を伏せていた。 肩が、小刻みに震えていた。


「お気を、確かに」


記録係の目には、それが慟哭に見えた。 十八歳の若者が、己の運命の過酷さに打ちひしがれて、声もなく泣いている姿に。


(——授与神アウレア様)


アルトは、震えていた。


(転生させてくださって、本当に、本当に、ありがとうございました)


(十八年。いや、前世も入れたら三十六年)


(報われた)


肩の震えが止まらなかった。 止められるわけがなかった。


「どうか、神の御心と思し召して……」


記録係が慰めの言葉を探している。 アルトは顔を伏せたまま、ゆっくりと頷いた。


「……はい」


声は掠れていた。 それがまた、悲嘆の深さに聞こえたらしい。記録係は目頭を押さえて、そっと視線を逸らした。

だから、気づいたのはセラフィナだけだった。

彼女は鎖の届く範囲いっぱいまで近くにいた。 伏せた顔を、斜め下から覗き込める位置にいた。

アルトの口の端が、ほんのわずかに持ち上がっていた。

泣いている男の顔ではなかった。 運命に打ちひしがれた男の顔でもなかった。

セラフィナは生まれてから二十年、男というものを何人も見てきた。 儀式で鎖の前に立つ男たちは、みんな青ざめていた。目を合わせず、震え、早く終わってくれと祈っていた。

こんな顔をした男は、一人もいなかった。

さっき、祈りの最中に感じた視線を思い出した。 鎖の上を。胸の上を。確かに一度、止まった視線。

男に見られるということを、彼女は生まれて初めて知ったのだった。


「……どうして」


小さな声が、彼女の唇から零れた。 記録係には聞こえないくらいの、小さな声だった。

アルトが、わずかに顔を上げた。

琥珀色の目と、空色の目が合った。


「どうして、そんなに……」


セラフィナの頬は、まだ赤かった。 鎖を握る指先が、かすかに震えていた。


「……嬉しそう、なんですか」


(あ)


(バレた)



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