報復死球報復 :約4500文字
夜中、いつもの帰り道を歩いていたおれは、思わず声を漏らして立ち止まった。
目の前――数メートル先に野球のユニフォーム姿の男が立っていたのだ。
道のど真ん中で、まるでマウンドに上がった投手のように両足を肩幅に開き、背筋をまっすぐに伸ばしていた。周囲には車も人影もなく、しんと静まり返っていた。
いったい何をしているんだ。試合の帰りか? そう思い、目を凝らした瞬間だった。腹の奥を鷲掴みにされ、力任せに揺さぶられたように内臓がぶるりと震えた。
――あの男だ……!
あれは先週のことだった。おれは会社の野球チームの試合に駆り出されていた。
といっても本格的なものではない。ほとんど接待のような試合で、勝敗そのものより終わったあとの飲み会のほうが本番と言っていいくらいだった――とりわけ上役連中にとっては、二次会のキャバクラだの風俗が主目的だったのだろう。もっとも、おれのような若手は声をかけられもしないが――。
相手は取引先のチームで、立場としてはこちらがお得意様なので気が楽だった。試合自体もどこか緩い空気が流れており、多少のエラーや三振しても笑って済まされる程度だった。まあ、お互い怪我をせずにやりましょう――そんないかにも社会人同士らしい和やかなスタートだった。
だが六回裏だったか。相手チーム投手がうちの四番打者に死球を食らわせた。
相手ベンチはすぐさま総出で飛び出し、何度も頭を下げてまさに平謝り。当然こちらも大人なので、まあまあといった調子で応じ、穏便に事は収まった。
しかしそれ以後、空気が妙にぎくしゃくした。
それも無理はない。相手投手はベンチに下げられるや否や、上司から激しく叱責されていたのだ。
「ああいうのは裏でやってほしいよな」と、おれは先輩とベンチで苦笑いしていた。
そして迎えたおれたちの守備回。
問題の投手が打席に入ると先輩がおれに駆け寄り、耳元でこう囁いた。
「お前、あいつに当てろ」
報復死球というやつだ。
おれは一瞬「えっ」と戸惑ったものの、その真意はすぐに理解できた。なんてことはない。軽く当てて、「こっちもやっちゃいました」という形を作り、空気を丸く収めようというのだ。
おれはにやりと笑い、頷いた。高校、大学と野球をやっていただけに、コントロールにはそれなりの自信があった。
結果、投じた一球は狙いどおり男の背中に当たり、両ベンチは大はしゃぎ。全員がにやけた顔で飛び出し、わちゃわちゃと乱闘騒ぎの真似事を繰り広げ、張り詰めていた空気は無事に元に戻った。
試合後の飲み会では、「いいとこ当てたねえ」などと相手側から半ばMVP扱いされ、おれもすっかり気分を良くしていた。
で、その投手の男が今、おれの目の前に立っている。
少し離れた街灯の光が男の姿をぼんやりと照らしていた。上下とも白いユニフォームで、半袖の下には黒いアンダーシャツを着込み、黒いソックスをくるぶしまできっちり引き上げている。さらに腰にウエストポーチが左右に一つずつ取り付けられていた。西部劇のガンマンのホルスターを思わせ、中にはおそらく野球ボールが入っているのだろう。その手には白球が静かに握られていた。
ほとんどあの日のままの格好だった。あまりにも現実感が薄く、一瞬、夢でも見ているのではないかと思ったほどだ。
だが、これは現実だ。男のあの目。ぎらりとした鋭さを帯び、視線が交差した瞬間、冷たいものが背筋を這い上がった。微動だにしないその様子と相まって猛禽類のようだった。
いったいなぜここにいる。まさか偶然というわけでもあるまい。となると――おれを待っていたのか。……じゃあ、まさか……報復? 報復死球の、その報復に来たのか? そんな馬鹿な……!
男はガムでも噛んでいるのか、ゆっくりと顎を動かしていた。額に浮いた汗を袖口で静かに拭い、帽子のつばに指を添えると、きゅっと角度を直した。その仕草は妙に様になっており、まるで投球前に精神を研ぎ澄ます投手のルーティンを見ているようだった。
相変わらず雰囲気だけはある男だ。
短く刈り込まれた髪に濃く太い眉。彫りの深い顔立ちで、表情は岩のように動かない。初めて見たとき、昭和の映画俳優みたいなやつだと思った。しかし、その見た目とは裏腹に野球の腕は大したことなかった。
あ、だからか。おれが狙いどおりに死球を当てたことを皮肉や当てつけと受け取ったのかもしれない。よくも恥をかかせやがって、と。
そういえば、試合後の飲み会でもあの男は散々いじられていた。店の隅に座っていたところを同僚たちに囲まれ、肩をばんばん叩かれ、笑い者にされていた。それだけで終わらず、死球を受けたうちの先輩の前まで連れて行かれ、お酌させられていた。さらにはおれの前にも引っ張り出され、「ほら、『おかげさまで助かりました』だろ!」と頭を押さえつけられ、無理やり深々と頭を下げさせられていた。
周囲は大爆笑。全員が笑い転げていたが、おれは曖昧に笑い返すことしかできなかった。
だからといって、おれを恨まれては困る。あれは全部、お調子者の先輩の指示でやらされたことなのだ。
「あ、あの……」
おれはおそるおそる近づき、声をかけた。
「この間はどうも――」
二、三歩近づいた、その瞬間だった。ヒュッと空気を鋭く切り裂く音が耳元を走り抜けた。
「あ、ああ!?」
おれは思わず声を上げ、慄いた。足がもつれて転びそうになり、慌てて踏ん張った。
投げた。今、投げたぞ。この男――。
ボールはおれの耳元を紙一重でかすめ、そのまま一直線に背後へ突き抜けていった。
男は振り抜いた腕を静かに下ろすと、何事もなかったかのようにウエストポーチから新しいボールを一つ取り出した。
本気だ。この男、本気で報復に来たのだ。
おれは震えながら後ろを振り返った。
ボールはアスファルトの上を何度も跳ね、遥か後方まで転がり、最後は道路脇の植え込みへ吸い込まれるように消えていった。
相変わらず周囲に人影はない。この時間帯なら無理もない。住宅街はすっかり寝静まり、家々の窓の明かりもほとんど消えていた。耳に届くのは遠くで鳴く虫の声と、自分の荒い呼吸だけだった。
助けは呼べそうにない。
ひとまず謝ろう。
それから……そうだ、先輩を差し出したっていい。今日はたぶんずっと自宅にいるはずだ。住所を教えて、それで――。
「あ、あの」
おれは喉を鳴らし、張りついた唇を舌で湿らせた。
「この間は、大変申し訳ございませんでし――」
頭を下げた、その瞬間だった。何かが後頭部をかすめた。
おれは喉をひくりと震わせ、反射的に一歩後ずさった。
こいつ、また投げやがった――。
男は無言のまま次のボールを取り出し、再び構えた。
謝罪など、もはや意味がないのだ。いや、なんて偏屈な男なんだ。不器用なだけでなく心も狭い。きっと職場でも無口で気味悪がられているに違いない。とんだやつに目をつけられてしまった。
仮に今夜ここから逃げ切れたとしても、この先ずっと狙われるかもしれない。この手の人間は変なこだわりがあるのだ。
ならば――。
「あの、ど、どうぞ」
おれは体を横に向け、尻を少し突き出して指さした。
一発きちんと当てさせれば、それで気が済むかもしれない。そう考えたのだ。
男はゆっくりと振りかぶった。
来る。おれは歯を食いしばり、尻にきゅっと力を込めた。
「……ひっ」
だが次の瞬間、ボールは尻ではなく肩先をかすめ、そのまま背後の闇に吸い込まれていった。
男の眉間に深い皺が刻まれるのが見えた。
しまった。それはそうだ。こんなの挑発しているようにしか見えないじゃないか……!
男が一歩こちらに踏み出した。おれは反射的に後ずさった。
尻に一発当てたくらいで気が済むはずがない。じゃあ頭か。頭なのか。そ、そんなところに食らったら死んでしまう。あの男、球速だけはなかなかのものだったのだ。
「あ、あの、先輩が、先輩がやれって言ったんです! あっ、あなたと同じなんです!」
男の足がぴたりと止まった。
「あなたが無理やり謝らされたみたいに、おれも先輩から命令されて仕方なく……。あの、でも、本当に申し訳ありませんでした!」
おれは再び頭を下げた。今度はさっきより深く、腰を折り曲げて。
その直後だった。
ボールがおれの脛のすぐ横を通り抜けていった。
「……いや」
おれはゆっくりと顔を上げた。
「もしかして……ノーコン?」
おれがそう呟くと、男は帽子のつばをぐっと引き下げた。そして、再びウエストポーチからボールを取り出した。
「フォ、フォアボール! フォアボールだから!」
おれは叫ぶようにそう言って、一気に駆け出した。男の脇をすり抜け、そのまま曲がり角へ飛び込んだ。角を曲がる寸前に振り返ると、男は追いかけて来てはいなかった。振り返りもしていない。ただ街灯の光を受け、暗闇の中でぼんやり浮かび上がる背番号がわずかに揺れているのが見えた。
あきらめて帰るつもりなのかもしれない。
だが、それを確かめる余裕はなかった。いつ気が変わって追って来ても不思議ではない。何しろ相手は頭がおかしいのだ。
おれはそのまま全力で夜道を走り続けた。
アパートにたどり着くと、震える手で鍵を差し込み、ドアを開けた。
転がり込むように部屋に入り、勢いよくドアを閉めて鍵を掛ける。カチリと小さく音が響いた瞬間、力が抜け、おれはその場に崩れ落ちるように尻をついた。
助かった――胸の奥で張り詰めていたものがほどけていき、全身にじわりと安堵が広がっていく。しばらく床に座り込んだまま荒い呼吸を整え、それから靴を脱ぎ、重たい足取りで洗面所へ向かった。
蛇口を捻り、冷たい水を何度も顔に浴びせた。気づけば全身から汗が噴き出しており、シャツは肌にべったりと張り付いていた。
火照った頬がようやく冷え、濡れた顔をタオルで拭くと、自然と長いため息が漏れた。
ようやく鼓動も落ち着いてきた。しかし、あの距離で一球もまともに当てられないとは本当に下手な男だ。
おれは胸の内で悪態をつきながら廊下を進み、リビングのドアを開けた。
その瞬間だった。おれは思わず息を呑んだ。
部屋の中央にあのお調子者の先輩が膝をついていた。
顔の右半分が大きく陥没し、乾いた血が首筋に黒くこびりついていた。そしてぽっかりと開いた口には、一本のバットが持ち手の近くまで深々と突っ込まれていた。
しかも、それはおれのバットだった。
呆然と立ち尽くしていると、やがて遠くからパトカーのサイレンが聞こえてきた。
甲高いその音は、なぜか甲子園のサイレンと重なり、おれの頭の中でけたたましく反響した。
――あっ。
おれはふと思い出した。
あの男――投球はひどかったが、バッティングと盗塁は抜群にうまかったのだ。




