贈り物を解いて
茶屋を後にしたライラとディオンは、市場の中心にある噴水広場のベンチに座っていた。日は少し傾き始め、風が冷たくなってきているのを肌で感じる。
(そういえば私も、外に出るのは久しぶりね)
すぅっと大きく息を吸い込むと、協会内とは違う新鮮な空気がライラの肺を満たした。
ここのところ、資料を探し回ったりディオンの様子を見に行ったりするばかりで、ライラ自身もあまり出かける機会がなかった。今日彼を誘ったのは、自分も外に出たかったからだというのも半分ぐらいはあるかもしれない。
「これ、要らないからお前にやる」
隣に座るディオンが、ふいにそう言った。その手には、先ほど茶屋の店主から貰ったクッキーの袋が握られている。
「受け取れませんよ。それは店主さんからあなたへの感謝の気持ちなんですから」
慌ててライラは言う。しかしディオンは、顔を顰めて呟いた。
「感謝なんかされたって虚しいだけだ。……俺は来たくてこの世界に来たんじゃない」
「それは……」
何も言えず、ただライラは口を噤んだ。
彼は確かに、召喚者としてこの世界を救っている。だからそれに対して感謝したいと思うのは当然のことだ。
けれどそれを快く思わない彼の気持ちも理解はできた。
彼は自分の意思でこの世界を救っているわけじゃない。にも関わらずただ無邪気に「ありがとう」なんて言うのは、感謝の押し付けだと思われても仕方がないことだ。
「分かってるよ。この世界の人間だって必死なんだってことは」
黙ったままのライラにディオンが言った。そのまま、もどかしそうに彼は続ける。
「店主のばあさんだって、悪気があるわけじゃない。分かってるけど」
彼が強く拳を握りしめる。その手の中で、クッキーの袋がグシャリと音を立てた。
「こんなの貰ったって、俺はこの世界を好きになってやれないのに」
彼の口から、小さくそんな言葉が零れる。それを聞いてライラは、初めて彼の心に触れたような気がした。
彼がどうして協会の外に出たがらなかったのか、どうして何も欲しがらないのか。その理由が、今の言葉に詰まっているように思えたからだ。
「ディオン様……やはり私は、それを受け取ることはできません」
ライラは毅然として、彼に改めてそう告げた。
「なんで」
「あなたへのお礼を私が受け取るわけにはいきませんし、それに」
ライラはそこで、一度言葉を切った。……ここから先は、彼の心に踏み込むことになる。そのことに恐れを抱きながらも、ライラは続きを口にした。
「――それに。あなた自身が、あなたを縛っているように見えるからです」
「……縛ってる? 俺が、俺自身を?」
片眉を動かして怪訝な顔をするディオンに、ライラは頷く。
「ええ。……あなたは、この世界を憎んでいる。それは仕方ないことですし、今更好きになってほしいとも思いません。ですがあなたは、この世界を憎んでいる自分には、お礼を受け取る資格がないと考えているんじゃありませんか」
「そんな、ことは」
ディオンの視線が泳ぐ。図星だったのだろう。
お礼や好意を向けられても、自分に返せるのは憎しみしかない。だから彼はきっとこれまで、何も受け入れずにきたのだ。召喚者に与えられた自由に動く権利も、好きなものを選んで買う権利も。
しかしそんなの、あまりにも馬鹿げているとライラは思う。そもそも順番が逆だ。それは彼の行為に対する正当な報酬なのに、その上彼がこちらに何かを返すも必要も何も無い。
「憎いままでいいんですよ。これ以上誰かの気持ちに応える必要なんてない。あなたが内心どう思っていようが、召喚者としてこの世界を救ってくれた、その事実は変わりませんから」
あの店主は、ディオンという個人に感謝してるんじゃない。良い意味でも悪い意味でも、彼らは召喚者がこの世界を救ってくれた、その事実だけに感謝している。
だったらディオン個人の気持ちなんて、彼らには関係がない。彼らがそうやってディオンを無視するなら、ディオンだって期待を無視してお礼だけ受け取っても、バチは当たらないだろう。
「だから、食べていいんです。それを食べたからって、あなたが聖人君子にならないといけない、なんてことはないですよ」
ディオンは手の中の袋を、壊れ物を扱うような、あるいは忌まわしいものを見るような複雑な目で見つめた。
袋に結ばれた水色のリボンが、西日に照らされて鮮やかに浮かび上がる。
彼は絞り出すような声で、自身の内側に澱のように溜まった言葉を口にした。
「……俺はこの世界が嫌いだ。だからいつかヤケクソになって、この世界を破壊し始めるかもしれない。魔法を使えばそのぐらい簡単だしな。……そんな人間が、お礼なんかされていいのかよ」
「するんですか? 破壊」
ライラの問いかけに、ディオンは毒気を抜かれたように一瞬言葉を詰まらせた。それからふいと目を逸らし、忌々しそうに鼻を鳴らす。
「今のところそういう予定はないけど。でも、還れなかったらそのうち毒素を振り撒いて死ぬんだろ。それは破壊と、大して変わらないんじゃないのか」
この世界の人間にとって、召喚者の死後に放出される毒素は命に関わる脅威だ。そういう意味では、彼は自らこの世界を破壊しようと思わずとも、時が来れば自動的に破壊することになる。
「そうなればあの店主さんは、後悔するでしょうね。あなたにクッキーを渡したこと」
「そうだろ。だったら、」
「後悔ぐらい、させればいいじゃないですか」
ディオンの言葉を遮って、ライラは言った。思いがけない台詞に、彼は目を丸くする。
「後悔させるのを恐れて、今差し出されたものを拒むのは、相手にも失礼です。……それに、ちょっと勿体ないと思います」
そんなことばかり考えていたら、誰も何も感謝できなくなってしまう。それは世界が憎いだとか以前に、悲しいことだ。
だから、ほら。
ライラがそう促すと、一瞬躊躇した後、彼は袋に結ばれたリボンを乱暴に解いた。そして中から丸いクッキーを一つつまみ、口へと放り込む。
「美味しいですか?」
ディオンは口を動かし、一度だけゴクリと喉を鳴らした。
その表情には一瞬だけ、かつてライラが淹れた茶を「美味い」と認めた時のような、素直な感情が滲んだように見えた。
しかし、彼はすぐにいつもの仏頂面に戻り、ぶっきらぼうに言い放った。
「ボソボソしてる。バターの味がやたら濃い」
この期に及んで嫌味を欠かさない態度にはもはや感心する。
彼がこの世界で見せる態度の多くは、一種の防衛本能のようなものなのだろう。本音を隠すために、わざと棘のある言葉を並べる。
それでも、今は少しだけその棘が丸くなっているように思えた。
「また来ましょうね、この市場」
「……さぁな」




