唯一の成果
夜も更けて眠気も限界に達し、資料庫を出たライラは協会内の自室に向かっていた。
送還師の仕事に就いて以来、ライラはずっとこの協会の中で生活している。というのも協会には宿舎があり、ここに所属する人間であれば希望制で入居することができるのだ。身寄りのないライラにとってはかなりありがたい制度で、送還師をクビになったらこの宿舎からも出ていかなければならないと思うと憂鬱になる。
あれからライラは、リズと二人で報告書を読み続けた。しかしやっぱりというか、結局めぼしい成果は得られなかった。
リズは暗くなる前に自宅へ帰ったのだが、ライラは性懲りも無くもう少しだけ探そう、なんて思っているうちにこんなに遅い時間になってしまった。
他の協会勤めの人たちは、みんなもう帰宅したか宿舎に戻るかしたようで、廊下は静まり返っている。自分の足音がいやに大きく聴こえて、なんとなく不気味な感じだ。こんな時間に自室の外を歩くのは久しぶりだから、どうにも心が落ち着かない。
中庭を横切るようにして造られた宿舎へと続く渡り廊下を、早足で進む。そうして柱の角を曲がったその時、月明かりに照らされた人影が目に映った。
「……ディオン様?」
そこにいたのはディオンだった。彼は廊下の脇に並び立つ柱にもたれかかって、空に浮かぶ月を眺めていた。月光が、彼のすっと通った鼻筋のシルエットを浮かび上がらせている。
(こうして見ると、綺麗な人よね)
普段の態度も忘れて思わず見蕩れていると、時間差で彼がこちらに振り向いた。
「なんだ、送還師か」
「ライラです。どうしたのですか、こんな夜更けに」
雑に肩書きで呼ばれるのが不服で、わざと名前を言い直してからライラは訊ねた。
彼ら召喚者たちは、協会の勤め人用の宿舎とはまた別の場所に寝泊まりする場所を用意されている。だから同じ協会内にいること自体は変ではないのだが、時間が時間なだけに不思議だった。
「別に、なんだっていいだろ。お前こそ、まさかこんな時間まで仕事してたのか?」
送還師ってのはブラックなんだな。そう言ってディオンが皮肉に笑う。
「過去の報告書を読んでいたんです。強制されてやっているわけではありません」
「どうだか。お前、俺を送還できなかったらクビになるんだろ? 噂されてんのを聞いたぜ。そりゃ必死になって還す方法を探すよな」
「それは事実ですけれど、私が必死になるのはそんな理由じゃありません」
ライラが言い返すと、ディオンはこちらに疑いの目を向けた。……信じてもらえないのは分かっている。それに信じてもらう必要があるわけでもないし、ライラはこれ以上の弁解はやめにした。
そうして黙っていると彼はライラの顔をしげしげと見て、それからぐっと眉根を寄せた。
「……ひどいクマだな。報告書を読んでたって……まさか本気で、ただスプーンがどうのとかいう情報だけで俺がいた世界が見つかると思ってたのか?」
呆れ混じりに彼が言う。その声は普段のこちらをバカにしたり蔑んだりするものとは違って、ほんの少しの優しさみたいなものが感じられた。
「だって、やっと一つ手がかりが得られたんですもの。見つかる気がしたんです……でもごめんなさい。見つかりませんでした」
正直にそう口にすると、胸の底から情けなさが込み上げてくる。彼の言う通り、ただスプーンの情報を得ただけで簡単に見つかるはずがないのだ。でも自分は新しい発見に浮かれていた。そのことが心底情けなかった。
唇をぐっと噛み締める。するとディオンが、きまりの悪そうな顔で視線を彷徨わせた。
「あー……その、なんだ。悪かったよ」
思いがけない彼の言葉に、ライラは瞬きを二、三度繰り返す。
まさか、彼が謝るだなんて。意外に思うライラの気持ちが伝わったのか、彼はぶっきらぼうに続けた。
「お前がそんなに頑張るとは思ってなかった。……頑張る理由はどうだっていいが、俺を還すために時間を割いてくれたのは事実だからな。そこは感謝してる」
「何も成果は出せていないのに、ですか?」
ライラが訊くと、ディオンはまた元の調子に戻って、嫌味ったらしく鼻で笑った。
「少なくとも、俺はこの世界に来てから初めて美味い茶が飲めた。お前のお陰でな。それだけは成果だと認めてやるさ」
(――ああ、そうだったんだ)
彼の言葉を聞いてライラは、初めて送還師の「召喚者を元の世界に還す」という目的以外の意味を見出せたような気がした。
彼ら召喚者は、突然この世界に呼ばれて、突然今まで生きてきた世界とは違う常識を強いられる。その心身への負担は、ライラには計り知れない。
けれどこうして彼らのことをよく見て、よく話せば。砂糖を紅茶に溶かすように、常識の隔たりを和らげられたら。
元の世界に還すという大きなことだけじゃなく、そういった小さなことにだって、送還師がいる意味はあるんじゃないか。
そうだったら、身勝手なこの世界の召喚システムにも、ひと握りではあるが救いが生まれる。送還以外何もできないと思っていたこの仕事に、価値があるんだと思える。
彼はただ思ったことを言っただけなのだろう。ライラを元気づけようとか、そんなことはあんまり考えていなさそうだ。
だとしても、ライラがやったことに意味はあった。それを知れたことが嬉しくて、くすぐったかった。
「……ディオン様は呑気な人ですね。いくら美味しいお茶が飲めたって、犯罪者になったら台無しなんですよ」
「そうならないように頑張ってくれ。期待はしてないがな」
ディオンはそう言い捨てると、宿舎の反対側に向かって渡り廊下を歩いていった。
再び廊下に足音が響く。でもそれはもう、先ほど感じたような不気味な響きではなかった。
ライラもまた自室へと戻るべく、宿舎へ足を進める。今日は疲れているし、ディオンの意外な一面も見られたしで、よく眠れそうだ。
しかしその時、急に頭がぐらりと揺れる感覚がした。身体から力が抜けてきて、咄嗟にそばの柱にもたれかかる。
朝から延々と報告書を読み続けたせいだろうか? ……いや、この感じは違う。これはいつものアレだ。
(とにかく、早く部屋にもどらなくちゃ。それで薬を――)
うまく動かない体を引き摺って、なんとか持ってくれと祈りながら部屋を目指す。いつもならなんのことない階段が、今は恨めしいほど長く見えた。
それでもなんとか上りきって、自室のドアを開ける。そしてベッドサイドの引き出しから、ライラは赤くて丸い錠剤を取り出した。
その錠剤をひと粒、口に入れて飲み込む。口の中に独特な苦味が広がるが、それはもう慣れている。
(とりあえずは、これで大丈夫なはず……)
薬を飲んだことでようやく緊張の糸が解け、ライラは床にへたりこんだ。そのまま重力に逆らわずにいると、次第にライラの瞼は下りて、倒れるように眠りについたのだった。




