〇〇八 鬼を咬む(かむ)
『咬鬼』
静寂の中に凝縮された、すさまじい生命の応酬。消えゆく者と、それに抗う者の、魂のぶつかり合い。観る者は、その墨の滲みの中に、声にならない叫びと、血の生温かい感触、そして骨の芯まで凍らせる霊の冷気を感じ取り、息をのむことになるでしょう。
【しおの】
これは、沈麟生という人物から聞いた物語である。彼の知人に、ひとりの翁がいたという。
ある夏の昼下がり。翁が縁側でまどろんでいると、夢かうつつか、おぼろげな意識の向こうで、ひとりの女がすだれをそっと掲げ、入ってくるのが見えた。
その女は、頭を白い布ですっぽりと覆い、麻で織られた喪服をその身にまとっていた。そして、何の躊躇いもなく、家の奥の間へと静かに向かっていくではないか。
はじめは、妻を訪ねてきた近所の女だろうと、さして気にも留めなかった。だが、すぐに思い直す。それにしても、弔いの装束で人の家にあがる者がどこにいようか。その不吉な姿に、翁の胸に言い知れぬ不安がよぎった。
翁がそう訝しんでいると、女は奥の間からすうっと戻ってきた。間近で見るその姿に、翁は息をのんだ。年は三十路を越えたあたりだろうか。顔は病的に黄色く腫れあがり、眉や目は苦痛に歪み、ひきつっている。その表情には、この世のものとは思えぬ凄絶な気配が漂っていた。
女はすぐには立ち去らず、まるで何かを探すかのように部屋の中をあてもなく歩き回っていたが、やがて、その足は翁が横たわる寝台へと、ゆっくりと、しかし確実に向かってきた。翁は咄嗟に眠り込んだふりを続け、女が一体何をしようとしているのか、固唾をのんで見極めようと心を定めた。
間もなく、女は着物の裾をからげると、音もなく寝台に這い上がり、そのまま翁の腹の上へと跨ってきた。その瞬間、翁は息が詰まった。まるで巨大な岩でも載せられたかのような、身じろぎひとつできないほどの重圧が、その身を押し潰さんばかりにのしかかってきたのだ。
意識だけは、水の底にいるかのように妙に澄み渡っている。だが、腕を動かそうにも、見えない縄で固く縛られたかのようにぴくりともしない。足に至っては、まるで自分の体ではないかのように、力がすっかり抜け落ちてしまっていた。助けを呼ぼうと喉を震わせるが、声にならない声が漏れるばかりで、言葉とはならなかった。
女は冷たい口元を翁の顔へと寄せ、まるで獣が獲物を確かめるように、頬骨から鼻、眉、そして額へと、ねっとりと嗅ぎまわる。その唇は氷のように冷たく、吐きかけられる息は、骨の髄まで凍てつかせるかのような冷気を帯びていた。
死の淵にありながらも、翁の心はまだ折れてはいなかった。心頭に、ひとつの策がひらめく。女の口が、己の顎や頬のあたりに近づいたその一瞬を狙い、ありったけの力で食らいついてやろう、と。
果たして、女の冷たい唇が、翁の顎へとゆっくりと下りてきた。
その機を、翁は逃さなかった。身の底に残る最後の力を振り絞り、女の頬骨めがけて、獣のように食らいついた。鈍い感触とともに、歯が深く肉に食い込むのがわかった。
ぎゃあ、という悲鳴ともつかぬ叫びを上げ、女は激痛に身をよじらせる。だが翁は決して放さず、むしろさらに顎に力を込めた。じわりと、生温かく生臭い血の味が口いっぱいに広がり、枕元へと滴り落ちていく。
互いが苦悶の中でもがき合う、その刹那。庭先から妻の声が聞こえた。何事かと駆けつけた妻が、この異様な光景を見て、あれは鬼だと叫んだその声に、翁の心にほんのわずかな隙が生まれた。
次の瞬間、あれほどの重みでのしかかっていた女の体は、まるで陽炎のようにふっと軽くなり、跡形もなく消え失せていた。
部屋に飛び込んできた妻には、ただ汗だくで呻く夫の姿しか見えない。きっと悪い夢でも見ていたのだろうと笑いかけたが、翁は必死に事の次第を訴え、あれは夢ではない、血の証が残っているはずだと息を切らせながら言い張った。
ふたりで恐る恐る寝床を確かめると、そこには、まるで天井から雨漏りでもしたかのように、枕から敷布にかけて、おびただしい量の血がじっとりと染み込んでいた。顔を近づけてみると、ぷんと鼻をつくのは、腐肉を思わせる酷い生臭さであった。
その強烈な悪臭に、翁はこらえきれず、その場で激しくえずいてしまった。そして、それから幾日もの間、口の中にはあの忌まわしい血の臭いが、こびりついたように消えなかったという。
この物語「鬼を咬む」について、さらに深く掘り下げてみましょう。
1. この話の「不思議さ」「面白さ」「恐怖」の源泉
この物語が読者に強烈な印象を与えるのは、恐怖、不思議さ、そして一種の「面白さ」が巧みに織り交ぜられているからです。
恐怖の核心:日常への静かな侵食と五感への攻撃
夏の昼下がり、うたた寝という最も無防備で平和な時間と空間に、「喪服の女」という不吉で異質な存在が音もなく侵入してくるところから恐怖は始まります。読者はまず、この日常が破られる予感に静かな恐怖を感じます。
そして恐怖は、翁の身体感覚を通して読者に直接伝わってきます。動けない、声が出ないという「金縛り」のリアルな描写。腹を圧する物理的な「重さ」、肌を撫でる「氷のような冷気」、そして骨身に染みる「冷たい息」。さらに、顔中を嗅ぎ回られるという生理的な不快感。これら五感への直接的な攻撃は、幽霊の姿を見るという視覚的な恐怖以上に、生々しく内面的なパニックを引き起こします。
不思議さと面白さ:原始的抵抗と物理的証拠
この物語が単なる怪談で終わらないのは、翁の反撃にあります。絶体絶命の状況で彼が選んだのは、祈りや呪文ではなく、「咬みつく」という最も原始的で動物的な抵抗でした。圧倒的な力を持つ怪異に対し、人間が生身の牙で一矢報いるという展開は、恐怖の中に一種の爽快感とカタルシス(面白さ)を生み出します。
そして最大の不思議さは、夢かうつつか曖昧だった出来事が、「枕元に広がったおびただしい血」という動かぬ物理的証拠によって現実のものとして確定する点です。この「証拠」があることで、物語は単なる翁の悪夢から、「現実に起きた怪異」へと昇華されます。この現実と超常現象の接点が、物語に得も言われぬ深みと不思議さを与えているのです。
2. 文化的な類似性についての検証
このような「睡眠中の圧迫」や「霊的存在との格闘」というモチーフは、世界中の文化に見出すことができます。
日本文化との共通点
日本では古くから、睡眠中に体が動かなくなる現象を「金縛り」と呼び、霊的な存在の仕業と結びつけてきました。寝ている人の枕をひっくり返す「枕返し」という妖怪や、人の上に乗って苦しめる物の怪の話は各地に伝わっています。また、強い恨みを持った人間が「生霊」となって人に取り憑き、苦しめるという話型は『源氏物語』の六条御息所をはじめ、古典文学や怪談の定番です。本作の女も、何らかの強い怨念を持った生霊や死霊と解釈でき、日本の文化的土壌によく馴染みます。
異国文化との共通点
夢魔(インキュバス/サキュバス): ヨーロッパの伝承に登場する夢魔は、まさに睡眠中の人間の上に乗り、胸を圧迫して精気を吸い取るとされています。特に、画家ヘンリー・フュースリーが描いた『夢魔(The Nightmare)』は、女性の上に小鬼が乗るという、本作と酷似した情景を描き出しており、文化を超えた恐怖の共通イメージが見て取れます。
僵尸: 物語の舞台である中国の妖怪・キョンシーは、人の息(生命エネルギー)を嗅ぎつけて襲うとされています。女が翁の顔を執拗に嗅ぎ回る描写は、このキョンシーの習性を彷彿とさせ、物語の背景にある文化的な恐怖の原型を窺わせます。
このように、本作で描かれる恐怖は、特定の文化圏に限らず、人類が睡眠という無防備な状態に対して抱く普遍的な不安や恐怖が、物語として結晶化したものだと言えるでしょう。
3. 考えられる後日談
翁が女の頬を咬んだことで、物語は一方的に終わらなかったのかもしれません。
【後日談:痣を持つ女】
口の中に残る腐臭に、翁は数日苛まれた。やがて臭いは消えたが、あの肉を断つ感触は、舌の根に深く刻み込まれてしまった。
数週間後、町である噂が流れる。少し離れた村で、最近一人の女が病で亡くなったという。その女は夫から酷い仕打ちを受け、常に顔に青黒い痣があったらしい。そして不思議なことに、亡くなる数日前から、女は頬に「まるで獣にでも咬まれたような」深い傷を負い、そこが酷く化膿して、死期を早めたのだという。
翁はその話を聞き、すべてを悟った。自分があの日咬んだのは、この世への恨みを募らせ、他者の生気を求めて彷徨っていた女の生霊だったのだ、と。
翁は密かにその女の墓を訪れ、一輪の花を供えた。墓石に手を合わせた時、彼は気づいてしまう。硬い石材でできたはずの墓石の角に、なぜか、くっきりと歯形のようなものが穿たれているのを…。あの夜の格闘は、まだ終わってはいないのかもしれない。翁は背筋に冷たいものが走るのを感じた。
4. さらなる意外な結末
もし、この物語がまったく別の顔を持っていたとしたらどうでしょうか。
【意外な結末:妻の告白】
翁と妻が枕元のおびただしい血痕を見つけ、その生臭さに顔をしかめた。翁は「やはり夢ではなかった」と震える。
その時、妻は青ざめた顔で、おずおずと口を開いた。
「あなた…申し訳ありません。実は、その血は…」
妻が語ったのは、衝撃的な事実だった。彼女は翁が寝ている間に、近所で流行り病で急死した娘の亡骸を清める手伝いに行っていた。その帰り、清めに使った布をうっかりこの部屋で洗い桶に落としてしまい、腐臭を放つ血が枕元に飛び散ってしまったのだという。
「あなたが目覚めたら叱られると思い、黙っておりました…」
翁は呆然とした。では、あの百鈞の重さも、氷の冷気も、全ては真夏の昼下がりに見た、あまりに鮮明な悪夢だったというのか?
翁が混乱していると、妻は心配そうに彼の顔を覗き込み、そっと彼の口元を指でなぞった。
「それにしても、ひどい寝言でしたよ。『鬼め、鬼め』と叫びながら、私の頬を、こんなに赤くなるまで甘噛みするなんて」
そう言ってはにかむ妻の白い頬には、うっすらと赤い歯形が残っていた。
翁は何も言えなかった。超自然的な恐怖は消え去り、そこには、現実と夢が溶け合った、さらに不気味で底の知れない謎だけが、静かに横たわっていた。




