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月下の狐、涙する幽鬼――新釈・聊斎志異と、物語のその先へ  作者: 光闇居士


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8/23

〇〇七 山魈(やまびこ)

挿絵(By みてみん)

『月下の対峙』

万物の音が消えた静寂の中で、巨大な「動」である鬼と、矮小な「静」である人間が対峙する、息を飲むような緊迫感と、逃れようのない恐怖、そして絶望的な状況下でなお失われぬ人間の尊厳を張り詰めた一瞬を見事に切り取っています。


【しおの】

これは、孫太白という人物が、遠い昔を懐かしむように語ってくれた話である。

彼の曽祖父は、南山に佇む柳溝寺にて、日夜勉学に励んでいた。ある年のこと、故郷が麦の収穫期を迎えたため、しばしの暇をもらって帰省し、半月ほどを過ごして再び寺へと戻った。

久方ぶりに学舎の門を開けば、机にはうっすらと埃が舞い降り、窓にはいつの間にか蜘蛛が巣をかけている。下男に言いつけて部屋を隅々まで清めさせ、ようやく日が傾く頃になって、心落ち着ける空間が戻ってきた。

曽祖父は寝台の埃を丁寧に払い、夜具を整えると、しっかりと扉に閂をかけ、枕に頭を預けた。ふと見れば、窓には満月の光が白々と差し込んでいる。

幾度か寝返りを打つうち、夜は静かに更けていった。万物が寝静まり、耳に届く音は何一つない。

その静寂を破るように、突如、山を揺るがすような風の音が轟き、続いて山門が重々しく開く音が響いた。

寺の僧の誰かが、閂をかけ忘れたのであろうか。彼は心の内でそう思った。

そう思ううちにも、風の音は次第に学舎へと近づいてくる。そして、彼の部屋の扉が、軋むような音を立ててゆっくりと開いた。いぶかしく思う間もなく、その気配は音もなく部屋の中へと滑り込んできた。

何者かの履物が床を打つ硬質な音が、一歩、また一歩と寝室へと近づいてくる。その時、彼の心に初めて得体の知れない恐怖が芽生えた。

間もなく、寝室の扉が乱暴に開け放たれた。

彼が息をのんで目を見開くと、そこにいたのは、体をかがめて部屋に入り、寝台の前に佇む一つの巨大な鬼であった。その頭は、天井の梁に届かんばかりである。

鬼の顔は古びた瓜の皮を思わせる、くすんだ色をしていた。両の眼は炯々と光を放ち、部屋中を睥睨している。盆のように大きく開かれた口からは、三寸ばかりの長さの、まばらな歯が覗いていた。舌が蠢き、喉が鳴るたび、獣のような荒い息が四方の壁を揺るがした。

恐怖に身がすくむ中で、彼は悟った。この狭い部屋では、もはや逃げ場も隠れる場所もない。ならば、一思いに斬り捨てるほかない。

彼は枕の下に忍ばせておいた佩刀を抜き放ち、渾身の力で斬りつけた。刃は確かにその腹を捉えたが、石の甕を打ったかのような硬い音が響くだけであった。

鬼は激しく怒り、巨大な爪を振りかざして彼に掴みかかろうとした。彼はかろうじて身をかわした。

鬼の手は空を掻いたが、代わりに彼が掛けていた夜着を掴むと、それを無残に引き裂き、憤りを露わにしながら去っていった。

彼は夜着もろとも床に転がり落ち、ただ声を上げて泣き叫ぶばかりであった。

物音を聞きつけた寺の者たちが灯火を手に駆けつけた時、部屋の扉は以前と変わらず、固く閉ざされていた。やむなく窓を破って中へ入ると、その凄惨な有様に言葉を失った。

人々が彼を助け起こし、寝台に座らせると、彼はようやく震える声で事の次第を語り始めた。

一同で辺りを改めてみると、引き裂かれた夜着の端が、寝室の扉の隙間に固く挟まっているのが見つかった。扉を開き、灯火で照らし出すと、そこにはまるで箕のように巨大な爪の痕が生々しく残り、五本の指が触れたであろう箇所は、ことごとく鋭く貫かれていた。

夜が明けるのを待って、彼は恐怖のあまり二度と寺に留まることはできぬと、書物を背負い故郷へと帰っていった。

後日、寺の僧に尋ねても、その夜、他に変わったことは何もなかったという。ただ静かな夜であったと、誰もがそう答えるのであった。

この物語「山魈」が持つ奥深い魅力を、それぞれ異なる視点から深掘りしてみましょう。

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1. 不思議さと恐怖の源泉

この物語の恐怖は、単なる脅威の登場によるものではなく、非常に巧みに計算された演出によって成り立っています。

 静寂の侵犯: 物語の冒頭、舞台となるのは「万籟寂として声なし」という完璧な静寂です。この静けさが極まっているからこそ、突如として響く「ゴオオ」という風の音、そして山門が開く音が、聴覚を通して日常の崩壊を予感させ、強烈な不安を掻き立てます。

 段階的接近の恐怖: 恐怖の対象は、いきなり目の前に現れるのではありません。「山門」→「学舎」→「部屋の扉」→「寝室の扉」と、一枚一枚、安全であるはずの領域テリトリーが侵されていく過程が丁寧に描かれます。読者は曽祖父と共に、逃げ場が失われていく心理的な圧迫感をリアルタイムで体験するのです。

 人知を超えた「理不尽さ」: 閂をかけたはずの扉が開くという描写は、この侵入者が物理法則を超えた存在であることを示唆します。そして極めつけは、渾身の一太刀が「カーン」という石のような音を立てて弾かれる場面です。人間の武器や抵抗が一切通用しないという絶対的な絶望感が、ここで確定します。

 目的不明の不気味さ: 最も不思議で恐ろしいのは、鬼の行動です。圧倒的な力で曽祖父を殺すこともできるはずなのに、それをしません。ただ威嚇し、寝具(衾)という、曽祖父の最も無防備な状態を象徴するものを引き裂いて去っていきます。この「目的のわからなさ」は、人間の理解を超えた存在への根源的な恐怖を呼び覚ますのです。最後に残された箕のような爪痕は、悪夢ではなかったことの物理的な証明となり、現実と怪異の境界を曖昧にさせます。

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2. 類似する文化的情景

この物語は、日本古来の怪異譚の王道とも言える要素を数多く含んでいます。

 日本文化における類似:

山寺という舞台: 日本では古くから、山は神仏や霊、そして「物の怪」が住まう異界と見なされてきました。人里離れた山寺は、俗世と異界の境界線上にあり、怪異が起こるにふさわしい舞台装置です。『今昔物語集』や『雨月物語』などにも、山中の寺を舞台にした怪異譚は数多く存在します。

百鬼夜行と物の怪: 深夜、人の寝静まった頃に超自然的な存在が闊歩するという世界観は、「百鬼夜行」の思想に通じます。また、特定の個人や場所に現れる単独の妖怪は「物の怪」と呼ばれ、その多くが本作の鬼のように、直接的な殺害よりも精神的な恐怖や不可解な現象を引き起こします。

実体のない侵入者: 障子や襖で仕切られた日本の家屋では、気配や音だけで侵入者を表現する文化が発達しました。本作の鬼が、扉を開け、靴音を響かせながら近づいてくる描写は、まさに日本の怪談特有の「間」と「気配」の恐怖演出です。

 異文化における類似:

西洋のインキュバス・サキュバス: 睡眠中の無防備な人間を襲うという点では、西洋の夢魔インキュバス・サキュバスの伝承と共通します。しかし、これらがしばしば性的なニュアンスを含むのに対し、「山魈」の鬼はより物理的で圧倒的な「力」の象徴として描かれています。

北欧のトロールや巨人: 山に住む巨大な存在という点では、北欧神話の巨人ヨトゥンや民話のトロールを彷彿とさせます。彼らもまた人間に敵対的ですが、本作の鬼が持つ様式美や、静寂の中での心理的な駆け引きといった趣は、日本文化独自のものと言えるでしょう。

総じて、この物語は西洋のゴーストストーリーのような直接的な因縁話ではなく、自然への畏怖や、人知の及ばない存在への畏敬の念といった、日本的なアニミズムの世界観を色濃く反映していると考えられます。

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3. 考えられる後日談

恐怖に打ちひしがれて帰郷した曽祖父。しかし、あの夜の出来事は彼の人生の序章に過ぎませんでした。

『後日談:鬼の爪痕を追って』

故郷に帰った曽祖父は、夜ごとあの鬼の夢にうなされた。しかし、いつしかその恐怖は、知への渇望へと変わっていった。「あの存在は一体何だったのか」。彼は学問を剣の道に変え、諸国を巡りながら、各地に残る「鬼」や「物の怪」の伝承を調べる旅に出る。

数十年後、白髪の老人となった彼は、再び柳溝寺の門を叩いた。あの夜と同じ月夜、彼はかつての寝室で静かに座し、鬼を待つ。夜が更け、風の音が響く。扉が軋み、あの巨大な影が現れる。しかし、彼は刀を抜かない。ただ静かに頭を垂れ、こう呟くのだ。「長年、あなたを探しておりました。山の主よ、あの日のお導き、感謝いたします」。

鬼は何も言わず、ただ曽祖父を見下ろしていたが、やがて夜明けの光と共に霧のように姿を消した。寝室の扉に残っていた爪痕は、いつの間にか綺麗に消え去っていた。彼は、恐怖の対象であった鬼を、自分を未知の世界へと導いた一種の神聖な存在として受け入れ、心の平穏を得たのであった。

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4. さらなる意外な結末

物語の恐怖を根底から覆す、もう一つの結末を考えてみましょう。

『意外な結末:守護者の爪』

曽祖父が恐怖のあまり声を上げて泣き叫んでいると、家人たちより一足早く、寺の老いた住職が駆けつけた。彼は引き裂かれた寝具を見るなり、はっとした表情でそれを手に取り、中の綿をかき分けた。すると、そこには指の先ほどの大きさの、全身が漆黒の毒蜘蛛が、潰れて死んでいた。

住職は静かに語り始めた。「この山に住まう『山主様』じゃ。時折、こうして寺に泊まる者の寝床に毒虫が紛れ込むことがある。山主様はそれを教えるために現れるのじゃが、いかんせん、人と交わる術を知らん。お主を救うため、寝具ごと虫を掴み出そうとしたのじゃろう。爪で扉を傷つけたのも、力が強すぎた故…」。

曽祖父が呆然と見つめる先、箕のように巨大な爪痕は、彼を掴み損ねた怒りの痕跡ではなく、彼を救おうとした不器用な守護者の、力の痕跡だったのである。

「カーン」と鳴った刀の音は、邪心なき神聖なものに刃が触れた証。荒い息遣いは、人ならざるものが人に語りかけようとした、もどかしい息吹だったのかもしれない。曽祖父は恐怖ではなく、畏敬の念に打たれ、その場に深く頭を垂れるしかなかった。


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