〇〇三 屍変(しへん)
『月下白楊死闘図』
この一枚の絵は、動きが止まった瞬間の静寂を描きながらも、そこに至るまでの疾走と絶叫、そして未来永劫続くであろう恐怖の余韻を、墨の濃淡と筆の勢い、そして雄弁な余白のうちにすべて内包しているのである。
【しおの】
序章:満室の宿と霊前の夜
陽信県の蔡店という村に、一人の老人が暮らしていた。城下から五、六里ほど離れたその村の街道沿いで、翁は旅の商人らを相手に宿屋を営んでいた。
翁の宿を定宿にしている、馴染みの車夫たちがいた。ある日の黄昏時、そのうちの四人が連れ立ってやって来たが、あいにく宿は他の客で埋まっており、空いている部屋はひと間もなかった。
他に泊まるあてもないと、車夫たちはどうにか一夜を明かす場所を貸してほしいと必死に頼み込んだ。翁はしばらく思案に暮れた。一つだけ、使っていない部屋ならある。しかし、客人がそれをどう思うか、少しばかりためらわれた。
「軒下でも構いません。贅沢は申しませんから」
車夫たちは口々にそう言った。
実は折悪しく、翁の息子の嫁が亡くなったばかりで、その亡骸が奥のひと間に安置されていた。息子はまだ、棺をあつらえるための木材を求めに出て、戻ってはいない。翁は、亡骸のある部屋は静かで人目にもつかぬことから、そこへ車夫たちを通すことに決めたのだった。
小さな灯と不気味な物音
車夫たちが通されたのは、母屋から渡り廊下で繋がった奥の棟だった。部屋には薄暗い灯りがひとつ、台の上に置かれているばかり。その台の奥には帳が下ろされ、亡骸の上には白い紙の布団が掛けられているのが見えた。
彼らの寝床は、帳のさらに奥、いくつか寝台が連なっている場所にしつらえられた。三人の車夫は長旅の疲れからか、横になるやいなや、たちまち大きないびきをかき始める。
しかし、ただ一人、どうにも寝付けずにまどろんでいる男がいた。
その時だった。亡骸が横たわる寝台の方から、がさり、と衣擦れのような不気味な音が響いたのは。
男ははっと目を開けた。霊前に供えられた灯火がおぼろげに照らす中、女の亡骸が、掛けられていた紙の布団を押し退け、むくりと起き上がろうとしているではないか。
やがて女は寝台からすり下りると、ゆっくりとした足取りで、男たちの眠る部屋へと近づいてくる。その顔は蝋のような淡い金色を帯び、額には白い絹の布が巻かれていた。
女は寝台の縁に立つと、眠る男たちの顔を一人ひとり覗き込み、その顔に三度ずつ、冷たい息を吹きかけるという奇怪な行いを繰り返した。
男は恐怖に身を震わせた。次は自分の番だ。彼はそっと布団を引き上げると頭からすっぽりとかぶり、息を殺して耳を澄ませた。
逃亡:夜叉の追跡と白楊の木
間もなく、女が自分の寝ている寝台のそばへ来た気配がした。他の者たちと同じように冷たい息を吹きかけられるのを感じ、やがて女が部屋を出ていく。男が布団の隙間から恐る恐る顔を覗かせると、亡骸は元の寝台に、何事もなかったかのように横たわっているのが見えた。
男はひどく怯えながらも、隣で眠る仲間の身を案じたが、彼らは誰一人として身じろぎひとつしない。足で何度か隣の男をつついてみても、何の反応も返ってこなかった。
このままでは自分も危うい。男は逃げ出すことを決意し、衣を掴もうと身を起こした。その途端、がさり、と再びあの音がした。恐怖に凍りつき、男は慌てて布団の中へと頭を引っ込める。戻ってきた女は、今度は執拗に、何度も何度も息を吹きかけてから、ようやく立ち去っていった。
しばらくして、寝台のきしむ音が聞こえ、女が再び横になったことを悟った。男は布団の中で手探りのままなんとか袴を引き寄せると、急いでそれに足を通した。そして、抜き足差し足で部屋を出ると、戸の閂をそっと外し、裸足のまま闇の中へ一目散に飛び出した。
背後では、亡骸が起き上がる気配がする。女が帳から姿を現す頃には、男はすでに宿の門を駆け抜けていた。
緊迫:極限の攻防
男は助けを求め、大声で叫びながら走ったが、静まり返った村では誰一人として気づく者はいない。宿の主である翁の戸を叩こうかとも考えたが、そのわずかな時間で追いつかれてしまうだろう。
彼はただひたすら、城へと続く道を無我夢中で走り続けた。
城下の東の郊外まで来た時、闇の中に一軒の寺が浮かび上がるのが見えた。かすかに聞こえる木魚の音に、男は最後の望みを託して山門を力任せに叩いた。
中の僧はただならぬ様子に驚きながらも、すぐには門を開けてくれない。男が振り返ると、女の顔が、もう一尺と離れていない背後にまで迫っていた。
万事休す。男は門のそばに立つ一本の白楊の木を盾に、身をかわすしかなかった。幹の周りが四、五尺はあろうかという大木である。
女が右へ回れば男は左へ、左へ回れば右へと、大木を挟んでの必死の攻防が続いた。女は怒りに身を震わせているようだったが、やがて両者ともに動きが鈍り、疲れ果てていった。
ついに女はぴたりと動きを止め、その場に立ち尽くした。男もまた、背後の木に身を預け、汗を拭いながら荒い息をつく。その瞬間、女は凄まじい勢いで飛びかかり、大木を挟み込むように両腕を伸ばして男を捕らえようとした。
男はあまりのことに驚いて後ろへ倒れ込んだ。しかし、女の腕は男を捕らえることなく、代わりに大木を力強く抱きしめたまま、そのままの姿勢でぴくりとも動かなくなった。
終章:傷跡と帰郷
寺の僧は、外の物音が完全に途絶えたのをしばらく待ってから、おそるおそる門の外へ出てみた。そこには、一人の男が地面に倒れているのが見えた。
燭台の灯りで照らしてみると、男は死んだように冷たくなっていたが、胸に耳を当てると、かろうじて微かな鼓動が感じられた。僧は男を寺の中へ運び入れると、夜を徹して看病し、夜が明ける頃、男はようやく意識を取り戻した。
温かい湯を飲ませてやると、男は震えながら、昨夜の出来事を一から十まで語り始めた。
夜明けを告げる鐘が鳴り響き、あたりが白み始めた頃、僧が例の白楊の木を見に行ってみると、果たして、女の亡骸が木に抱きついたまま、硬直して立ち尽くしていた。
僧はこの一件をただちに町の役所へ届け出た。報告を受けた役場の長は自ら現場へ赴き、その異様な光景を検分した。
役人たちが女の腕を木から引き剥がそうとしたが、あまりに固く、びくともしない。よく見ると、その両手の指は鉤のように曲がり、爪が深く幹に食い込んでいる。数人がかりでようやくその亡骸を引き剥がすと、木の幹には、まるで鑿で穿ったかのような深い指の跡が残されていた。
役場の長が使いを翁の宿へやると、そこでは亡骸が消え、泊まっていた客たちが死んでいると大騒ぎになっていた。使いの者が事の次第を伝えると、翁はようやく事情を悟り、息子の嫁の亡骸を担いで帰っていった。
生き残った男は、役場の長に泣きながら訴えた。
「私たちは四人で旅に出て、私一人だけが生き残りました。この恐ろしい話を、故郷の者たちが信じてくれるでしょうか」
長は男を憐れみ、事の顛末を記した書状を持たせ、手厚く故郷へと送り届けたという。
この物語『屍変』は、短いながらも読む者の心に深く突き刺さる、怪異譚の傑作と言えましょう。
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1.恐怖と不思議さの核心
この物語の魅力は、単なるお化け屋敷のような恐怖ではなく、じわりと理性を侵食してくるような、静かで論理を超えた不気味さにあります。
•目的不明の恐怖:なぜ息を吹きかけるのか?
最大の恐怖は、女の亡骸の「目的が不明」である点です。人を食らうでもなく、何かを叫ぶでもない。ただ静かに起き上がり、眠る者の顔に三度ずつ息を吹きかける。この意味不明な儀式のような行為が、我々の理解の外にある「異界の法則」を感じさせ、底知れぬ恐怖を掻き立てます。もし彼女が何かを恨んで襲いかかってくるなら、まだ理解の範疇です。しかし、この静かな行動は、まるで植物が光を求めるように、あるいは虫が特定の匂いに集まるように、抗いがたい何かの摂理に従っているかのような、無機質で冒しがたい不気味さを放っています。
•孤立無援の絶望:仲間たちの沈黙
主人公が恐怖に駆られ、隣で寝る仲間を足で蹴っても「まったく反応しない」場面は、物語の転換点です。ここで恐怖は「亡骸そのもの」から、「自分だけがこの異常事態に気づいている」という絶望的な孤独感へと深化します。仲間たちはすでに死んでいるのか、それとも深い呪縛の中にあるのか。助けを呼べない閉鎖された空間で、たった一人、異質な存在と対峙しなければならない。この心理的な圧迫感こそが、読者の心を締め付けます。
•静と動のコントラスト
物語は終始、静かです。「カサカサ」という衣擦れの音、荒い息遣い、木魚の音。派手な効果音はありません。しかし、その静寂の中で繰り広げられる、夜を徹した無言の追跡劇と、白楊の木を挟んだ極限の攻防は、凄まじい「動」の緊張感を内包しています。最後の、女が木を抱きしめて硬直するという結末もまた、激しい動きの果ての「永遠の静止」であり、その異様な光景が恐怖の余韻を長く残すのです。
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2.文化的背景と類似の物語
この物語は、中国の怪異譚集『聊斎志異』に収録されている一編であり、その背景には中国古来の死生観や道教思想が色濃く反映されています。
•中国文化との関連:「僵屍」
この物語の動く死体は、日本の「幽霊」よりも、中国の「僵屍」に極めて近い存在です。キョンシーは、死後硬直したまま動く死体であり、多くは人の陽気(生きている者のエネルギー)を求めて襲いかかります。女が息を吹きかけたのは、生者の陽気を吸い取る、あるいは自身の陰気を吹き込んで殺すための行為と解釈でき、これはキョンシーの伝承と完全に一致します。また、体が硬直しているという描写も、キョンシーの特徴そのものです。
•日本文化との比較
日本の怪談にも死者が現れる話は無数にありますが、多くは「怨念」や「未練」といった、生前の強い感情に動機づけられています(例:「四谷怪談」のお岩さん)。彼らは特定の相手に祟りをなすことが多く、本作のように無差別に、かつ目的不明な行動をとる例は比較的珍しいと言えます。本作の恐怖は、感情的なウェットさよりも、法則的でドライな恐怖であり、この点が日本の怪談とは一線を画す面白さを持っています。
あえて似た情景を探すなら、説話集『今昔物語集』などに見られる、死体が夜中に起き出して人を襲うといった断片的な話や、死んだはずの者が生前の営みを繰り返すといった怪異譚に、その源流を見出すことができるかもしれません。
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3.考えられる後日談
物語は男が証文をもらって故郷へ帰るところで終わりますが、彼の本当の恐怖はここから始まるのかもしれません。
【後日談:白楊の木霊】
故郷へ戻った男は、役場の証文のおかげで何とか身の潔白を証明できた。しかし、彼の心からはあの夜の恐怖が片時も離れなかった。特に、女の冷たい息が吹きかかる感触は、夜毎に彼を悪夢へと引きずり込んだ。
数年後、男は商いの旅で再びあの陽信の地を訪れる決意をする。恐怖を克服するためか、あるいは何かに引き寄せられるように。
村は変わらぬ姿であったが、翁の宿屋はすでに廃業していた。男はまっすぐにあの寺へと向かう。山門の前には、今もあの白楊の木が立っていた。しかし、その姿は異様であった。女が抱きついた部分の樹皮は黒く変色し、まるで人の形の痣のように見え、そこから伸びる枝葉だけが不自然に青々と茂っていた。
寺の僧は男を覚えていた。僧が語るには、あの日以来、夜になるとあの木から女の嗚咽のような風切り音が聞こえるのだという。そして、村では不可解な病が流行り始めていた。それは決まって眠っている間に発症し、人々はまるで精気を吸い取られたように衰弱していくのだという。
男は悟る。あの女の怨念は、木に宿り、今もなお生きる者の息吹を求め続けているのだと。彼は死んだ仲間たちと、そして見知らぬ村人たちのために、その木を供養することを決意する。しかし、夜が更け、男が読経を始めると、白楊の木はざわめき始め、あの夜と同じ、冷たい風が彼の首筋を撫でたのだった…。
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4.もう一つの結末
もし、この物語がさらに意外な結末を迎えるとしたら、その鍵は「なぜ主人公だけが生き残ったのか」という点にあるでしょう。
【結末案:選ばれた者】
寺で夜を明かし、役人の検分も終わった。男は、他の三人の亡骸と対面する。仲間たちの顔は安らかであったが、その肌は蝋のように白く、まるで血の一滴も残っていないかのようだった。
役場の長から証文を受け取り、故郷への帰路につく男。しかし、彼の身体には奇妙な変化が起きていた。あれほどの恐怖を体験したにもかかわらず、心は不思議と凪いでおり、長旅の疲れも感じない。むしろ、夜になると力が漲ってくるような感覚さえあった。
故郷への道中、彼は気づく。道端の草花が、彼が通り過ぎるとわずかに萎れることに。小鳥たちが、彼が近づくと一斉に飛び去ることに。
そしてある夜、宿で眠りについた彼は、夢を見る。あの女が夢枕に立ち、優しく微笑んでいる。そして、彼の顔にそっと息を吹きかける。しかし、その息はもはや冷たくはなく、むしろ心地よい。女は何も言わず、ただ彼に頷きかけると、月の光の中へ溶けるように消えていった。
男は飛び起きた。手鏡を覗き込むと、そこに映る自分の顔は淡い金色を帯び、瞳の奥には闇夜のような静かな光が宿っていた。
彼は理解した。あの女は、仲間を探していたのだ。陰の気を吹き込まれてもなお、それに耐えうる魂を持つ者。死してなお、この世に在り続けることができる、同類を。他の三人は耐えきれず陽気を吸い尽くされて死んだが、彼だけが生き残ったのではない。彼は「選ばれた」のだ。
証文を懐から取り出し、男はそれを粉々に引き裂いた。もはや人の世の証明など彼には不要だった。彼は故郷へは向かわず、陽が沈んだ西の空へと、静かに歩き始めた。彼の旅は、まだ始まったばかりであった。




