〇弐二 嬌娜(きょうだ)
序章:天台への旅路と空き屋敷の友
孔子の血を引く末裔に、孔生、字を雪笠と名乗る男がいた。その人柄は穏やかで、詩を詠むことに長けていた。
ある時、親友が天台県の長官に任じられたことから、遠路を招く一通の文が届いた。孔生は遥々その地へ赴いたが、友は志半ばで客死したあとであった。帰る旅費もなく、都で途方に暮れた孔生は、古刹である菩陀寺に身を寄せ、僧らの写本を手伝うことで、その日の糧を得ていた。
寺の西へ百歩ほど行くと、単先生と呼ばれる人の屋敷があった。先生はもと貴族の出であったが、大きな訴訟に巻き込まれて家は傾き、家族も散り散りになった。やがて遠い田舎へと移り住んだため、その屋敷は主を失い、永く静寂に閉ざされていた。
ある日のこと、世界を白く塗りつぶすかのような大雪が降りしきり、人の往来も絶えた頃、孔生が偶然にもその門前を通りかかった。
すると、中から一人の若者が姿を現した。その佇まいは気品に溢れ、息をのむほどに美しかった。若者は孔生に気づくと、すぐに歩み寄り、深く丁寧な礼を述べた。そして、旅の疲れを気遣う優しい言葉をかけ、屋敷の中へと招き入れたのである。孔生はその若者の清らかな人柄に心惹かれ、ためらうことなく誘いに応じた。
屋敷はさほど広大ではなかったが、至るところに美しい錦の帳が垂れ、壁には年代物の書画が数多く飾られていた。机の上には一冊の書物が置かれ、その表紙には『琅嬛瑣記』と記されている。孔生が頁をめくると、そこに綴られているのは、いずれも彼がこれまで一度も目にしたことのない、摩訶不思議な物語ばかりであった。
孔生は、若者が単氏の旧宅にいることから、この家の主人であろうと察したが、その身分を詳しく尋ねることはしなかった。若者は、孔生が都へ来た経緯を静かに聞き、深く同情を寄せると、私塾を開いて弟子を教えることを勧めた。孔生は深くため息をつき、こう言った。「見ず知らずの旅の者に、誰が後ろ盾となってくれましょうか」
すると若者は言った。「もし、私のような未熟な者を弟子としてお見捨てにならないのでしたら、どうか教えを乞わせてはいただけませんか」
孔生は喜んだものの、師となるにはあまりに恐れ多いと固辞し、せめて友として交わりたいと願った。
そして、ふと尋ねた。「このお屋敷は、なぜこれほど長く門を閉ざしておられたのですか」
若者は答えた。「ここは元々、単氏のお屋敷です。ご子息が郷里へお移りになったため、長いこと空いておりました。私は皇甫と申します。先祖は陝西の出身ですが、先頃、住まいが野火で焼かれ、仮の住まいとしてここをお借りしているのです」
孔生はそこで初めて、彼が単氏の者ではないことを知った。
交友:香奴との出会い
その夜、二人の語らいは尽きることなく、若者は孔生を屋敷に泊めた。夜がまだ明けきらぬ頃、童子が部屋に入り、静かに炭火を熾していく。若者はすでに身を起こして奥へと入ったが、孔生はまだ布団にくるまったまま、ぼんやりと座っていた。
そこへ童子が再び入って来て、「太公様がお見えになりました」と告げた。孔生は驚いて寝床から起き上がった。
入ってきたのは、鬢の白い一人の老人であった。老人は孔生に向かい、深く頭を下げて礼を述べた。「先生が、愚息を友としてお認めくださるとのこと、まことにありがたく存じます。あの子はまだ学問の入り口に立ったばかり。どうか友としてではなく、厳格な師としてお導きください」
そう言うと、老人は孔生に、錦の衣一揃えに、貂の毛皮で仕立てた帽子、そして新しい靴下一足と履物を贈った。
孔生が身なりを整えるのを見届けると、老人は酒と料理を運ぶよう命じた。卓や寝台の調度品、そして身にまとう衣類は、いずれも孔生が目にしたこともないほど豪華なもので、まばゆい光を放っていた。酒を幾度か酌み交わしたのち、老人は杖を手に、静かに座を辞していった。
食事が終わると、若者は孔生に課題を示した。それはすべて古の文章であり、官吏登用試験のための時文は一つもなかった。孔生がその理由を尋ねると、若者は微笑んで言った。「私は、世に出て名を成すことを望んではおりませんので」
夕刻となり、二人は再び酒を酌み交わした。若者が言う。「今宵は心ゆくまで楽しみましょう。明日からは、こうはいきませぬゆえ」
そして童子を呼び、「父上はお休みになられたか。もしお休みであれば、そっと香奴をこちらへ」と命じた。
童子が去ると、まず刺繍の袋に納められた琵琶が運ばれてきた。ほどなくして、一人の侍女が部屋へと入る。紅を差したその顔立ちは、類まれなる美しさであった。若者は命じた。「湘妃の曲を」
侍女が象牙の撥で弦を弾くと、その音色は激しくも哀切に満ち、孔生が知るどの曲とも異なる旋律を奏でた。若者は大きな杯で酒を勧め、宴が果てたのは、夜も三更を過ぎた頃であった。
翌日から、二人は早朝より共に書を読んだ。若者は驚くほど聡明で、一度目を通せば文章の意を解し、二、三月も経つ頃には、筆を取れば見事な文章を綴るまでになった。二人は五日ごとに酒宴を開くことを決め、そのたび、必ず香奴を呼んで席に華を添えた。
ある夜、酒が回り、体が火照るのを感じた孔生は、知らず知らずのうちに香奴へ熱い視線を送っていた。若者はすぐにその心を察し、静かに言った。「この娘は、父が傍に置いている者ゆえ、お許しくだされ。兄上は長く故郷を離れ、奥方もおられぬ。そのお寂しさを、私も夜ごと案じておりました。そろそろ、兄上のために良き伴侶を探さねばなりませんね」
孔生は応えた。「もし私に妻をめとる幸運があるのなら、必ずや香奴のような娘でなければ」
若者は笑った。「兄上は、まだ世の美しいものをほんの少ししかご覧になっていない。この程度の娘で良いとおっしゃるなら、その願いを叶えるのは、さほど難しいことではありますまい」
病床:仙女の診察
それから半年ほどの月日が流れた。孔生はたまには郊外を散策したいと思ったが、屋敷の門は固く閉ざされたままであった。その訳を尋ねると、若者は「父が、外との交わりで心が乱れるのを案じ、客との面会を一切断っているのです」と答える。孔生も、それならばと納得した。
季節は盛夏。厳しい暑さが続くある日、孔生の胸元に熟れた桃のような腫れ物ができた。それは一晩で椀ほどの大きさにまで膨れ上がり、彼は耐えがたい痛みに呻き苦しんだ。若者は朝夕欠かさず見舞いに訪れ、食事も睡眠も忘れて、つきっきりで看病した。
しかし数日後、病状はさらに悪化し、孔生は水も喉を通らなくなった。老太公も心配して顔を見せ、若者と二人、ただため息をつくばかりであった。
若者は言った。「昨夜、先生の病を案じながら考えておりました。妹の嬌娜ならば、これを治せるやもしれませぬ。人を遣わし、母方の祖父の家から呼び戻させてはいるのですが、まだ戻らぬのです」
間もなく、童子が入って来て告げた。「娜お嬢様がお戻りになりました。叔母様と松姑様もご一緒です」
それを聞くと、父子は急いで奥へと入っていった。
しばらくして、孔生を診るために、一人の娘が部屋へ通された。年は十三、四歳ほどであろうか。その涼やかな瞳は叡智の色を湛え、柳のようにしなやかな肢体は、見る者の心を奪う。孔生はその顔を一目見た途端、あれほどの苦痛を忘れ、心がすっと晴れ渡るのを感じた。
若者がすぐに言った。「この方は私の無二の友人で、実の兄弟も同然だ。妹よ、どうか力を尽くして治してあげてくれ」
娘は恥じらいを隠しながらも、長い袖を翻して寝台のそばへ進み、孔生の脈を診た。その手に触れた瞬間、孔生は蘭よりもなお芳しい香りが立ち上るのを感じた。
娘は微笑んで言った。「この病は、なるべくしてなったもの。心の臓の脈が乱れております。症状は重いですが、治せます。ただ、皮膚の下の塊がすでに固まっておりますので、肌を切り、肉を削ぐほかございません」
娘は、自らの腕を飾る金色の腕輪を静かに抜き取ると、それを患部に当てた。ゆっくりと押し下げるにつれ、腫れ物は一寸ほど盛り上がり、腕輪の外へと押し出される。根元に残っていた腫れもすべて腕輪の内側に収まり、もはや椀ほどの広さはなかった。
娘は片手でそっと襟元をゆるめ、腰に帯びた、紙よりもなお薄い刃を持つ小刀を抜いた。そして腕輪をしっかりと握り、その刃を腫れ物の根元に当て、静かに切り始めた。
紫色の血が流れ、寝台の布を汚したが、孔生はその妖艶なまでの姿に見惚れ、痛みを感じるどころか、この時間が少しでも長く続くことを願うばかりであった。
やがて、腐った肉の塊が切り離された。それはまるで、木の瘤を削ぎ落としたかのようであった。娘は水を持ってこさせると、傷口を清め、自らの口から弾ほどの大きさの赤い丸薬を取り出し、その上に置いた。そして、ゆっくりと円を描くように転がし始めた。
丸薬が一巡りすると、孔生は体の中から熱い蒸気が立ち上るのを感じた。二巡り目には、かすかなかゆみを覚えた。三巡りすると、全身に清涼な気が満ちわたり、その心地よさは骨の髄まで沁みわたるようであった。
娘は丸薬を再び口に含むと、「もう大丈夫です」と言い残し、静かに立ち去った。孔生は寝台から飛び起き、深く礼を述べた。長らく彼を苦しめた病は、まるで嘘のように消え去っていた。
帰郷:狐の夫婦と雷霆の試練
しかし、孔生の心には嬌娜の美しい面影が焼き付き、その想いは募るばかりであった。書物を読むことさえ忘れ、ただぼんやりと座して時を過ごすようになった。
若者はその心中を察し、言った。「兄上のために、良き縁談を見つけてまいりました」
孔生が「どなたかな」と尋ねると、「私の親戚です」と若者は答えた。孔生はしばらく物思いに沈み、「お任せしよう」とだけ呟いた。そして、壁に向かい、古の詩を吟じた。
— かつて大海原を見た者にとって、他の水はもはや水とは映らない。巫山の雲を見た者にとって、他の雲はもはや雲ではないのだ —
若者はその詩に込められた想いを深く理解し、こう言った。「父も、兄上の類まれな才能を敬い、常々ご縁を結びたいと願っておりました。ですが、妹はまだあまりに幼い。叔母の娘に、阿松という者がおります。年は十八、なかなかの美貌です。もしお信じになれないのでしたら、松姉は毎日、庭のあずまやを散策いたします。手前の部屋でお待ちになれば、その姿をご覧になれましょう」
孔生が教えられた通りにしていると、果たして、嬌娜と共に一人の女性がやって来た。その眉は蛾の羽のように美しく、小さな纏足の靴で歩む姿は、さながら鳳凰が舞うかのよう。その美しさは、嬌娜と肩を並べるほどであった。
孔生は心から喜び、若者に仲立ちを頼んだ。
翌日、若者は奥から戻ると、「万事、うまくいきました」と祝辞を述べた。そして別の部屋を清め、孔生のために祝言の席を設けた。その夜は、楽の音が響きわたり、芳しい香が満ちていた。夢にまで見た仙女が、今や同じ寝台にいる。月の宮殿も、必ずしも遥かな雲の上にあるわけではあるまい、と孔生は夢見心地に思った。夫婦の契りを交わした二人の心は、深く満たされた。
ある晩、若者は孔生に告げた。「兄上から賜った教えの恩は、決して忘れません。実は近頃、単氏のご子息が訴訟を終えて帰郷され、この屋敷を明け渡すよう急かされております。我らはここを去り、西へ向かうつもりです。兄上と再び会うことも難しくなりましょう。そう思うと、別れの思いが募ります」
孔生は、自分も共に西へ行きたいと願ったが、若者は故郷へ帰るよう勧めた。孔生が難色を示すと、若者は言った。「ご心配には及びません。すぐにあなた様をお送り届けましょう」
やがて老太公が松娘を連れて現れ、孔生に黄金百両を贈った。若者は、孔生夫婦の両手をそれぞれ固く握り、「決して目を開けてはなりませぬぞ」と強く念を押した。
ふわりと体が浮き上がる感覚があり、耳元ではただ風の音だけが鳴り響いていた。しばらくして、「着きました」という声がした。目を開けると、そこは紛れもなく、彼の故郷であった。孔生はそこで初めて、若者が人ならざる者であったことを悟った。
彼は喜び、家の門を叩いた。母は息子の思いがけない帰宅に驚き、さらに傍らに立つ美しい嫁の姿を見て、この上ない喜びに満たされた。振り返ると、若者の姿はすでにどこにもなかった。松娘は姑によく仕え、その美しさと賢明さは、やがて広く知られることとなった。
尾章:雷霆の劫と真の愛
その後、孔生は科挙に合格し、延安の判事に任じられ、家族を連れて任地へと赴いた。老母は道中の厳しさを理由に、故郷に残った。松娘は一人の男の子を産み、小宦と名付けた。
しかし孔生は、監察官の怒りを買って官職を追われ、故郷へ戻ることもできず、任地で不遇の時を過ごしていた。
ある日、郊外で狩りをしていると、黒い馬に跨った一人の美しい若者が、何度もこちらを振り返るのに気づいた。目を凝らせば、それはかつての日々の友、皇甫公子であった。二人は馬を止め、手を取り合って再会を喜んだ。公子は孔生を招き、ある村へと案内した。そこは木々が鬱蒼と茂り、天を覆い隠すほどの深い森の中にあった。
案内された家は、まさしく貴族の屋敷そのものであった。孔生が嬌娜の消息を尋ねると、すでに嫁いだと聞き、また叔母が亡くなったと知らされ、深く心を痛めた。その夜はそこに泊まり、翌朝、公子に別れを告げると、妻の阿松を連れて再び訪れた。そこへ嬌娜もやって来て、孔生の息子を抱き上げ、戯れながら言った。「お姉様、私の血筋を乱してしまいましたね」
孔生は、かつて命を救われた恩を思い出し、深く拝礼した。嬌娜は笑って言った。「お兄様、立派になられて。傷は癒えても、痛みまではお忘れではありますまい」
やがて、嬌娜の夫である呉郎も挨拶に現れた。孔生たちは、二晩をそこで過ごし、任地へと戻っていった。
ある日のこと、公子が憂いを帯びた顔で孔生を訪ね、言った。「天より災厄が下ります。どうか、私をお助け願えまいか」
孔生は何のことかわからなかったが、友の頼みとあらばと、命を懸けることを誓った。公子は急いで屋敷に戻り、家族全員を広間に集めると、孔生に向かって一斉に拝礼させた。孔生はひどく驚き、慌ててその訳を尋ねた。
公子は言った。「私は、人ではありません。狐です。今、雷がもたらす天の劫罰を受けようとしています。あなたが身を挺してこの難に立ち向かってくだされば、我ら一族は生き延びることができるやもしれませぬ。もしそれが叶わぬのであれば、子を抱いてここをお立ち去りください。あなた様を巻き込むわけにはまいりません」
孔生は、生死を共にすることを固く誓った。公子は彼に一振りの剣を授け、門の前に立たせると、「雷が轟こうとも、決して動いてはなりませぬ」と強く言い含めた。
孔生はその教えに従った。果たして、黒い雲が空を覆い、昼間がまるで闇夜のように閉ざされた。故郷の家を振り返ると、もはや門も垣根も見えず、ただ巨大な塚がそびえ立ち、底知れぬ大きな穴が口を開けているだけであった。
孔生が呆然としていると、山々を揺るがす凄まじい轟音と共に雷が鳴り響いた。激しい雨と風が吹き荒れ、大木さえも根こそぎなぎ倒されていく。孔生は目が眩み、耳も聞こえなくなったが、微動だにせずその場に立ち続けた。
その時、濃い煙と黒い塵の中、一匹の鬼のような怪物が、鋭い嘴と長い爪で、穴の中から一人の人間を掴み出し、煙と共に天へと昇っていくのが見えた。その衣を見て、孔生はそれが嬌娜であることに気づいた。
彼は迷わず地面を蹴ると、天高く飛び上がり、剣で怪物を斬りつけた。怪物は悲鳴をあげ、たちまち地上へと落ちていった。
その瞬間、再び雷鳴が轟き、孔生は地面に打ち倒され、そのまま息絶えてしまった。
しばらくして、空が晴れ渡ると、嬌娜が自力で意識を取り戻した。彼女は、傍らで冷たくなっている孔生を見つけ、泣き叫んだ。「孔様が、私のために命を落とされた。どうして私だけが生きていられましょう!」
松娘も駆けつけ、二人で孔生の体を担ぎ、家へと運んだ。嬌娜は松娘に孔生の頭を支えさせ、兄に金のかんざしでその歯をこじ開けさせると、自ら彼の顎を取り、口の中に含んでいた赤い丸薬を孔生の口へと移した。そして唇を重ね、静かに息を吹き込む。丸薬は息と共に喉の奥へと滑り込み、ごくりと音を立てた。やがて、孔生の体がかすかに動き、ゆっくりと意識を取り戻した。目の前に家族の顔があるのを見て、彼は長い夢から覚めたかのようであった。
こうして一家は再び生を得て、驚きが静まると、皆の顔に喜びの色が広がった。孔生は、この妖しい土地に長居するのは危険だと考え、故郷へ戻ることを提案した。皆はそれに賛成したが、嬌娜だけは浮かない顔をしていた。孔生が、呉郎と共に帰ろうと言うと、呉郎の両親は幼子を連れての長旅を渋り、話はなかなかまとまらなかった。
その時、呉家の小姓が、汗だくで息を切らしながら駆け込んできた。驚いて事情を尋ねると、呉郎の家もまた同じ日に雷の劫に遭い、一族もろとも亡くなったという。嬌娜は大地を踏み鳴らして悲しんだが、皆に慰められ、孔生たちと共に故郷へ向かうことを決意した。
孔生は城へ戻り、数日かけて旅の支度を整え、夜を徹して荷をまとめると、皆を連れて故郷へと帰った。
故郷に着くと、彼は空いていた庭の一角に公子たち一家を住まわせ、常に門を閉ざして暮らさせた。その門が開かれるのは、孔生と松娘が訪れる時だけであった。孔生は公子や兄妹と、碁を打ち、酒を酌み交わし、談笑して過ごした。その様子は、まるで一つの家族のようであった。
息子の小宦は健やかに成長し、その容貌は美しく優雅で、どこか狐を思わせる気品を漂わせていた。彼が町へ出ると、人々は皆、彼が狐の子であることを知っていたという。
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異史氏(作者・蒲松齢)はここに記す。
私が孔生を見て羨むのは、彼が美しい妻を得たことではない。彼が生涯の友を得たこと、その一点である。
友の姿を見れば、空腹さえ忘れ、その言葉を聞けば、心のわだかまりが解けていく。このような良き友を得て、時折、酒宴を共にする。それは、ただ視線を交わすだけで魂が通い合うような、深く清らかな交わりであり、ただ衣を乱し、肌を重ねるだけの交わりとは比べものにならぬ、遥かに気高いものであろう。
『嬌娜』の深層:異界との境界線で揺ら動く心
この物語は、単なる人と狐の異類婚姻譚にとどまりません。その根底には、人の世の常識や価値観が、異界の存在の持つ純粋な「情」の前にいかに脆く、またいかに豊かにされうるかというテーマが流れています。
1. 物語の多面的な表現
不思議さと人情味:
この物語の根幹をなすのは、「人ならざる者の方が、人間以上に人間らしい情を持つ」という逆説的な美しさです。孔生が困窮している時に手を差し伸べたのは、人間社会の友人ではなく、空き屋敷に潜む狐の一族でした。彼らが提供する豪奢な暮らしや、嬌娜の奇跡的な医療は「不思議さ」の極致ですが、その動機は徹頭徹尾、孔生への友情、尊敬、そして愛情という純粋な「人情味」に基づいています。特に、孔生が病に倒れた際の皇甫公子一家の献身的な看病は、血の繋がった家族以上の温かさに満ちています。
滑稽さと皮肉:
物語には、 微妙な滑稽さと皮肉が散りばめられています。
孔子の末裔と狐: 儒教の祖であり、人間社会の秩序と礼節の象徴である孔子の末裔が、人間社会からこぼれ落ち、物の怪である狐に救われ、深く交わる。この設定自体が、人間社会の建前に対する壮大な皮肉と言えます。「立身出世を望んでいない」と語る皇甫公子は、科挙に合格し官吏となる孔生よりも、遥かに自由で高潔な精神の持ち主として描かれています。
「少ししか見ていないのに」: 孔生が香奴に心を奪われた時、公子が「兄上は本当に『少ししか見ていないのに、何でも珍しく思う』方だ」と笑う場面。これは孔生の世間知らずさを優しく揶揄する滑稽な場面であると同時に、「人間の美の基準など、我々の世界から見れば些細なものだ」という、異界の住人からの皮肉めいた視線も感じさせます。
狐の子: 息子の小宦が「どこか狐のような気質を持っていた」ため、人々が彼を狐の子だと知るようになる、という結び。これは微笑ましい後日談でありながら、「人の噂とはいかにいい加減なものか」という滑稽さと、「しかし、その噂は真実なのだ」という不思議さが同居する、絶妙な味わいを持っています。
恐怖心:
物語のクライマックスである「雷霆の劫」の場面は、美しい幻想譚から一転して、宇宙的な恐怖の様相を呈します。
世界の崩壊: 見慣れた屋敷が「巨大な塚」と「底なしの巨大な穴」に変貌する描写は、日常が足元から崩れ去る根源的な恐怖を呼び起こします。これは、彼らのいる場所が、人間の世界とは異なる理で成り立つ異界であることを、読者にまざまざと見せつけます。
人知を超えた存在: 雷鳴と共に現れる「鋭い嘴と長い爪」を持つ鬼のような生き物は、人間の理解や対処能力を完全に超えた、抗いようのない天災、あるいは神罰の化身です。孔生が剣で立ち向かうのは、人間が運命そのものに刃を向けるに等しい、悲壮で無謀な行為であり、その姿に読者は畏怖と恐怖を感じるのです。
2. 日本および異文化との共鳴
この物語のモチーフは、世界各地の神話や民話と深く共鳴しています。
日本文化との類似性:
狐の嫁入り(異類婚姻譚): 日本には、狐が人に化けて嫁入りする「葛の葉伝説」(安倍晴明の母)など、数多くの異類婚姻譚が存在します。『嬌娜』の孔生と阿松の関係は、まさにこの系譜に連なります。正体を知った後も愛情が変わらない点は、多くの物語に共通するテーマです。
鶴の恩返し(恩返し譚): 助けられた動物が、人間になって恩を返す物語。皇甫公子が困窮した孔生を助けたのは、直接的な恩返しではありませんが、学問という「徳」に対して礼を尽くすという、広義の恩返しと捉えられます。孔生が目を閉じて故郷へ送られる場面は、「見るなのタブー」を彷彿とさせます。
浦島太郎(異界訪問譚): 人間が異界を訪れ、手厚いもてなしを受けるが、そこでの時間は人間界とは流れが違う、というモチーフ。『嬌娜』では時間の流れの違いは明確ではありませんが、人間社会から隔絶された空間で、夢のような日々を過ごす点は共通しています。
他の異文化との比較:
ギリシャ神話の「オルフェウスとエウリュディケ」: 愛する者を取り戻すために、死の国という異界へ赴く物語。愛する者のために命を懸けるという点で、孔生の行動と重なりますが、『嬌娜』ではハッピーエンドを迎える点が対照的です。
ヨーロッパの「白鳥の乙女」や「セルキー」伝説: 羽衣やアザラシの皮を奪われ、人間の妻となる天女や精霊の物語。これらの多くは、最終的に異界の故郷へ帰ってしまうという悲恋で終わることが多く、最後まで家族として共に暮らす『嬌娜』の結末は、より人間的な情愛の勝利を謳っていると言えます。
道教思想: 「雷霆の劫」は、西洋の物語には見られない、道教思想に根差した独特の概念です。修行を積んだ霊的存在が、さらに高い段階へ昇る(あるいは仙人になる)ために乗り越えねばならない天からの試練であり、この物語が中国文化圏の作品であることを強く示しています。
3. 考えられる後日談と、もう一つの結末
その後の物語(後日談):
●息子の葛藤と旅立ち: 成長した小宦は、自らの内に流れる狐の血と人間の心の間で葛藤します。彼はやがて、自分のルーツを探るため、あるいは人間と物の怪が共存できる場所を求め、父の友であった皇甫公子を訪ねる旅に出る。その旅の途中で、彼は様々な物の怪と出会い、父が結んだ絆の大きさを知ることになります。
●嬌娜の新たな人生: 夫と家族を失った嬌娜は、孔生一家と共に穏やかに暮らすものの、その心には深い孤独が影を落としています。ある日、彼女の持つ不思議な医療の力が人の世に知れ渡り、多くの病人が彼女を頼って訪れるようになる。彼女は人々を癒すことに新たな生きがいを見出すが、その力は同時に、彼女を異端視する人間からの新たな災厄を呼び寄せてしまうかもしれません。
●避けられぬ別れ: 最大のテーマは「時間」です。人間である孔生は老い、やがて死を迎えます。しかし、狐である阿松や皇甫公子、嬌娜は遥かに長い時を生きるでしょう。孔生の死後、妻の阿松はどうなるのか。人間の姿を保ち続けるのか、それとも狐の姿に戻り、一族と共に去っていくのか。愛する者との永遠の別れという、異類婚姻譚が本質的に抱える、切なくも美しい物語が紡がれることでしょう。
もう一つの意外な結末:
『紅丸の代償』
嬌娜が孔生を蘇らせた赤い丸薬。それは、彼女が長い年月をかけて練り上げた「内丹」、すなわち彼女の生命力そのものでした。
孔生を救ったことで、嬌娜は力を失い、徐々に狐の姿へと戻り始めます。最初は美しい娘の姿を保てなくなり、やがて言葉も話せなくなり、最後にはただの白い狐になってしまうのです。
一家はその事実を知り、悲しみに暮れます。孔生は自分の命が、愛すべき義妹の犠牲の上にあることを知り、生涯、その白い狐を家族として慈しみ、世話をします。
物語の最後、老いた孔生が息を引き取るその枕元で、白い狐が静かに寄り添い、共に眠りにつく。そして、その亡骸の口元には、かつて嬌娜が与えたものと同じ、小さな赤い丸薬がそっと置かれている…という結末。
これは、愛と犠牲の循環、そして人間と物の怪の魂の交わりが、死を超えて続くことを暗示する、哀しくも美しい結び方です。




