〇弐一 狐の嫁入り
「狐の祝言、月下の楼閣」
月見台の上、画面の左端に、石を枕に寝入る主人公・殷天官の姿が、右手の階下から楼閣へと続く階段に、狐たちの行列が、現実と幻想が混じり合い、やがて消えゆく夢のような一夜の情景が、永遠に封じ込められるのです。
【しおの】
序章:廃墟の賭け
歴城に、殷天官という男がいた。まだ官職を得る前の若く貧しい書生であったが、その胆力と据わった度胸は、知る人ぞ知る評判であった。
彼が住まう町外れに、かつては名家のものであったという広大な屋敷が打ち捨てられていた。数十畝もの敷地には楼閣がいくつも連なっていたというが、今では怪異が頻繁に起こると噂され、住む者とてなく、すっかり廃墟と化している。歳月は屋敷を蓬や茅で覆い尽くし、真昼の光の下でさえ、好んで足を踏み入れようとする者は一人もいなかった。
ある日のこと、殷が書生仲間と酒を酌み交わしていると、一座の中から戯れにこんな声が上がった。
「あの屋敷で一夜を明かし通す豪の者がいれば、我ら一同で銭を出し合い、盛大な宴を催そうではないか」
その言葉が終わるか終わらないかのうちに、殷はすっくと立ち上がり、言い放った。
「たやすいこと。何を難しいことがあろうか」
彼は敷物を一枚手にすると、たった一人で屋敷へと向かった。友人たちは屋敷の門まで彼を見送りながら、なおもからかうように声をかける。
「我らはここで暫し待っている。もし怪しいものを見たら、大声で知らせてくれよ」
殷はただ笑って応じる。
「狐か鬼か、何かしら出くわしたなら、その証拠でも掴んで戻るとしよう」
狐の婚礼と金杯
屋敷に一歩足を踏み入れると、長く伸びた茅が道を覆い、蒿や艾が麻のように鬱蒼と生い茂っている。空には上弦の月がかかり、幸いにもそのほの白い光が、かろうじて戸口のありかを示してくれた。殷は草をかき分け、手探りで数十歩も進んだであろうか、ようやく奥まった楼閣へとたどり着いた。
月見台に上がってみると、そこは意外にも塵一つなく掃き清められており、心地よい。彼はここで夜を明かすことに決めた。西の空に目をやれば、月は山の端に細い光の筋を残すばかり。しばらく腰を下ろしていても、怪しい出来事は何一つ起こらない。殷は、世の噂の当てにならなさを密やかに笑った。やがて彼は持参した敷物を広げ、手頃な石を枕に横たわり、満天に広がる天の川と、そこに輝く織女星と牽牛星を仰ぎ見た。
一更の鐘が鳴る頃、殷がまどろみ始めたその時だった。階下から人の踏む音が聞こえ、何やら騒がしくこちらへ上って来る気配がする。彼は咄嗟に眠りを装い、瞼の隙間からそっと様子を窺った。すると、青い衣をまとった男が、蓮の花をかたどった灯籠を手に現れた。男は殷の姿に気づくと、はっと息を呑み、慌てて階下へと引き返していった。
「生きた人間がおりますぞ」
男が後続の者たちへ告げる声が聞こえる。
階下からは「何者だ」と問う声。男は「見知らぬ男にございます」と答えている。
やがて、一人の老翁が静かに上ってくると、殷の傍らでしばし彼の寝顔を窺っていたが、やがてこう言った。
「これは、かの殷尚書殿ではないか。既にお休みのご様子。我らは我らの用を済ませるとしよう。殷殿は気骨のあるお方、我らを咎めたりはなさるまい」
その言葉を合図に、人々は次々と楼閣へと入ってゆき、固く閉ざされていたはずの扉が音もなく開かれていく。見る間に人の往来は増え、楼上はあまたの灯火で真昼のように照らし出された。この時、殷はわざとらしく寝返りを打ち、一つ咳払いをした。老翁は彼が目を覚ましたことに気づくと、すぐさま彼の前へ進み出て、恭しくひざまずいた。
「私どもの娘が、今宵、嫁ぐことになりまして。思いがけず貴方様のお休みを妨げてしまいましたこと、深くお詫び申し上げます」
殷はやおら起き上がると、老翁の手を取って立たせ、こう言った。
「いやはや、今宵が祝言の儀とは露知らず。何の祝いも用意できず、かえって恥じ入るばかりです」
老翁は答えた。
「とんでもない。貴方様のような徳の高いお方がここにいらっしゃるだけで、あらゆる凶事を払い、私どもには幸いこの上ないのです。どうか、このまま婚礼の席にお付き合い願えませんでしょうか。それこそが、我らにとって望外の誉れにございます」
殷はこれを快く承諾した。
楼閣の中へ招き入れられると、そこは絢爛たる設えで、えも言われぬ芳香が満ちていた。やがて、年の頃四十ほどの婦人が現れ、深く拝礼する。老翁が「これが、私の妻にございます」と紹介し、殷も丁寧に挨拶を返した。
ほどなくして、笙の音が天にも響くほどに鳴り渡り、一人が階上へ駆け上がってきて「ただ今、お着きになりました」と告げた。老翁は慌ただしく迎えに出て、殷もまた席を立ってその到着を待った。
まもなく、薄絹の覆いを掲げた一団に導かれ、新郎が姿を現した。年は十七、八の頃であろうか、目を見張るほど秀麗な若者である。老翁はまず、新郎に貴き客である殷へ挨拶するよう促した。若者が殷へ一礼すると、殷は即席の媒酌人として、新郎側の席に座り、半ば主人役として礼を返した。続いて、翁と婿が互いに拝礼を交わし、ようやく席に着いた。
やがて、華やかに着飾った女たちが次々と現れ、ご馳走の湯気と美酒の香りが立ち込める。卓上には玉の碗や金の杯がきらびやかに並べられた。酒宴が進み、皆の顔がほろ酔いになった頃、老翁は侍女に「さあ、娘をこちらへ」と命じた。
侍女は承知して奥へ下がったが、なかなか花嫁は姿を見せない。痺れを切らしたのか、老翁は自ら席を立ち、帳を掲げて娘を促した。
ほどなくして、数人の侍女や老女にかしずかれ、花嫁が静かに現れた。歩むたびに髪に挿した玉の飾りがちりりと優雅な音を立て、麝香と蘭を合わせたようなかぐわしい香りがふわりと漂う。老翁は娘に、まず上座へ向かって拝礼するよう命じた。花嫁が深々と頭を下げると、母親の隣へと腰を下ろした。殷がそっとその姿に目をやれば、翠に輝く鳳凰の簪、きらめく耳飾り、そのどれもが花嫁の類まれな美しさを引き立て、まさに絶世の美女と呼ぶにふさわしかった。
やがて、殷の前にも金でできた大きな杯が差し出された。それは数斗もの酒が入ろうかという、見事な大杯である。これぞ友人たちに示す格好の証拠品になる。そう考えた殷は、人知れず杯をそっと袖の中へ滑り込ませた。そして、すっかり酔いが回ったふりをし、卓に突っ伏して眠り込んでしまった。「おお、尚書様は酔いつぶれてしまわれた」と、周りの者たちが囁き合うのが聞こえた。
盗まれた証拠
それからほどなくして、新郎が別れを告げると、再び笙の音が賑やかに鳴り響き、人々は次々と階下へと去ってゆく。やがて主人たちが宴の跡を片付け始めたが、どうしたことか、金の杯が一つ足りない。一同、隅から隅まで探し回ったが、杯はどこにも見当たらなかった。
誰かが、眠りこけている客、殷のことを小声で指さした。老翁は殷の耳に入ることを恐れ、すぐさま一同を厳しく戒め、そのことを口外せぬよう固く禁じた。
しばらくすると、楼の内も外もすっかり静まり返った。殷はゆっくりと身を起こす。部屋の灯りはすべて消え、あたりは漆黒の闇に包まれている。ただ、宴で焚かれた香油と酒の残り香だけが、まだ色濃く漂っていた。東の空が白み始めるのを認めると、彼は悠然と楼を下り、屋敷を後にした。そっと袖の中を探れば、ずしりと重い金の杯が、確かにそこにあった。
屋敷の門まで戻ると、友人たちが夜を明かして待っていた。彼らは、殷が夜中にこっそり抜け出し、朝になって戻ってきただけではないかと疑っていたのだ。殷は何も言わず、袖からかの金の杯を取り出して見せた。一同は息を呑み、殷が語る昨夜の出来事の一部始終に聞き入った。誰もがその見事な金の杯を手に取って検めたが、これが貧しい書生の持ち物であるはずがないと、皆、深く頷くのだった。
千里を越える杯
後に殷は科挙の難関を突破して進士となり、肥丘の地で官職に就くこととなった。
ある日のこと、地元の名家である朱氏の屋敷に招かれ、宴席に連なった。主人は殷を丁重にもてなすため、家宝であるという大杯を持ってくるよう命じたが、なかなかそれは運ばれてこない。やがて一人の下男が主人のもとに駆け寄り、口元を覆って何事か耳打ちをすると、主人の顔はみるみるうちに怒りの色に染まった。
やがて、客たちに酒を勧めるため、一つの金杯が運ばれてきた。それを見た殷は、我が目を疑った。その形、そこに施された彫刻、意匠のすべてが、あの廃墟での一夜、狐の婚礼で目にした杯と寸分違わぬものだったからだ。強い疑念にかられた殷は、主人にその杯の由来を尋ねてみた。
主人は嘆息して答えた。
「実はお恥ずかしい話ですが、この杯は一揃いで八つございまして。父が都で高官を務めておりました折、名工に命じて作らせた、我が家の家宝なのでございます。長らく箱に納め、大切に仕舞っておりました。本日、明府様をお迎えするにあたり、久方ぶりに箱を開けてみたところ、七つしか見当たらず…家の者が盗んだのかと疑っております。しかし、十年もの間、箱は埃を被ったまま開かれた形跡すらない。なぜ一つだけ消えてしまったのか、皆目見当もつかぬのです」
これを聞いた殷は、にこやかに笑って言った。
「金杯には羽でも生えていたと見えますな。しかし、代々伝わる宝を失うのはまことに惜しいこと。実は私も、それと瓜二つの杯を一つ所持しております。よろしければ、貴殿にお譲りいたしましょう」
宴が終わると、殷は役所へ戻り、すぐさま例の金の杯を取り出すと、使いの者に持たせて朱氏の屋敷へと届けさせた。届けられた杯を検めた主人は、驚きのあまり言葉を失った。
主人は自ら殷のもとへ駆けつけると、杯をどこで手に入れたのかと、息せき切って問いただした。そこで殷は、若かりし頃に体験した、あの廃墟での不思議な一夜の出来事を、ありのままに語って聞かせたのだった。
これを聞いて朱氏の主人は初めて、千里も隔てた場所にあった家宝の杯を、狐がその術によって一夜のうちに運び去り、しかしそれを長く己がものとはできなかったのだと、事の次第を悟ったのであった。
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異史(作者・蒲松齢)曰く
およそ幻とは、人の心が生み出す影に他ならぬとは、まさに至言である。心に淫らな思いがあれば、自ずと淫猥な光景が立ち現れる。心に恐れを抱けば、たちまち恐怖の幻影に苛まれる。菩薩が衆生を導くために見せるという幾千もの幻ですら、突き詰めれば、すべては見る者の心が映し出したものに過ぎないのだ。かの老僧の慈悲深き言葉はまことに切実であったが、惜しむべきは、朱孝廉がその真意を深く悟り、俗世を捨てて求道の道へと入らなかったことである。
物語の深層分析:不思議さ、人情、滑稽、そして皮肉
この物語は、単なる怪奇譚ではありません。その中に織り込まれた様々な感情や状況が、物語に奥行きと輝きを与えています。
1. 不思議さと畏怖
物語の根幹をなすのは、「異界との邂逅」という、抗いがたい魅力と不思議さです。
空間の変容: 荒れ果てた廃墟が、一夜にして絢爛豪華な祝宴の場に変わる。この劇的な変化は、日常と非日常の境界線がいかに曖昧で、脆いものであるかを示唆します。月明かりだけが頼りの静寂な空間が、無数の灯りと人々の喧騒で満たされる場面は、読者に畏怖の念すら抱かせます。
理を超えた出来事: 最も象徴的なのは「金の杯の移動」です。千里も離れた場所にある家宝が、一夜にして狐たちの祝宴で使われている。これは物理法則を完全に無視した、まさに「妖術」です。この超常現象が、物語全体の不思議さを決定づけています。恐怖心という点では、物語はそれを巧みに回避しています。もし狐たちが殷天官を脅したり、害を加えようとしたりすれば、それは単なるホラーストーリーになります。しかし彼らは礼儀正しく、殷天官もまた動じない。この緊張と緩和のバランスが、恐怖を「畏怖」と「好奇心」へと昇華させているのです。
2. 人情味と寛容
この物語の心温まる部分は、人間と「人ならざる者」との間に芽生える、穏やかな交流にあります。
老翁の礼節: 狐の翁は、闖入者である殷天官を咎めるどころか、「貴人様」と敬い、自分たちの不躾を詫びます。彼の存在が、この祝宴の格調を高め、殷天官(と読者)の警戒心を解きほぐします。これは、異界の住人が必ずしも邪悪な存在ではなく、彼ら自身の社会と礼儀を持っていることを示しています。
殷天官の度量: 彼もまた、狐たちの祝宴を面白がり、即席の媒酌人まで務めます。相手が何者であれ、目の前で繰り広げられる「祝い事」に敬意を払う彼の態度は、真の胆力とは腕力ではなく、未知を受け入れる寛容さにあることを教えてくれます。
3. 滑稽さと人間臭さ
シリアスな雰囲気の中に、くすりと笑える滑稽さが散りばめられています。
大胆不敵な盗み: 物語のハイライトの一つは、殷天官が堂々と金の杯を盗む場面です。証拠品にするためという大義名分はありますが、神聖な婚礼の席で、酔ったふりをして家宝をくすねる姿は、どこか悪戯っぽく、非常に人間臭い。この行為が、超然とした英雄ではなく、機知と少しばかりのずる賢さを持った生身の人間としての彼の魅力を際立たせています。
狐たちの内輪揉め: 杯が一つ足りないと気づいた狐たちが、ひそひそと囁き合い、眠っている殷天官を疑う場面は滑稽です。 supernaturalな力を持つ彼らが、まるで人間のように慌て、翁が「聞こえるからやめなさい」と諌める様子は、彼らの「人間らしさ」を感じさせ、親しみを覚えさせます。
4. 痛烈な皮肉
物語の結末と、作者・蒲松齢による「異史氏曰く」の締めは、社会や人間性に対する鋭い皮肉に満ちています。
俗物への教訓: 朱氏の主人は、家宝の杯が千里を旅したという奇跡的な話を聞いても、その不思議さに感動するのではなく、ただ「杯が戻ってきた」という事実しか見ていません。蒲松齢は、朱氏を「俗物」の象徴として描き、せっかくの神秘的な体験も、悟りのない人間にとってはただの珍事でしかない、と嘆いているのです。
作者の批評眼: 最後の「異史氏曰く」は、物語全体を寓話へと昇華させる重要な部分です。「幻は人の心から生まれる」と説き、この奇跡的な物語でさえ、結局は人の心を省みるための道具に過ぎない、と結論付けます。朱孝廉(朱氏)がこの話を聞いても悟りを開かなかったことを「惜しむ」という言葉は、読者自身に向けられた痛烈な皮肉でもあるのです。「あなたなら、この物語から何を学びますか?」と。
文化的な比較:日本と異国における類似の物語
このような「異類婚姻譚」や「異界訪問譚」は、世界中の文化に見られます。
日本文化との強い共鳴:
狐の嫁入り(きつねのよめいり): まさにこの物語の題名そのものが、日本の文化に深く根付いています。晴れているのに雨が降る「天気雨」を指す言葉であり、狐たちが人間に見られないように嫁入り行列をしているのだ、という言い伝えがあります。黒澤明監督の映画『夢』で映像化されたように、提灯を下げた狐の行列のイメージは非常にポピュラーです。
百鬼夜行: 深夜に妖怪たちが行列をなして練り歩くという伝説です。この物語の狐の行列は、より祝祭的で秩序だった「百鬼夜行」の一種と見ることができます。人間がこれに遭遇すると災いが起きるとされるため、遭遇しても動じなかった殷天官の胆力は、日本的な文脈でも際立ちます。
神隠しと異界: 人間が神域や魔の住まう場所に迷い込み、もてなされたり、試されたりする話は、『浦島太郎』の竜宮城のように数多く存在します。異界の食べ物を口にすると帰れなくなる、などの禁忌もしばしば登場します。
異国文化との類似:
ケルト・ヨーロッパの妖精譚: アイルランドやスコットランドの伝承には、「フェアリー(妖精)」の塚に迷い込んだ人間が、彼らの祝宴に招かれる話が頻繁に登場します。妖精たちは音楽と踊りを好み、人間を歓迎することもあれば、危険な存在であることもあります。彼らの世界で時を過ごすと、人間界では何十年、何百年も経っているという「時間の歪み」も特徴的なテーマです。
アラビアンナイト(千夜一夜物語)のジン(魔人): ジンは人間とは異なる種族でありながら、人間と同じように社会を形成し、王や家族がいます。人間がジンの世界に迷い込み、彼らの争いや恋愛に巻き込まれる物語は、まさに異界との交流譚と言えます。
物語のその先へ:後日談と別の結末
この物語は、その先を想像する余地を豊かに残しています。
考えられる後日談
数十年後、殷天官は朝廷で宰相にまで出世しましたが、政敵の罠にはまり、失脚してしまいます。全てを失い、故郷の歴城へ落ち延びた彼は、ふと若き日の出来事を思い出し、あの廃墟へと足を運びます。
そこには、昔と変わらず月だけが静かに楼閣を照らしていました。彼が月見台に座り、孤独に酒を飲んでいると、背後から懐かしい声がします。「殷尚書様、お久しぶりにございます」。振り返ると、そこにいたのは、すっかり威厳を増した、あの日の新郎でした。
彼は、今や一族を率いる長となっていました。彼は殷天官に言います。「あの夜、あなたは我らの祝い事に敬意を払ってくださった。その恩は忘れておりません」。そして彼は、殷天官の政敵が不正を働いている証拠を、妖術を使い一夜にして集めてみせます。
後日、殷天官はその証拠をもって都に返り咲き、名誉を回復します。彼は二度とあの楼閣を訪れることはありませんでしたが、時折、天気雨が降る日には、遠い空を眺め、あの夜の笙の音に静かに耳を澄ますのでした。人と妖の間に結ばれた、一期一会の「縁」の物語です。
さらなる意外な結末
朱氏に杯を返し、全てが解決したと思った数日後、殷天官のもとに朱氏から一通の文が届きます。「昨夜、我が家に伝わる八つの杯が、すべて忽然と姿を消しました。蔵には一枚の木の葉が落ちており、そこには『借り物、返却無用』とだけ書かれておりました」
殷天官は愕然とします。狐たちは、彼が杯を朱氏に返したことを「裏切り」と見なしたのでしょうか? それとも、最初から八つすべてを狙っていたのでしょうか?
その夜、殷天官の夢にあの老翁が現れ、静かに言います。「尚書様、あなたは我らの世界の物を、人間の世界の法で裁かれましたな。あの杯は、もはや朱家のものでも、あなた様のものでもない。あれは二つの世界を繋いだ『証』。どちらか一方に属するべきではなかったのです」。
目覚めた殷天官の枕元には、あの夜彼が盗んだはずの、一つの金の杯が静かに置かれていました。しかし、彼がそれに触れようとした瞬間、杯は陽炎のように揺らめき、すっと消えてしまいました。彼は理解します。あの夜の出来事は、決して証拠として残せるものではなく、ただ記憶の中にのみ存在する、一夜の幻だったのだと。そして、その幻に少しでも執着した自分自身の俗物性を、彼は生涯をかけて自問し続けることになるのです。




