〇弐〇 雹神(ほうしん)
楚の地に、王公という名の長官がいた。その諱を筠蒼という。
公はかねてより、道教の聖地たる龍虎山に登り、その道を統べる天師にまみえたいと願っていた。
ある日、ついにその志を果たさんと旅立ち、山麓の湖までたどり着いた。きらめく湖水から、いざ船に乗り込まんとした、その時である。一艘の小舟がすべるように近づき、乗っていた男が船上の者へ取次ぎを願った。
公が招き入れると、男はすっと背筋の伸びた、涼やかな顔立ちの持ち主であった。男は懐より、天師の名が記されたものを恭しく取り出すと、こう言った。
「公が間もなくお見えになると伺い、先駆けの警護として罷り越しました」
まだ誰にも告げていないはずの来訪を、この男がいかにして知ったのか。王公は驚きと共に、天師という存在が人知を超えた神聖なものであることを、いよいよ深く信じるに至った。かくして公は、真摯な心を胸に、龍虎山の頂きを目指した。
山上の館では、天師がすでに宴の席を整え、王公を温かく迎え入れてくれた。
食卓に侍る者たちは、いずれも俗世の人間とはどこか趣を異にしており、その衣の風合いや、豊かな鬚、鬣のような髪は、見る者の心を捉えて離さない。湖で出会ったあの使者もまた、天師の傍らに静かに控えているのであった。
宴が和やかに進むうち、かの使者が天師の耳許へ進み、何かをそっと囁いた。すると天師は、穏やかな眼差しを王公に向け、口を開いた。
「そちらにおられるお方は、実は公と同じ郷里の者ですが、見覚えはございませんか」
王公が怪訝な顔で首を傾げると、天師は静かに告げた。
「このお方こそ、世にその名を知られる雹の神、李左車殿にございます」
王公は我が耳を疑い、驚愕に息をのんだ。目の前の涼やかな男へ、改めて畏敬の念を込めて向き直る。
天師は説明した。
「ただ今、天帝より下された厳命を受け、雨と雹を降らせることになったと、暇乞いの挨拶に来られたところです」
「して、それはどちらへ」
と、王公は思わず問い返した。
雹神は、ただひと言、静かに答えた。
「章丘へ」と。
章丘。それは自らが治める地のすぐ隣ではないか。かの地の民の顔が目に浮かび、王公は居ても立ってもいられず席を立った。そして、雹神の前に進み出て、どうかその災厄を避けさせてはいただけぬかと、深く頭を垂れた。
天師は、しかし、静かに首を横に振った。
「それは天帝より下された命。降らせる雹の量も、すでに定められております。個人の情けで覆せるものではございません」
それでも王公は諦めず、なおも食い下がり、民への慈悲を乞い続けた。
王公の必死の形相に、天師はしばし黙考した。やがて雹神を顧みると、静かに、しかし威厳を込めて命じた。
「ならば、降らせる雹は、できる限り人の住まぬ山懐や深い谷に集め、田畑の作物を損なわぬよう計らうがよい」
そして、こう付け加えた。
「尊き客人が見守っておられるのだ。荒々しく事を起こすでないぞ。穏やかに行くのだ」
雹神は深く頷き、天師の命を拝すると、静かに庭へと下り立った。
その刹那、男の足元から、にわかに白煙が湧き上がり、たちまちあたりを乳色の霧で満たした。
しばしの静寂。煙の中で何事か力を蓄えるかのように見えたが、やがて、ぐっと天を衝くように舞い上がり始めた。その姿は見る間に庭の木々の梢を越え、楼閣の屋根よりも高く昇っていった。
次の瞬間、天を引き裂くかのような激しい雷鳴が轟いたかと思うと、その姿は一筋の光となり、北の空へと飛び去っていった。凄まじい衝撃に屋敷は揺らぎ、宴席の器がカタカタと鳴り響いた。
あまりの出来事に、王公は呆然としながら天師に問うた。
「ただ立ち去るだけなのに、なぜこれほどの雷鳴が轟くのですか」
天師は微笑みながら答えた。
「あれは、私が先ほど穏やかに行くようにと戒めたゆえ、これほど時をかけたのです。そうでなければ、地を蹴るやいなや、一閃の雷光と共に飛び去ってしまうことでしょう」
王公は天師に深々と礼を述べ、山を下りると任地へと帰った。そして、あの日の出来事を心に留め、かの日を固く記録し、すぐさま章丘へと人を遣わして事の次第を確かめさせた。
果たして、戻った者の報告はこうであった。
その日、章丘の地には凄まじい雹が降り注いだ。しかし、不思議なことに、そのほとんどが山や谷に降り、人里では溝や水路が潤うほどであったという。肝心の田畑には、まるで数えられたかのように、ぽつりぽつりと数えるほどの粒が落ちただけで、作物はまったくの無傷であったと。
『雹神』の深層:物語の多面的な魅力と新たな展開
この物語は、短いながらも、読む者の心に様々な感情のさざ波を立てます。
それは、物語が持つ複数の顔によるものでしょう。
1. 物語の多面的な味わい
人知を超えた「不思議さ」
王公の来訪を事前に察知する使者、常人離れした天師の従者たち、そして何より、人の姿をした神が天命を受けて天候を操るという根幹の設定。これらは、世界が人間の理解の及ばない法則や存在によって動いているという、畏怖の念を抱かせる「不思議さ」に満ちています。煙となり、雷鳴と共に飛び去る雹神の姿は、まさしく神話的な光景です。
心を打つ「人情味」
この物語の核は、王公の民を思う真摯な心です。「章丘」が隣接地だと知った瞬間、彼は己の立場を忘れ、一人の人間として民の苦しみを想像し、神にさえも必死に懇願します。これが単なる超常現象の物語ではなく、人の心を打つものになっている最大の理由です。そして、その必死の願いに、天師と雹神が応える場面。「これは上帝からの玉敕であり、個人の情でそれを曲げることはできぬ」という絶対的な天の理を示しつつも、最終的には「山や谷に多くし、作物を傷つけることは避ける」という、ルールの範囲内での最大限の配慮を見せます。これは、冷徹な天の理の中にも、人の真心が届く「情」の介在する余地があることを示唆しており、深い感動を呼びます。
神々の世界の「滑稽さと皮肉」
天師が雹神に「尊い客人が座しておられる。文(穏やか)に行って、武(荒々しい)を為すな」と戒める場面は、物語に絶妙な緩急と奥行きを与えています。天を揺るがすほどの力を持つ神が、客人への配慮から「静かに出発しなさい」と釘を刺される様子は、どこか人間的で滑稽ですらあります。王公の「どうして雷霆を伴うのですか」という問いに対する天師の「今しがた私が戒めたので、これほど遅れたのです」という答えは、神々の世界の日常を垣間見せる、洒脱な皮肉に満ちています。普段は一瞬で飛び去るものを、わざわざ「もわもわ…」と時間をかけて上昇させた雹神の律儀な姿を想像すると、微笑ましくさえあります。
根源的な「恐怖」
滑稽さの裏には、圧倒的な力の存在があります。もし天師の制止がなければ、もし王公の願いがなければ、雹神は「平地で一声を上げたかと思えば、そのまま飛び去って」いたでしょう。その一瞬の轟音と衝撃は、人の営みなど容易く吹き飛ばす、自然の猛威そのものです。物語は、その力の片鱗だけを見せることで、逆説的にその恐ろしさを際立たせています。我々が享受する平穏は、人知れず働く強大な力の、ほんのわずかな気まぐれや配慮の上にあるのかもしれない。そうした根源的な恐怖を感じさせます。
2. 類似する情景:異文化との響き合い
この物語の構造は、世界各地の神話や伝説と響き合います。
日本文化において:
日本の神々は、自然の猛威そのものである「荒魂」と、恵みをもたらす「和魂」の二面性を持つとされます。雹神が持つ破壊の力と、王公の祈りに応えて恵みへと転化させる姿は、まさにこの二面性の現れと言えるでしょう。また、高僧や徳の高い人物が、祈りや交渉によって龍神に雨を降らせてもらったり、鬼を調伏したりする物語(役行者の伝説など)は数多く存在し、人々の祈りが天に通じるという思想は、日本人に非常に馴染み深いものです。
異国文化において:
ギリシャ神話のゼウスや北欧神話のトールのように、雷や嵐を司る神は、しばしば気まぐれで人間的な感情を持って描かれます。人間の英雄や王が、神々の助力を得たり、時には神の怒りを買ったりする物語は、神と人との距離が近いことを示しています。また、旧約聖書において、預言者アブラハムがソドムとゴモラの街を滅ぼそうとする神に対し、「もし正しい者が五十人いたら」「四十人いたら…」と粘り強く交渉し、滅亡を回避しようと試みる場面は、王公が民のために神に許しを請う姿と重なります。
3. 物語のその先へ:考えられる後日談と意外な結末
この物語の余韻は、その後の展開を想像させます。
後日談の可能性:
数年後、今度は王公の治める地が大干ばつに見舞われます。民の苦しみを見た王公は、藁にもすがる思いで再び龍虎山を訪れます。そこで彼を迎えたのは、天師ではなく、静かに茶を淹れる李左車その人でした。彼は王公に「あの日のあなたの真心、天は忘れてはいなかった」と告げ、今度は恵みの雨を降らせることを約束します。一度結ばれた人と神との絆が、新たな奇跡を生むという、人情味あふれる続編です。
さらなる意外な結末:
【結末A:全ては幻だった】
王公が任地に戻り、章丘の様子を詳しく調べさせると、衝撃の事実が判明します。その日、章丘は雲一つない快晴で、雹など一粒も降ってはいなかったのです。龍虎山での出来事は全て、天師が王公の「徳」を試すために見せた壮大な幻術でした。天師は、為政者が民を思う心の強さこそが、天候をも動かす真の力なのだと、王公に教えたかったのです。王公は、神の力ではなく、自らの心の在り方こそが国を治める要であると深く悟ります。
【結末B:代償の法則】
章丘は救われました。しかし、その数日後、王公の任地の、誰も気に留めていなかった遠方の山村が、記録的な大雹によって壊滅的な被害を受けます。天師が言った「雹には定められた量がある」という言葉の、本当の恐ろしさを王公は知ります。天の理を曲げれば、その歪みは必ずどこか別の場所で帳尻を合わせるのです。王公は、一つの善意が、意図せぬ悲劇を生むこともあるという、世界の非情な均衡の前に立ち尽くします。




