〇壱九 犬奸(けんかん)
白犬との日々
青州という地に、賈という名の商人がおりました。彼は商いのために一度旅へ出ると、一年近くも家を空けるのが常でした。
その賈の家には、雪のように白い一匹の犬が飼われていました。
夫の長い不在を守る妻は、いつしかその孤独を、傍らにいる白犬に慰められるようになりました。そして、人ならぬものと、決して語ってはならぬ秘密を分かち合うようになったのです。犬もまた、その関係に慣れ親しんでいきました。
ある日のこと、長い旅路の果てに夫がようやく家に戻り、妻と床を共にした、その夜更けでした。
静寂を破り、かの白犬が突如として部屋に駆け込んできたのです。犬は嫉妬の炎に駆られたかのように寝台へ駆け上がると、主であるはずの賈に牙を剥き、ついにその命を奪ってしまいました。
露見:裁きと見せ物
この痛ましい出来事は、やがて近隣の人々の知るところとなりました。あまりに世の道理から外れた事件に、人々は言いようのない憤りを覚え、ついに役所へと訴え出たのです。
役人はすぐさま妻を捕らえ、厳しい尋問を行いました。どれほどの責め苦を与えても、妻は固く口を閉ざし、決して罪を認めようとはしませんでした。
そこで役人は一計を案じ、まず例の犬を固く縛って連れてくるよう命じます。その上で、妻を牢から引き出しました。妻が犬の姿を目にすると、犬はためらうことなく真っ直ぐに彼女のもとへ歩み寄りました。そして、その衣の裾を優しく、しかし執拗に噛み、二人の間に交わされた秘密をなまなましく再現するかのような仕草を見せたのです。
その光景を前にして、妻は初めて言葉を失い、うなだれるほかありませんでした。
役人は二人の捕吏に、妻と犬をそれぞれ役所へ護送するよう命じました。
道中、この世にも奇妙な罪人と獣の姿を一目見ようと、野次馬が集まります。中には、二人の異様な絆の証を目の当たりにしたいと願う者まで現れました。彼らは金を出し合って捕吏に心付けを渡し、その願いを叶えてもらうのです。捕吏は金を受け取ると、人々の好奇心に応え、人と獣が織りなした、人の道から外れた光景を衆目に晒しました。一行が足を止める場所では、常に数百もの見物人が壁を作り、捕吏たちは思わぬ利益を得たといいます。
その後、人と犬は、共にこの世で最も過酷な罰を受け、その命を終えました。
ああ、天と地のなんと広大なことか。この世には、まことにありとあらゆる出来事が存在するものです。しかし、人の姿をしながら、獣とその身を重ねる者が、果たしてこの一人の妻だけなのでしょうか。
異史氏の断罪
わたくし異史氏(作者・蒲松齢)は、この一件に次の言葉を記したい。
「濮上での逢瀬、桑中での契り。それらは古くから人の道に外れた恋のたとえとして、誰もが非難するところである。
しかるに、この女は、夫を待つ閨の寂しさに耐えきれず、かりそめの慰めという一時の快楽を渇望してしまった。あろうことか、その閨に忍び寄る影は、家で飼われる獣であったとは。堅固なる砦に身を潜めるべきところに、情欲の相手を招き入れたも同然である。
睦み合いの褥では獣の尾が揺れ動き、そのしなやかな体は幾度となく波打った。一度結ばれた絆は、鋭い錐が袋を穿つがごとく抗いがたく、情愛の矢は深く心に根差してしまったのだ。
人ならぬものとの交わりを思うとは、まことに人の常軌を逸した行いである。その果てに、犬が嫉妬に吠え、凶暴な殺戮を引き起こした。かの蕭何や曹参が定めた国の法をもってしても、この罪の深さを裁き尽くすことはできぬであろう。
人は獣ではない。しかしその行いは獣そのものであった。その淫らな行いの醜さは、豺や虎さえもが食らうのをためらうほどである。
ああ。人が人を欺き、命を奪えば、その罪は体を切り刻まれる極刑に値する。しかし、犬が起こしたこの罪に対しては、この世に釣り合う刑罰が存在しない。人が悪事を働けば、来世は犬に生まれ変わるという罰もあるだろう。だが、犬が悪事を働いたならば、冥府の王も、いかなる法をもって裁けばよいのか。
『犬奸』という物語の多面的な魅力の深掘り
この物語は、単なる奇怪な事件の記録に留まらず、人間の心の深淵を覗き込むような、様々な要素が複雑に絡み合っています。
1. 不思議さと根源的な恐怖
境界線の侵犯: 物語の最も根源的な恐怖は、「人間と獣」という決して交わってはならない境界線が侵犯される点にあります。最初は孤独を慰める存在であったはずの犬が、嫉妬と独占欲を持つ「雄」として変貌し、ついには主を殺害する。この「ペット」から「情夫」そして「殺人者」への変貌は、日常に潜むものが、ある一点を超えると全く異質の恐ろしい存在に変わりうるという、根源的な不安を掻き立てます。
人ならざるものの嫉妬: 夫に噛みつく犬の行動は、単なる動物の凶暴性ではありません。そこには、妻を奪われたことに対する、極めて人間的な「嫉妬」が描かれています。言葉を話さず、理性のないはずの獣が、人間と同じ激情によって動く。この理解不能な感情の発露こそが、物語に不気味で超自然的な雰囲気を与えています。
2. 人情味と滑稽さ、そして皮肉
埋めがたい孤独: 物語の発端は、夫が一年近くも家を空けるという状況における、妻の「孤独」です。これは、当時の女性が置かれた閉鎖的な状況を鑑みれば、同情の余地がある人情的な動機です。禁忌を犯すほどの孤独とはどれほどのものだったのか、と読者に想像させます。
グロテスクな見世物と人間の業: 物語の白眉とも言えるのが、護送の道中で行われる「見世物」の場面です。捕吏たちは賄賂を受け取り、罪人である女と犬を衆目の前で交わらせます。この光景は、あまりにも倒錯的でグロテスクですが、同時に人間の持つ「好奇心」と「金銭欲」という、非常に生々しい業を描き出しています。悲劇的な事件が、滑稽ですらある大衆の娯楽へと転化していく様子は、痛烈な社会風刺であり、人間の愚かさを皮肉たっぷりに描き出しています。悲劇と喜劇は紙一重であることを見事に表現した場面と言えるでしょう。
文化的背景と比較
このような異類との交わりを描く物語は、決してこの話に限ったものではありません。
日本文化との響き合い: 日本には古くから、人間と人ならざるものが結ばれる「異類婚姻譚」が多く存在します。例えば、狐が人間の女性に化けて妻となる『信太妻』や、鶴が恩返しのために機を織る『鶴の恩返し』などが有名です。しかし、これらの多くはどこか美しく、切ない物語として語られます。
一方で、『犬奸』のテーマに近いのは、嫉妬や執着といった激情が人を蛇に変える『安珍・清姫伝説』や、怨念が人を鬼に変える物語かもしれません。特に、「愛情が転じた凄まじい執着と破壊」という点で、この物語と通底するものがあります。
異文化における類似のモチーフ: 世界的に見ても、神々や超自然的な存在が動物の姿で人間と交わる神話は数多く存在します。特に有名なのはギリシャ神話です。大神ゼウスが白鳥に化けてレダに近づいたり、ポセイドンが雄牛の姿をとったりする例があります。また、クレタ島の王妃パシパエが雄牛と交わり、怪物ミノタウロスを産む神話は、禁忌を犯した結果として怪物が生まれるという点で、『犬奸』のテーマと非常に近い構造を持っています。
これらの物語に共通するのは、「自然の摂理や社会のタブーを破ることへの戒め」と、「人間の抗いがたい情欲の恐ろしさ」というテーマです。
考えられる後日談、または意外な結末
この物語の幕引きは苛烈ですが、もしその先に物語を続けるとしたら、いくつかの可能性が考えられます。
後日談:『呪われた土地』
寸磔にされた女と犬の魂は、あまりの無念さにこの世に留まり続けた。二人が処刑された場所は、その後「犬女の辻」と呼ばれるようになる。
月夜の晩、その辻を通りかかると、すすり泣く女の声と、喉を鳴らす犬の唸り声が聞こえてくるという。そして、夫婦仲の悪い者がそこを通ると、どこからともなく一匹の白い犬が現れ、その者の後をどこまでもついてくる。その犬に懐かれた者は、やがて正気を失い、伴侶を惨殺してしまうという…。
この土地では、決して白い犬を飼ってはならぬ、という奇妙な掟だけが、後世に語り伝えられていった。
もう一つの結末(意外な結末):『守り神の真実』
もし、この物語の前提がすべて覆されたとしたら?
実は、夫の賈は残忍で嫉妬深い男であり、妻に暴力を振るうのが常であった。妻の孤独は、夫の不在によるものではなく、夫の存在そのものによる苦しみだった。
あの白い犬は、ただの犬ではなかった。古くからその家を守ってきた犬神、あるいは妻のあまりの苦しみが見せた幻、もしくは彼女を守ろうとする精霊のような存在だったのだ。
その夜、帰ってきた夫がいつものように妻に手をあげようとした瞬間、犬は主である「妻」を守るために、暴君である「男」に襲いかかった。それは、嫉妬による殺人ではなく、守護のための義憤だったのである。
捕らえられた妻は、夫の悪行を訴えても誰も信じないと絶望し、また、自分を守ってくれた犬の不思議な力を明かすこともできず、ただ沈黙を続けた。役人の前で犬が示した仕草は、交わりの再現ではなく、「私はこの方を命に代えてもお守りする」という忠誠の証であった。
道中の見世物も、人々が邪な目で見たからそのように見えただけで、実際は、犬が怯える妻に必死に寄り添おうとしていただけの光景だったのかもしれない。
真実は誰にも理解されぬまま、世間は彼女を「獣と交わった不貞の女」として断罪し、彼女の唯一の味方であった守り神と共に、無残に処刑してしまった。
嗚呼。天地の広大なことよ。人の目に映るものが、果たして真実のすべてであろうか。最も恐ろしいのは、人ならざる獣ではなく、真実を見ようとしない人間の心なのかもしれない。
『墨染の閨、白き幻』(すみぞめのねや、しろきまぼろし)
言葉を失った深い孤独が、人ならざるものの純粋な体温によって、ほんのひととき癒される、痛ましいほどの「救済」の光景です。
美しければ美しいほど、その行為の禁忌性が際立ち、観る者の心に静かな衝撃を与えます。
なぜ彼女は、この一線を超えなければならなかったのか。この白き幻は、彼女にとって獣だったのか、それとも神だったのか。
【しおの】




