〇〇一 城隍神の座
「神域の試験」 — 運命の一筆
これから書かれる一筆が、天と地と人の運命を分かつであろうという、声なき声が画全体から響き渡っている。人間の宿命が、神々の采配という広大無辺な余白の中で、今まさに定められようとしている、永遠の一瞬である。
【しおの】
これは、私の姉の夫、その曽祖父にあたる宋燾という方から伝わる物語。彼は若き日、郷里の学び舎に籍を置く一人の書生であった。
ある日のこと、宋は病に伏し、床に呻いていた。するとどこからともなく、一人の役人が帳面を手に、額に白い毛を持つ馬を引いて枕元に現れた。
「さあ、試験の刻限でございます。どうか、こちらへ」
その声に、宋はかろうじて身を起こし、訝しんで問うた。
「まだ学政を司る方の巡察もないはず。何故かくも急に、試験などと申されるのか」
役人は答えず、ただ立ち去りがたい眼差しで彼を促すばかり。宋は病み疲れた身体に鞭打ち、おもむろにその馬にまたがった。役者に引かれるままに進む道は、まったく見覚えのない景色が続いていた。どれほど駆けたであろうか、やがて目の前に、まるで王の都と見紛うばかりの壮麗な城郭が姿を現した。
役所の建物と思しき場所へ通されると、そこは目も眩むような豪奢な宮殿であった。奥の上座には十数名の高官らしき者たちが居並んでいる。いずれも神々しい気配を放っていたが、その中でひときわ威風堂々とし、見覚えのあるお顔があった。義烈の武神として知られる、関羽その人であった。
軒下には文机と座布団が二組整えられており、その端の席には、すでに一人の秀才が静かに座している。宋もその隣に促されるまま席に着くと、それぞれの机には筆と紙が置かれていた。
やがて、ひらり、と一枚の紙が舞い落ちてきた。広げてみれば、そこにはただ八つの文字が記されているのみ。
「一人二人、有心無心」
二人が夢中で書き上げた文章は、殿上の神々のもとへと届けられた。宋の文には、このような一節があった。
「善を為そうという心があっての善行は、称賛には値しない。悪を為そうという心がなくての過ちは、罰するには忍びない」
その言葉が神々の間を渡ると、静かな感嘆のどよめきが広がった。やがて宋は御前へと呼ばれ、威厳のある声が響く。
「河南の地に、城隍神の座が一つ空いている。そなたに、その任を授けよう」
その言葉を聞き、宋はようやくここが人の世ではなく、自らが神々の審判を受けているのだと悟った。彼はその場に深くこうべを垂れ、涙ながらに訴え出た。
「身に余るお役目、謹んでお受けしたく存じます。されど、私には七十を数える老いた母がおり、他に養う者もございません。どうか、母が天寿を全うするその日まで、お慈悲をいただけないでしょうか。必ずや、その後にお召しに従います」
上座に座る、帝王の風格を備えた神が、その訴えを静かに聞き、厳かに命じた。
「その母の寿命を、帳簿にて改めよ」
傍らに控えていた長い髭の役人が、分厚い帳面を捧げ持ち、頁をめくって声高に読み上げる。
「現世に残された命、あと九年とございます」
神々がしばし思案に暮れる中、かの武神、関羽が進み出て言った。
「ならば案ずることはない。かの張生にしばらく代役を任じ、九年の後に交代させればよろしい」
そして宋に向き直り、温情の籠もった声で告げた。
「本来であれば、そなたは直ちに任地へ赴かねばならぬ。だが、その孝心に免じ、九年の暇を与えよう。期日が来たならば、再び迎えを遣わすであろう」
神々は、隣にいた秀才にも労いの言葉をかけ、二人は深く礼をしてその場を退出した。
秀才は宋の手を取り、郊外まで見送ってくれた。彼は自らを長山の張と名乗り、別れ際に一編の詩を贈ってくれた。その詩の言葉は多くが記憶の彼方に消えてしまったが、ただ二つの句だけが、今も心に深く刻まれているという。
「花あり酒あれば春はとこしえに、灯なく燭なくとも夜はおのずから明ける」
宋は馬上の人となり、彼に別れを告げた。故郷の村が目に入った時、まるで長い夢から覚めたような心地がした。
彼が病で倒れてから、実に三日三晩が過ぎ去っていた。棺の用意もされていたが、母がその中で微かな呻き声を聞きつけ、人々が棺を開けて介抱したところ、半日ほどでようやく言葉を発するようになったという。
後日、宋があの秀才の故郷である長山を訪ねてみたところ、果たして張という秀才が、まさに宋が倒れていたその日に亡くなっていたことを知った。
それから、約束の九年が流れた。母は告げられた通りに天寿を全うし、穏やかに世を去った。宋は手厚く葬儀を終えると、身を清めて自室に入り、そのまま静かに息を引き取った。
彼の妻の実家は、城の中の西門近くにあった。ある日のこと、家の者たちが不思議な光景を目にする。宋が、陽光を浴びて輝くような朱色の鎧をまとい、多くの馬や輿を従えて現れ、家の広間に入ると、深く一礼して立ち去っていったというのだ。
家族は皆、何事かと驚き、それが神となった彼の姿だとは知らずに、急いで宋の郷里へ人を走らせた。そしてそこで初めて、彼が亡くなったことを知ったのであった。
宋自身がこの一連の出来事を書き記した小伝があったと聞くが、残念なことに戦乱の中で失われてしまった。ここに語ったのは、その物語のあらましである。
この物語の深層:不思議さ、恐怖、そして文化の共鳴
この物語は、淡々とした筆致の中に、人の心を揺さぶる「不思議さ」「面白さ」、そして静かな「恐怖」を巧みに織り込んでいます。
1. 不思議さと面白さ:夢と現の境界線
物語の魅力の核心は、主人公・宋燾が体験する出来事が、終始夢かうつつか判然としないまま進む点にあります。病で朦朧とする意識の中、白馬に導かれて神々の世界へ足を踏み入れる導入は、読者を不思議な領域へと一気に引き込みます。
特に面白いのは、神々の世界が非常に人間的な官僚システムとして描かれていることです。神位に「欠員」が出れば公募(試験)が行われ、寿命は「帳簿」で管理され、事情を話せば「九年の猶予」という温情采配が下る。この俗世的な仕組みと、神域という非日常の融合が、独特のリアリティとユーモアを生み出しています。
そして、試験問題「一人二人、有心無心」という禅問答のようなテーマに対し、宋が「心あっての善は賞賛されず、心なくての悪は罰せられない」と喝破する場面は、物語のクライマックスです。行為の結果だけでなく、その裏にある「心」の在り方を問うこの思想は、儒教や道教の深い精神性を示しており、彼が神として選ばれるに足る人物であることを読者に納得させます。
2. 静かな恐怖:抗えぬ運命の帳簿
この物語には、派手な怪異とは異なる、じわりと背筋を撫でるような静かな恐怖が潜んでいます。
•寿命の宣告: 母の寿命が「あと九年」と帳簿係によって淡々と読み上げられる場面は、人の運命がすべて記録され、決定済みであるという抗いようのない事実を突きつけます。個人の意志や努力を超えた、巨大なシステムの下で生かされているという感覚は、一種の恐ろしさを感じさせます。
•死者との邂逅: 親しく言葉を交わし、詩を贈り合った秀才・張某が、実は現世ではその日に死んでいたと判明するくだり。宋が訪れたのは紛れもない死後の世界であり、そこで出会った友は亡霊であったという事実に、読者は異界の冷たさを肌で感じることでしょう。生と死の境界が、いとも容易く曖昧になる世界の不気味さがここにあります。
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文化的共鳴:異界訪問譚の変奏
このような「生者が異界を訪れる」物語は、世界中の文化に見られますが、『考城隍』には東洋的な特徴が色濃く出ています。
•日本の類似例:
浦島太郎: 竜宮城という異界を訪れ、人間界との時間の流れの違いに翻弄される点で共通します。しかし、浦島太郎が歓待の末に悲劇的な結末を迎えるのに対し、宋は「試験と任命」という目的を果たし、約束された未来へと進む点が対照的です。
神隠し: 人が突然異界へ連れ去られるという点で似ています。しかし、多くが不可解な失踪として語られる日本の神隠しに対し、本作では神々による「スカウト」という明確な理由が示されています。
•異文化の類似例:
ギリシャ神話の冥界下り: 英雄が死者の国を訪れる物語は多くありますが、その目的は試練の克服や愛する者の救出であり、自らが冥界の役職に就くためではありません。
キリスト教文化の「最後の審判」: 死後に天国か地獄かを裁かれるという思想はありますが、本作のように生前に「神としての採用通知」を受け、猶予期間まで与えられるという発想は極めて独特です。
本作の独自性は、死後の世界を罰や報いの場としてだけでなく、天上の官僚機構の一部として捉える道教的な世界観にあります。死は終わりではなく、有能な魂が新たな職務に就く「転職」のようなものとして描かれているのです。
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物語のその先へ:二つの可能性
この物語の結末は、静かで美しい完結を迎えます。しかし、もしこの先に続く物語があるとしたら、どのような展開が考えられるでしょうか。
1. 後日談『城隍神、宋燾の慈悲』
河南の城隍神となった宋燾。彼はかつて人間であった記憶と、母を想った深い孝心を持ち続ける神であった。彼はただ帳簿に従って善悪を裁くだけでなく、罪を犯した者の背景にある「心」を深く慮った。
ある時、飢饉から家族を救うために盗みを働いた男が、彼の裁きを受けることになった。帳簿によれば、男は地獄へ送られるべき罪人。しかし宋は、男の姿にかつて老母の身を案じた自らを重ね、涙した。
彼は神々の前で「心なくしての悪は、罰するには忍びない。罰ではなく、再起の機会を与えるべきです。」と、かつての試験で述べた言葉を再び口にする。彼のこの訴えは、硬直化していた神々の世界の法に一石を投じ、彼はやがて「慈悲深き神」として、天界だけでなく人間界からも深く敬愛される存在となっていく。
2. 意外な結末『仕組まれた試験』
九年の時が過ぎ、約束通り宋は神となった。しかし、彼が神々の世界で見たものは、想像とは全く異なる光景だった。
実は、あの荘厳な試験は、神々の世界の派閥争いの中で、改革派の長である関羽が仕組んだものだった。旧弊にまみれた神々を刷新するため、彼は人間界から「仁孝」と「道理」を深く理解する宋を引き抜いたのだ。
宋に与えられた本当の職務は、土地の守護神などという穏やかなものではなかった。それは、神々の世界の不正や腐敗を正し、天の秩序を立て直すという、遥かに困難な闘いの始まりであった。彼を待っていたのは、安らかな神の座ではなく、神々を相手にした新たな「試験」の日々だったのである。別れ際に秀才・張某が贈った詩、「灯なく燭なくとも夜はおのずから明ける」という句は、この長く困難な闘いの先にある希望を暗示していたのかもしれない。




