〇壱八 蟒(うわばみ)を切る
胡田村という山里に、胡家の兄弟が静かに暮らしておりました。
日々の糧を得るため、薪を求めてふたりは今日も、人跡未踏の深い谷へと分け入っていきます。木漏れ日も届かぬほどに樹々が鬱蒼と茂るその場所で、ふたりは思いもよらないものと出逢ってしまいました。
まるで朽ちた古木かと見紛うほどの、巨大な蛇が、ぬらりとその身を横たえていたのです。
先に立って歩いていた兄は、逃げる暇さえありませんでした。大きく裂けたその顎に、まるで吸い込まれるかのように呑み込まれてしまったのです。弟はあまりの出来事に凍りつき、一瞬、ただ逃げ出すことしか考えられませんでした。しかし、目の前で兄がまさに命を奪われんとするその光景は、彼の内に、恐怖を凌ぐほどの熱い怒りを燃え上がらせました。
弟は、山仕事に使う手斧を腰から引き抜くと、一心不乱に、その大蛇の首元めがけて力任せに振り下ろします。
手応えはありましたが、大蛇は怯むことなく、なおも兄の体を呑み込もうと身をうねらせます。兄の頭はすでに闇の中へと消え、その両肩が、かろうじて牙の根元で押しとどめられているのが見えました。
もはや、他に手立てはありません。弟は、兄の両の足をその両手で固く掴むと、獣のような叫び声を上げながら、ただひたすらに引き続けました。
どれほどの時が流れたでしょうか。激しい痛みに耐えかねたのか、大蛇はついに兄を吐き出すと、森の奥深くへとその巨体を滑らせ、姿を消していきました。
腕の中に横たわる兄の顔は、おぞましいほどにただれ、鼻や耳があった場所は見る影もありません。虫の息の兄を背負い、弟は何度も膝をつき、息を整えながら、遠い家路を辿ったのでした。
医者の手厚い看病の末、半年を経て兄は奇跡的に命を取り留めました。けれど、その顔には、あの日の出来事を物語る痛ましい傷の跡が生々しく刻まれ、かつての面影は失われてしまいました。
ああ、名もなき山里の民の中に、これほどまでに篤く、美しい兄弟の情があろうとは。
ある人はこのように語ります。「あの大蛇が最後にとどめを刺さなかったのは、ひとえに、弟の無垢なる勇気と、兄を想うその清らかな心根に、何かを感じ入ったからではないだろうか」と。
おそらく、真実はそこにあるのに違いありません。
この物語は、単なる兄弟愛の美談に留まりません。そこには、人間の感情の機微や自然への畏怖が、巧みに織り込まれています。
1. 不思議さと人情、そして恐怖の同居
人情味あふれる場面: 弟が恐怖を怒りに変え、兄を救うために巨大な蟒蛇に立ち向かう場面は、この物語の核心です。兄の足を掴み、死に物狂いで引きずり出す姿は、理屈を超えた家族愛の極致と言えるでしょう。
背筋を凍らせる恐怖: 人が巨大な生物に丸呑みにされるという描写は、私たちの根源的な恐怖を刺激します。特に「鼻と耳はすっかり溶けて形を失っており」という部分は、蛇の体内で消化が始まっていたことを生々しく示唆し、読者に強烈な印象と戦慄を与えます。
不思議さと皮肉: 最大の不思議は、蟒蛇が「弟の徳義に感じ入った」かのように去っていく点です。これは自然や人ならざるものが、人間の純粋な精神に感応するという、アニミズム的な世界観を反映しています。しかし、その結果として兄の顔にはおぞましい傷跡が残りました。徳義は命を救いはしたものの、完全な救済とはならなかった。この「手放しでは喜べない結末」にこそ、人生のままならなさ、自然の摂理の厳しさという皮肉が込められています。
どこか滑稽な一点: あれほど恐ろしい状況の中で、「肩のあたりでそれ以上下に飲み下すことができずにいた」という描写は、どこか間の抜けた光景を想像させ、一瞬の緊張緩和として機能しています。絶望的な状況だからこそ、このような些細な「つっかえ」が運命を分けるという、物語の面白さがあります。
2. 似た情景や物語との文化的な比較
この物語のモチーフは、世界中の神話や民話に見出すことができます。
日本文化:
八岐大蛇伝説: スサノオノミコトが巨大な蛇を退治する神話は、最も有名な類話です。ただし、八岐大蛇は「悪」の象徴として完全に討伐されるのに対し、この物語の蟒蛇は、人間の徳に感じ入るという霊的な側面を持ち、一方的に断罪されていない点で異なります。
説話文学(『今昔物語集』など): 山中で異形の存在に遭遇する話や、動物が人間の徳に感応して恩返しをする話は数多く存在します。この物語は、そうした仏教的・儒教的な教訓を含む説話の系譜に連なると考えられます。山という場所が、日常と異界が交錯する舞台として描かれている点も共通しています。
異国文化:
聖ゲオルギウスの竜退治(西洋): 邪悪なドラゴンを騎士が討伐し、姫(民衆)を救う物語は西洋文化圏に多く見られます。これらは善が悪を討つという二元論的な構造が明確です。
ナーガ伝説(インド・東南アジア): 蛇は神聖な生き物、あるいは自然の力を象徴する存在として、畏怖と信仰の対象です。単なる怪物ではなく、時には恵みをもたらし、時には災いを引き起こす、二面性を持った存在として描かれます。この物語の蟒蛇が、ただの獣ではなく、何かを感じ取る霊性を持った存在として描かれている点は、こちらの文化圏の蛇の捉え方に近いかもしれません。
3. 物語のその先へ:考えられる後日談と意外な結末
この物語は、読者の想像力にその先を委ねています。もし続きがあるとしたら、どのような展開が考えられるでしょうか。
【後日談:人情の続き】
兄は顔の傷を深く恥じ、家に引きこもりがちになりました。弟はそんな兄を献身的に支え、以前にも増して懸命に働きます。その評判は村中に広まり、弟は「鑑の弟」と呼ばれるようになりました。ある年の干ばつのこと、村中の井戸が枯れてしまいます。人々が天を仰ぐ中、弟はかつての谷へ分け入り、あの蟒蛇がいた辺りから湧き出る清水を発見しました。それはまるで、蟒蛇が弟の徳に報いるために与えた恵みのようでした。この出来事をきっかけに、兄は顔の傷を「兄弟の絆の証」として受け入れ、再び顔を上げて生きることを決意するのでした。
【意外な結末:恐怖の再来】
結末A『変貌』: 兄は一命を取り留めたものの、その日から少しずつ変わっていきました。夜中に生肉を貪り、皮膚にはうっすらと鱗のような模様が浮かび上がります。そう、兄は蟒蛇の体内でその「気」にあてられ、徐々に人ならざるものへと変貌しつつあったのです。弟は、自らが命を懸けて救ったはずの兄を、今度はその手で討たねばならないという、さらなる地獄に直面します。
結末B『古傷の告白』: 数年後、穏やかな夜のことでした。兄は弟に静かに問いかけます。「なあ、あの時、お前は本当に俺を助けたかったのか?」。弟は答えます。「…わからない。ただ、斧を振り下ろしながら、兄さんと一緒にあの闇に呑まれた方が楽になれるのかもしれないと、一瞬だけ思ってしまった」。美談の裏に隠されていた弟の絶望。兄の顔の傷は、弟が心に負った消えない傷の写し鏡でもあったのです。物語は、人間の心の複雑さを描いて幕を閉じます。




