〇壱一 宅妖(たくよう)
肉の長椅子と白き棒
長山に居を構える李公という人物がいた。彼の叔父は、かつて大司寇という、司法の頂点に立つほどの重職にあった人物である。そして、この李公の屋敷こそ、古くから妖しい出来事が絶えぬと噂される場所であった。
ある日のこと、李公は広間の片隅に見慣れぬ一つの春凳、すなわち長い腰掛けが置かれていることに気がついた。それはまるで生々しい肉のような紅を帯び、ぬめりとした艶を放っている。
屋敷にこのような品があっただろうか。いぶかしみながら近づき、そっと指先で触れてみた。その途端、腰掛けはぐにゃりと撓み、まるで柔らかな肉塊そのもののような感触が伝わってくるではないか。
李公は息を呑み、思わず後ずさった。振り返り、恐るおそるもう一度その腰掛けに目をやると、それは四本の脚をもぞもぞと蠢かせながら、壁の中へと、ずるずると溶け込むように消えていった。
また、別の日のこと。今度は壁際に、清らかな白さで濡れたような光沢を帯びた、細長い棒が立てかけてあるのを見つけた。何気なく手を伸ばし、それを支えようとした瞬間、棒はぬるりとした感触を残して崩れ落ち、まるで生命を宿した蛇のごとく身をくねらせながら壁の中へと消え失せ、再び現れることはなかった。
亡骸を運ぶ小人たち
時は康熙十七年、西暦にして千六百七十八年のこと。王俊升という一人の学者が、この李公の屋敷に招かれ、子供たちの師を務めていた。
ある夜、陽が落ちて灯火がほのかに揺れ始める頃、王生は疲れを覚え、衣服もそのままに寝台へ身を横たえていた。
その時、ふと視線を感じた。見れば、身の丈わずか三寸(およそ九センチ)ばかりの小人が、どこからともなく部屋へ入り込み、中をひと巡りすると、また静かに出て行く。
あっけにとられていると、今度は二人の小人が、小さな、まことに小さな棺をひとつ担いで戻ってきた。棺の長さは四寸ほどであろうか。彼らはそれを、部屋の腰掛けの上に、実に丁重に安置した。
やがて、一人の女が数人の侍女らしき者たちを従え、静かに入ってくる。いずれも、先の小人たちと同じように小さな姿であった。女はその身に喪服をまとい、腰には麻紐を巻き、頭は白い布で覆っている。まるで、これから弔いを始めるかのようであった。
女は袖で口もとを覆い、悲しみに嗚咽するのだが、漏れ聞こえてくる声は、まるで大きな羽虫の唸る音のようであった。
王生は息を殺し、その異様な光景に見入っていた。どれほどの時が経ったか、やがて全身の産毛が総毛立ち、肌には冷たい霜が降りたかのような悪寒が走った。
たまらず、彼は声にならない叫びを上げ、部屋から転がり出ようとした。しかし足はもつれ、寝台から落ちたまま、ただわなわなと震えるばかりで、身を起こすことさえままならない。
屋敷の者がそのただならぬ物音に気づき駆けつけた頃には、小さな弔いの列は、まるで幻のようにかき消えていたという。
『宅妖』の深掘り:恐怖と魅力の源泉、そして物語のその先へ
この物語は、直接的な暴力や明確な悪意を描くことなく、読者の心の奥底にある原始的な恐怖を静かに揺り覚ます、実に巧みな怪異譚です。その核心を紐解いてみましょう。
1. 不思議さと恐怖の源泉:「理解不能」という名の恐怖
この物語の恐怖は、血や刃物といった直接的なものではなく、「日常の理性が通用しない現象」にあります。
肉の長椅子と白き棒の不気味さ: この序章の秀逸さは、「見慣れたもの」が「未知のもの」へと変質する瞬間の描写にあります。家具であるはずの長椅子が「肉」のように撓み、ただの棒が「蛇」のように蠢く。それは、我々が築き上げた「これはこうである」という世界の常識が、足元から崩れ落ちるような感覚を引き起こします。危害を加えるわけでもなく、ただそこに「在り」、そして壁の向こうという「異界」へ消えていく。その不可解さこそが、じわりと広がる恐怖の正体です。
小人たちの弔いという荘厳な恐怖: この物語のクライマックスは、静寂の中にあります。小人たちは王俊升を襲うでもなく、脅すでもありません。彼らはただ、人間の営みである「葬儀」を、完璧な縮尺で、厳粛に執り行っているだけです。この場面が恐怖心を煽るのは、以下の二つの点に集約されます。
無関心: 彼らは王俊升の存在に全く関心を示しません。まるで、王俊升がいるこの空間が、彼らにとっての「当たり前の舞台」であるかのように振る舞います。人間が巨大な観察者に見られているという恐怖ではなく、人間の方が、異質な世界の営みを「覗き見てしまった」という禁忌を犯した感覚に陥るのです。
模倣の不気味さ: 小人たちは、人間の最も厳粛な儀式である「死の弔い」を模倣しています。なぜ?誰のために?その棺の中には何が?その目的が全く不明であるからこそ、その行為は底知れぬ不気味さを帯びます。すすり泣きが「大きな蝿がブンブンと鳴くような音」と表現される部分も秀逸で、人間の感情を模倣しているようでいて、その本質は全くの異質であることを見事に示唆しています。
2. 日本および異文化との共鳴
この物語が描く情景は、世界中の様々な文化に見られる精霊や妖怪譚と共鳴しつつも、独自の静謐な恐怖を確立しています。
日本文化との類似:
付喪神: 長年使われた器物が魂を持つという日本の考え方は、「肉の長椅子」や「白い棒」の怪異に直結します。物に宿った精霊が、時に人間をからかい、時に姿を見せるという点で共通しています。
座敷童子: 家に住み着く子供の精霊という点では似ていますが、座敷童子が家の盛衰に関わる予兆的存在であるのに対し、この物語の小人たちは、より内省的で自己完結した儀式を行っており、不吉な印象がより強いです。
百鬼夜行: 様々な妖怪が列をなして行進する「百鬼夜行」のイメージとも重なります。しかし、百鬼夜行が一種の「祭り」のようなエネルギーを放つのに対し、小人たちの行列はあくまで「弔い」であり、静かで厳粛な空気が支配しています。
異国文化との比較:
西洋の小人伝説(ピクシー、レプラコーンなど): ヨーロッパにも家に住み着く小人の伝承は数多く存在しますが、その多くは人間に対して悪戯をしたり、宝物と関連付けられたりすることが多いです。人間の儀式をここまで厳粛に模倣するという話は非常に珍しく、本作の独自性が際立ちます。
ドッペルゲンガー: 自分自身の姿を見るという不吉な幻影ですが、この物語の小人たちは「人間の文化」そのもののドッペルゲンガーと言えるかもしれません。姿形は違えど、人間の営みを鏡のように映し出す不気味な存在です。
3. 物語のその先へ:後日談と新たなる結末の創造
この物語は、読者の想像にその先を委ねて終わります。もし、この物語に続きがあるとしたら、どのような展開が考えられるでしょうか。
考えられる後日談:
王俊升は、恐怖のあまり屋敷を去るのではなく、逆にその怪異の虜になるのかもしれません。彼は夜ごと息を殺して小人たちの世界を観察し始めます。すると、彼らは葬儀だけでなく、婚礼や祝祭など、人間のあらゆる営みを模倣していることに気づきます。彼らはこの屋敷の「記憶」を演じ続ける精霊なのか、あるいはこれから起こる出来事を「予行演習」しているのか。王俊升は、彼らの世界の記録者となり、その謎を解き明かそうと生涯を捧げる…しかし、決して彼らの世界に触れることは叶わない、という物語。
さらなる意外な結末:
実は、王俊升が目撃した「小人たちの世界」こそが、この屋敷の本来の姿だったとしたら。
我々人間の方が、彼らの世界に時折現れる巨大で理解不能な「宅妖」だったのかもしれません。王俊升が寝台から転げ落ちた物音は、小人たちの世界にとっては天変地異にも等しい大災害だったでしょう。女のすすり泣きは、巨大な妖怪(王俊升)の出現によって中断された儀式を嘆く声だったのかもしれません。
この物語は、我々が「主人」であると信じているこの世界の、すぐ隣にある異質な理の存在を、静かに暗示しているのです。




