表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
月下の狐、涙する幽鬼――新釈・聊斎志異と、物語のその先へ  作者: 光闇居士


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

11/23

〇壱〇 荍中怪(きょうちゅうかい)

挿絵(By みてみん)

『鬼、安翁ヲ喰ラフ図』

悲鳴すら聞こえぬ静寂の中、見る者に物語の全てを語りかけてくる。これは単なる怪異譚の一場面ではない。人の営みの儚さと、人知を超えた存在の理不尽なまでの恐ろしさを、墨と水、そして和紙の上に永遠に刻み込んだ、一枚の絶筆なのである。


【しおの】

畑に潜む影:

長山ちょうざんの地に、安翁あんおうという老人がおりました。土に生まれ、土と共に生きることを何よりの喜びとする、根っからの篤農家でございます。

秋の気配が深まり、畑一面の蕎麦がたわわに実る頃。刈り取られた蕎麦の束は、畝のほとりに小山のように積まれておりました。折しも、近隣の村々では作物を狙う盗人が出没するとの噂が立ち、安翁は心を痛めておりました。そこで彼は小作人たちに言いつけ、月がおぼろに照らす夜を待ち、蕎麦を大八車に積んでは馬に曳かせ、急ぎ脱穀場へと運び込ませたのでございます。

やがて小作人たちが家路についた後も、安翁は一人、畑に残ることにいたしました。夜盗への警戒を怠るわけにはいかぬと、手にしたほこを枕代わりに、冷たい夜露が衣を濡らすのも構わず、彼はそこに身を横たえたのです。


第一の襲撃

夜のしじまに身を委ね、うとうとと微睡まどろみ始めた、その刹那。

不意に、刈り残された蕎麦の根を踏みしめる音が耳をつきました。ザッ、ザッ、と土を擦るような不気味な響き。

はっとして、安翁は盗人かと身構えます。弾かれたように上半身を起こし、音のする方へ鋭い視線を送りました。

しかし、そこに立っていたのは、人の姿ではございません。身の丈、一丈はあろうかという大鬼。赤く乱れた髪、顔を覆うほどの濃い髭。それが、いつの間にか安翁のすぐ間近にまで迫っていたのです。

息を呑むほどの恐怖が、安翁の全身を貫きました。考えるよりも早く、体は動いておりました。地を蹴って躍り上がると、手にした戈を渾身の力で鬼の体めがけて突き立てたのです。

天地を揺るがすかのごとき咆哮を上げ、鬼は闇の中へと掻き消えました。

鬼が再び現れることを恐れた安翁は、戈を肩に急ぎ村へと引き返します。道すがら、遅れて帰る小作人の一団と行き会い、今しがたの出来事を語って聞かせました。決して畑へ近づかぬよう固く戒めましたが、彼らは半信半疑といった面持ちで、ただ顔を見合わせるばかりでございました。


第二の襲撃、そして悲劇

翌日のこと。人々が脱穀場で麦を広げ、陽に当てていた、まさにその時。空の彼方より、得体の知れぬ物音が響いてきたのでございます。

その音に、安翁は血の気が引くのを感じました。「あれは…昨夜の鬼だ」。そう叫ぶが早いか、彼は一目散に駆け出します。その気迫に押され、他の者たちも我先にと逃げ惑いました。やがて落ち着きを取り戻した安翁は、集まった人々に弓といしゆみを数多く用意させ、いつ来るとも知れぬ襲来に備えるよう命じました。

そして、次の日。恐れていた通り、かの鬼が再び姿を現しました。

人々はかねての準備通り、一斉に矢を放ちます。その猛攻に驚いたか、鬼はたまらず逃げ去って行きました。それから二、三日は、鬼が姿を見せることはございませんでした。

脱穀を終えた麦は、無事に蔵へと納められます。仕事の跡には蕎麦の藁や殻が散らばっており、安翁はそれらを自ら一つに集め、小高い丘のように積み上げました。そしてその上に登ると、足で何度も踏み固め、数尺ほどの高さを持つ円錐形の塚をこしらえたのです。

ふと、安翁が遥か遠くに目をやった、その時でした。彼の顔から再び色が失われ、絞り出すような声が漏れます。

「…来た」

人々が慌てて弓矢に手を伸ばす、その一瞬の隙も与えず。鬼は、塚の上に立つ安翁ただ一人を目指し、凄まじい速さで突き進んでくるではございませんか。

抗う術もなく、安翁は突き倒されました。そして鬼は、その額に牙を立て、肉を食い破り、あろうことか骨の一部を抉り取ってしまったのです。

人々が駆けつけた時には、鬼の姿はすでになく、安翁の額には手のひらほどの空洞が穿たれておりました。彼は深く昏睡し、意識を取り戻すことはありません。人々は亡骸のようになった安翁を背負い、家へと運び込みましたが、彼は二度と目を開けることなく、静かに息を引き取りました。


あの日を境に、鬼が村に現れることは二度となくなりました。

あれが一体何であったのか。その正体を知る者は、誰もおりません。ただ、長山の秋の空に、今も語り継がれる怪異譚として、その記憶はひっそりと残るのみでございます。


この物語の深掘り:怪異の核心と新たな解釈


1. 不思議さと恐怖の核心

この物語の恐怖は、単なる鬼の暴力性だけではありません。その不可解で儀式的な行動様式にこそ、じわりと肌を粟立たせる本当の恐ろしさが潜んでいます。

 段階的接近の不気味さ: 鬼は最初から安翁を殺害しませんでした。一度目は威嚇するように現れて戈で撃退され、二度目は矢で追い払われます。まるで何かを試し、安翁の覚悟や村人の結束を見定めるかのように、徐々に距離を詰めてきます。この段階を踏む襲撃が、単なる獣の襲撃とは異なる、知性を持った存在の不気味な意図を感じさせ、読者の恐怖を増幅させます。

 「額の骨」という異常な執着: この物語最大の謎であり、恐怖の源泉です。なぜ鬼は、命そのものではなく「額の骨」という極めて特殊な部位だけを奪い去ったのでしょうか。古代において、頭部、特に額は知性や魂が宿る場所と見なされることがありました。鬼の目的が、安翁という篤農家が持つ「土を育む力」や「生命力そのもの」を象徴する部位を奪うことにあったとすれば、その行為は単なる殺害を超えた、魂レベルの略奪という、より根源的な恐怖を感じさせます。

 最後の「塚」が招いた悲劇: 安翁が良かれと思って積み上げた蕎麦藁の塚。しかし、結果的にそれは鬼が彼を孤立させ、襲撃するための格好の舞台となってしまいました。まるで自ら祭壇を築き、生贄になったかのようなこの皮肉な展開は、人の善意や努力が、人知を超えた存在の前では無力であるばかりか、かえって仇となるという残酷な運命を突きつけます。


2. 類似する物語と文化的検証

この物語のモチーフは、日本や世界の神話・伝承とも響き合う部分があります。

 日本の文化との共鳴:

土地神と祟り: 日本には、特定の土地や自然物に宿る神(土地神)の信仰が根強くあります。畑という舞台は、豊穣を司る神聖な場所です。鬼の出現は、安翁が知らず識らずのうちに土地の禁忌を破ったことへの「祟り」や「警告」と解釈できます。例えば、収穫の儀礼を怠ったり、土地を不浄にしたりしたのかもしれません。

部位を奪う妖怪: 日本の妖怪譚には、河童が尻子玉を抜く、といった特定の部位を狙う話が存在します。これは、人間の生命力の一部を奪うという観念の表れです。「額の骨」もまた、その土地で生きる人間の精気を奪うという、日本の妖怪観と通底する部分があります。

 異文化との繋がり:

農耕と神話: 世界各地の神話において、農耕は大地母神や死と再生を司る神と深く結びついています。豊穣のためには神への「生贄」が必要とされる伝承は少なくありません(例えば、古代ギリシャのデーメーテールとペルセポネー神話など)。この物語の鬼も、土地の豊穣を維持するために人間の生命力を求める、荒ぶる自然神の一側面と捉えることも可能です。

魂の器としての骨: シャーマニズムなどの古代信仰では、骨、特に頭蓋骨は魂が宿る器とされ、死後も特別な力を持つと信じられていました。鬼が額の骨を奪ったのは、安翁の類まれなる農耕の力を、呪術的な目的で利用するためだったのかもしれません。


3. もし後日談を続けるとしたら

安翁の死で終わった物語に、続きを描くならば、奪われた「額の骨」の行方が鍵となります。

【後日談案:呪われた豊穣】

安翁の死後、村は奇妙な静けさに包まれた。悲しみが癒えぬまま次の秋を迎えると、村の畑は原因不明の不作に見舞われた。しかし、ただ一箇所、長山の奥深く、誰も近づかなかった谷間の斜面だけが、見たこともないほどたわわに実る蕎麦で白く染まっていた。

噂を聞きつけた安翁の孫が、父の形見の戈を手にその谷へ向かうと、そこには異様な光景が広がっていた。小さな畑の中心に突き立てられた一本の棒。その先端には、白く輝く安翁の額の骨が掲げられていたのだ。そして、その骨から放たれる淡い光を浴びて、蕎麦は人の背丈ほどにまで育っている。

鬼は、篤農家であった安翁の「土を育む力」が凝縮された骨を、自らの畑の依り代としていたのだ。安翁の孫は、祖父の魂を奪還し、村の豊穣を取り戻すため、再び現れるであろう鬼と対峙することを決意する。それは力だけでは勝てぬ、土地のことわりを巡る戦いの始まりであった。


4. さらなる意外な結末で結ぶとしたら

物語の前提を覆し、全く新しい解釈で結末を描くこともできます。

【意外な結末案:鬼は安翁自身であった】

鬼とは、安翁自身の内に潜む「土地への執着」が生み出した影であった。彼は土を愛するあまり、その土地の生命力を独占しようとする歪んだ願望を抱くようになっていたのだ。月夜の畑に現れた鬼は、彼の分身ドッペルゲンガーであり、誰よりも畑を愛し、同時に誰よりも畑を我が物にしたいと願う心の闇の具現化だった。

小作人たちを帰し、一人畑に残ったのは、彼自身の中にいる鬼と対峙するため。一度目、二度目の襲撃は、彼の理性と鬼(執着心)との内なる戦いであった。しかし、老いた彼にその力を抑え込むことはできなかった。

最後に彼が蕎麦藁で塚を築いたのは、自らを生贄とする最後の儀式。彼は塚の上に立つことで、自らの魂と肉体を土地へ還し、暴走する鬼(執着心)を永久に封じようとしたのだ。鬼が彼の額に噛みついた瞬間、安翁の魂は肉体から解放され、影である鬼もまた霧散した。彼の額の骨が失われたのは、その魂が完全に土地と一体化した証であった。

彼は自らを犠牲に、村を、そして何よりも愛した畑を、自らの闇から守ったのである。その後、村の畑がかつてなく豊かになったのは言うまでもない。人々は鬼の怪異を恐れながらも、その年から始まった豊穣を「安翁の恵み」と呼び、畑の片隅に小さな社を建てて、彼の魂を末永く祀ったという。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ