9・彼を探し征くは緑の迷宮。
初めてひとりでノルダッドの外へと足を踏み入れる。
アスターシャを出迎えたのは、濃密な緑の匂いだった。
竜船艇から中腹を通りノルダッドまでは、まだわずかながら道のようなものが整備されていた。
だが、視線の先に見えるのは手つかずの森林で。
その閉塞感も相まって、ドリューたちの背中がいかに大きく、頼りがいがあるのを思い知る。
聞いた遺跡のある場所は、ここより遥か先。追いかけるのは子供の足だが、相手は竜人族だ。はたしてアスターシャの足で追いつけるだろうか。
襲いかかる不安を振り払い、アスターシャは歩き出す。
遺跡へはノルダッドより北西に行った山間にあるらしい。
ジュレルは自分はノルダッドの将来を担う戦士だと大人を説得し、狩りに同行した際、その遺跡を初めて見たらしい。
無音。
風に揺れる木々の音。
ジュレルの名を叫んで探したいが、それは逆に第三者に自分の場所と存在を知らせることになる。それが『規格外』ならば命取りになる。
気配をなるべく殺しながら、アスターシャは先を行く。
動く枝が全て敵に見える。身を削るような緊張感の中、何と冷静な心を保つ。もし規格外に遭遇した時、自分は対応出来るだろうか。
それはドリューたちを姿を同じくする、竜人族に刃を向けるということ。
足が震えて動かなくなるかもしれない。もとより剣を抜くことすらままならないかもしれない。
でも、嬉しそうに話すジュレルを含む子供たちの笑顔を思うと、勝手に身体が動いたのだ。
どれくらい歩いただろうか。
変わらぬ風景に不安が胸を満たす。
木々が削る空気の音ですら、誰かの笑い声のような気がして。
ぱき、と奇妙な音にアスターシャは身体を強張らせ、思わず視線を巡らせる。
視線の先には揺れ動く草むら。
アスターシャに緊張が高まり、腰の鞘に手を添える。だが、その強張った手がほどける。
なぜなら、そこから会いたかった顔が現れたからだ。
「ジュレルさん・・・!」
その姿の無事に、アスターシャは無縁を撫で下ろした。そしてすぐさま駆け寄り、自分よりは種族としては強靭で、だが確かに幼いその身体をアスターシャは抱きしめた。
「・・・先生」
力なく、ジュレルの寄せた重さを胸に感じる。ジュレルも、柔らかい温もりに身を委ねた。
「・・・迷っちゃった。ごめんね、先生」
情けない、と自分を責めるように呟くジュレルをアスターシャは抱きしめる力を強くし、不安を和らげようと慰める。
竜人族だからといって、完全に地の利があるとは限らないのだ。ましてや彼らは本来ならば外に出ることも許されていない子供なのだから。
何より、無事で会えて良かった。
それと同時に感じたのは、ジュレルだろうが、その顔を見るまで気配すら分からなかったという事実だ。
この森が方向感覚を狂わせるからなのか。戦士として未熟なアスターシャならなおさらだ。
ジュレルが掟を破ってまで飛び出した原因となったその遺跡は、アスターシャも興味がないわけではない。だが、今は引き返すべきだ。
ジュレルが落ち着きを取り戻したところで、アスターシャは胸の中の顔を見る。
ジュレルはバツの悪そうに視線を逸らし、いつもの元気な様子は微塵も感じられない。そんな姿ですら、愛おしい。
優しく硬質の頭を撫でながら、アスターシャは「帰りましょう」とだけ告げた。今度はジュレルはその提案に反抗することなく、小さくその首を盾に振った。
ジュレルの姿は戦士の真似事のように小さい短刀を腰にぶら下げているが、自衛にはならないだろう。もちろん、アスターシャも何かがあったら自分も含めて彼を守る力もない。ここは早々に帰るのが最善だろう。
まだまだアスターシャはノルダッドに身を寄せている。時間は山程ある。いつか、そこに行けたらいい。
ざあっ。
今度は枝葉が大きく揺れる音がした。
何のことはない。風が木々に吹き付けただけだ。
・・・違う。
アスターシャは思わず腰の剣に手を添え、神経を張り巡らせる。
明らかな違和感が、先の草むらから痛いほど感じる。
アスターシャは無言でジュレルに後ろに下がるように促す。その緊迫感が伝わったのか、ジュレルは不安そうな表情でアスターシャの背後に隠れる。
『それ』はそこに現れた。
鼻息を荒げたそれは、思わぬ獲物に歓喜しているようで。
まるで巨大な大木から切り出した丸太のような体躯。その身体を支えるのは4本の足。
三日月状に反り立つ2本の角。
それはバルボアと呼ばれる、獰猛な獣だ。
この森の危機は規格外だけではない。
自分の身を食料にされまいとする獣の住まう森でもある。
特筆すべきは、目に映る動く物全てを刺し貫かんとする気性の荒さだ。その牙の硬度は周囲の木よりも遥かに高く、
時に自分よりも太い幹を削り倒すこともある。
突然の邂逅に、その身を強張らせるのはジュレルだけでなくアスターシャも同様で。
柄に掛ける指先が震えているのが自分でもわかる。
どうする?このまま今すぐ逃げるか。
地を均すような動きの前足が、バルボアの高ぶりを示していた。
迷っている暇はない。
アスターシャは意を決して鞘から剣を抜き取り、
「ジュレルさんは逃げてください・・・!」
その語気でジュレルはアスターシャの覚悟を悟ったが、恐怖もあるのだろうが、心配が勝ったのか立ち去ろうとしない。
少なくとも、ここへ来て体力も以前と比べて高まった自負がある。
何も倒す必要はない。刃に怯んで少しでも隙を作れればいい。
薄暗い森の中に立ち込めるバルボアの荒い息と共に、アスターシャの剣に鈍い光はきらめく。
神経を研ぎ澄ます。
剣を抜いた姿を戦闘態勢と取ったか、バルボアの地を蹴る蹄が静止する。
一瞬の静寂。そして、剣を抜いたことが勇気でもなんでも無く、ただ自分の実力不足だと突きつけられた。
何かが何かを削るような音と共に、突風のような圧力が前方から押し迫る。
「きゃあっ!」
その身体の大きさからは考えつかないような、まるで弾丸のような速度。
バルボアは、自分の身体に鋭い枝はがこすれるのも厭わず。むしろ逆に、固く逆だった毛は萌える新緑をいとも簡単に引き裂いて。
バルボアの突風のような体当たりを何とか躱すも、その突進の残滓がアスターシャの身体を大きく揺らす。
直撃でなくこの威力。いかに自分の考えが甘いのを思い知らされる。
だが、自分の意思に陰りはない。
「ジュレルさん!お逃げなさい!」
言葉だけで背後の小さな子供を奮い立たせる。
規格外だけではない、この山に住む獣は、命を繋ぐ食料であると同時に、それを拒否する命でもある。
その鋭い牙は、竜人族とはいえ、幼い鱗を引き裂くだろう。
「でも!先生が!」
大丈夫、と改めて剣を構える。
命に変えても彼を逃がす。
剣を構えたその姿に改めて闘争本能を燃え上がらせ、バルボアの赤い目がアスターシャを捉える。
それを迎え撃つため、アスターシャは剣の突先を前へと向ける。
細い腕で支える細い剣は、蒸気機関車のような突進は止められないだろう。
だけど、必ず守り抜く。
前に進むことが使命かのように、バルボア鼻息を吹き出しながら、駆け出す。
幸い、バルボアは直線の動きしか出来ない。方向を転換するには大げさと言えるくらいに足が地面を削り、その向きを変えなければならない。
押し迫る鉄塊を軽やかな動きで飛び退き、躱す。
そうだ。何度もこれを繰り返し、疲れたところを撃つ。
出来るだろうか。幼い命を守れるだろうか。いや、自分がやらなければならない。
汗が滲む。
既のところでバルボアの突進を躱す。
凄まじい破壊音と共に木々が揺れる。
木の側面が、バルボアの突進によって穿ち、無数の木の葉を散らす。
その力に散らされた、舞う緑葉に、一瞬でも目を奪われたのがいけなかった。
すぐ眼前に茶色の毛の塊が押し迫ったのを、反射で剣を振るった。
「ああっ!?」
絶望にも似たジュレルの言葉に、アスターシャはかろうじて剣で牙に触れるだけで精一杯だった。
刃先から伝わる、信じられないくらいの重量。眼前を巨大な針玉が駆け抜け、再度気に激突させる。
・・・危なかった。あんなものをまともに身体に受けたら、吹き飛ぶだけでは済まない。身体がずたずたに引き裂かれるだろう。
それに、牙が剣に触れただけで、からだ全体が持っていかれるような力を感じた。
柄を持つ手が、生刻みに震え、刀身が不協和音を奏でている。
それがアスターシャを襲う恐怖の度合いを示している。
心臓すら削り卸しそうな威圧感の前には、なけなしの勇気すら意味を成さない。
つくづく、自分は今まで安全な場所で剣の鍛錬のマネごとをして、強くなった気になっていた甘ちゃんだと思い知らされる。
でも、今はそれでもいい。
この、後ろのジュレルを守れさえすれば。
改めて、無様に身体を震わせながら、構える。
戦う意思というエサに釣られたように、バルボアが身体を震わせる。ただ、こちらは戦闘本能という名の武者震いだ。
ゆっくりと足が地を駆け、瞬く間に最高速に到達した突進を。
アスターシャは横に飛び、躱し。
「はあっ!」
指が砕けるほどに握り込んだ柄を、思いっきり押し出す。
だが。
金属製の剣先ですら、バルボアの角を切り落とすことすら叶わず、全霊の一突きは虚しく弾かれる。
また、木が弾け飛ぶ音が戦慄を生む。
岩石の如き巨体は、アスターシャの一撃を蚊の一刺しのように意に介さず、唸りを上げて方向転換する。
心臓の鼓動と共にぶり返す恐怖を、もはや何の感情かはわからない気持ちで無理矢理抑え込む。
その時。
「きゃっ!?」
アスターシャの頭上から、木の枝が降りかかる。
バルボアがその巨体で揺らした巨木から弾き折れた枝だ。
枝と言っても、それがすでに人間の腕ほどはある。
それはアスターシャが足をすくませるのには十分で、バルボアが簡単に間合いを詰められる距離だった。
「先生ぇっ!!」
ジュレルの悲痛な叫び。
だが、剣を盾にした構えと、無数の枝がクッションとなり、致命傷は免れた。
「あぐっ!?」
それでも、華奢なアスターシャの身体を吹き飛ばすのには余りあるもので。
岩肌に背中を打ち付け、直後激痛が走り、アスターシャは苦悶の表情と呻き声を宙に吐き出す。
視界が揺れ、剣が虚しく主の手から別れを告げる。
それが致命的な隙を産んだと後悔をしたのは次の瞬間で。
引かぬ痛みの中、ぼやける視界の先にいたのは、地面ごと掬おうと牙を伏せ、突進してくる獣。
ジュレルは逃げてくれているだろうか。
そんな場違いな考えが頭を支配していて。
覆いかぶさる影が、先程まで対峙していたバルボアだと認める。
蒸気のように吹き出す白い息と共に。
どこかで何か聞こえる。
それはジュレアの慟哭か。荒れ狂うバルボアが掻き乱す木々の音か。
どちらにせよ、今すぐそれを確かめることは出来ない。
願わくば、訪れる精算な光景に幼き子が何の呵責を感じることがないように。
アスターシャは、覚悟にも似た気持ちで、目を伏せた。
ぐぎ、ぎゃっ。
何かを引き絞ったような呻き声に、アスターシャはゆっくりと目を開ける。
バルボアの2本の牙は、アスターシャには届いていなかった。
それどころか、バルボアの眉間からまるで3本目の牙かのように、突起が飛び出ている。
それは2本の牙とは遥かに異質な金属の輝き。
熱い、粘性のものがアスターシャの頬に触れる。それがバルボアから滴る血飛沫だと気づいたのは、寸前まで生きていたと思わせる生温かさがあったからで。
ぼやけていた視点が合いはじめる。
バルボアの背中から剣で貫いていたのは。
「・・・ドリュー、様」
アスターシャに出来なかったことを、彼は難なくやってのけて。
険しい顔で、バルボアから剣を引き抜く。四肢を硬直させた獣が、力なく地面に横たわる。先程まで止まる気配のない巨体だったのが嘘のようだ。
それ以上にアスターシャは、バルボアと同じく身体の力が一気に滑り抜け、安心したように荒い息のまま地面に背中を預けたのだった。




