7・穏やかなる風は何処でも等しく。
アスターシャは先程の武会での興奮が冷めやらぬ中、自室に戻る道すがら、見知った背中を見た。
茜色を帯び始めた空からの光に、翡翠色の竜鱗が煌めく。
ドリューはアスターシャに気づくことなく歩みを進め、王宮を出る。
部下でのこともある。アスターシャはその背中が気になり、つま先が向かう方向を反転させた。
城の裏手は森になっており、ドリューは木々の間を分け入るように進んでいった。
適度な距離を保ちつつ、アスターシャはその後を追う。
そこは人に足を踏み入れるような場所ではないらしく、最低限の獣道のような幅しか整地されて織らず、左右から伸びる草木を払いのけながら進む。
緩やかに伸びる山道。木々の隙間から見えるノルダット駆ら、少しづつ高度を上げていく。
どれくらい歩いただろうか。
時にはドリューとの距離を離されそうになり、その間を慌てて詰めながら足を走らせる。
草の帳を押しのけると、やがて視界の開けた場所に出る。
「・・・わあ」
そこは眼下に大きな建物、ノルダッドの王宮を有する竜人族の街を一望出来る場所だった。
ノルダッドの王宮は、ロズタリアや他の国の城のように天を突くような塔を有さない建造物のため、その向こうの景色すら邪魔をせず、視界に収めることができる。
見ると、ドリューは傍らの岩に腰を掛け、アスターシャと同様に表情こそ見えないものの、ノルダッドの街へと視線を向けていた。
仄かな茜色に染まる街。それは不思議とありもしない郷愁を感じ察せる。
「・・・ここは、擦り減った心を正してくれる」
最初からアスターシャが追って来ているのに気づいていたのか、振り向くことなくドリューは宙に言葉を吐く。
「お気に入りの場所だなんて言うつもりはないが、唯一の拠り所だ」
確かにここは、街よりも穏やかな空気が流れる、自然の風邪を感じるのには最適な場所だろう。
ドリューとはまだ付き合いも関係性も気迫だが、分かった事がある。
竜人族の戦士、武会という過酷な鍛錬。そしてそれは仲間に刃を向けなければならないという宿命にも似た現実。
彼らは強靭な身体と戦闘力を有し、人間すら越える種族。だが、それでも心に何も思わない人形ではないのだ。
アスターシャは安心したのだ。彼らも強いだけの生物ではないのだと。
国を重い、仲間を思う。
そう。自分たち人間と何ら変わりはない。それがアスターシャは嬉しかったのだ。
「すみません。お邪魔でしたでしょうか」
言わば、ここはドリューの秘密の場所なのだろう。
「構わん。この国に住まう者であれば知っている場所だ。特に隠すようなことではない」
緩やかな風が吹き抜ける。木々が揺れ、アスターシャとドリューの間に流れる波がふたりの肌を撫で、街の向こう側へ飛んでゆく。
「・・・俺は、この国の生まれではない」
ふと、ドリューがそんな言葉を漏らした。それはドモロの言っていたことと一致する。
「君には信じられないだろうが、俺の生まれた集落は戦いとは無縁の、ひっそりとその身を落ち着けながらも日々を生きるだけだった」
その目は虚空を捉えている。視線の先は、生まれた場所を追っているのだろうか。
「ある日、何処で嗅ぎつけたか俺の能力を知り、ノルダッドに連れてこられた時から俺の運命は変わった」
そして、生まれ故郷を想う望郷の気持ちも合わせ持つ。
「それが、十年ほど前の話だ」
十年。それは人間にとっては決して短いとは言えない長さの時間だ。
「帰郷したりは、しないのですか?」
ドリューの生まれた場所とノルダッドの距離はアスターシャには計り知れないが、ここで騎士としての地位を手に入れたドリューを、故郷は誇りに思わないわけはない。
だが、ドリューの表情は優れない。
「俺を育ててくれた故郷にしてみれば、俺は里を捨てた裏切り者だ。どんな顔で帰ればいいか、皆目検討が付かん」
裏切り者・・・?
「生まれ里は、言葉や文化を手に入れ、さらに争うことも放棄し、農具を手にした。それを剣に持ち替えた俺を、許せないのだろう」
自分の力を認めてくれた者への元へ旅立つことを、裏切りと捉えるのか。
「ドリュー様の生まれた場所は、ドリュー様の今をご存知なのですか?」
アスターシャの問いに、ドリューは目を伏せ軽く首を振る。
「さあな。閉鎖的な村だった。俺のことなど、もはや居ないものとしているのかも知れん」
だとしたら、寂しい。
「この国にはグエルを始め、手練れの戦士は腐る程いる。俺には居場所はもうここしかない。振り落とされずにするので精一杯だ」
そうは思えないほど、ドリューの剣の走る動きは熟練の騎士にも勝るとも劣らない。
「俺は生涯ここを離れず、終の住処にするつもりだ」
ドリューにも親はいるはずだ。
アスターシャも、生命が何もない霧の中から生まれ出るとは思っていない。この世の全ての生命の輝きは、すべからく誰かと誰かの間に生まれる愛しき存在だ。
人間も、動物も、植物も。そして竜人族も。
「・・・私、いつかドリュー様の故郷へと行ってみたいです」
そこには、ここの住まう者とは違う考え方を持った竜人族がいるのだろう。もっと、いろいろな人に出会いたい。素直にそう思うのだ。
奇異な物を見るような視線を、ドリューは傍らの人間に向ける。
ノルダッドだけではない。竜人族にも様々な考え方を持つ者がいる。それはまるで人間のようではないか。
「君は最長でも一年でここを発つ。いつまでここにいるつもりだ?」
苦笑するドリュー。
「ロズタリアに帰ってからでも目指せますわ。どの道、私は見識をを広げるための旅に出るのですもの」
それはロズタリア王家に生まれたものの宿命。
そこまで言って、アスターシャは名案が浮かんだとばかりに目を輝かせ、ドリューへと詰め寄る。
「そうですわ!その際はドリュー様に私の旅の従者としてお雇いましょう」
その言葉に、ドリューはあからさまに迷惑そうな、困った表情を浮かべて口を引き結んだ。だが、それはさっきまでの巌しいものではなく、どこか柔らかく崩したもののように思えた。
「俺は」
耳を傾けていなければ、風に乗せて消えそうな声。そして、今までに見たことのないような、優しい笑み。少なくとも、アスターシャにとってはそう見えた。
「誰かに自分の心の内を話したことなどなかった。それも、竜人族ではない、人間に」
それは、アスターシャに不思議な感覚をもたらす。見当違いでも自惚れでもなければ、それはまるで自分に心を許し、頼られたかのような。
「これでも、一国を背負う未来の姫ですから」
冗談っぽく、アスターシャは胸を張る。
穏やかな風が吹く。それは、異なる姿を持つふたりの間を寸断するようなものではなく、まるでそれを結びつける、祝福するかのような色にも思えて。
アスターシャは単純に、嬉しかったのだ。普段は聞くことのない、ドリューの心の内をきくことが出来て。
ノルダッドでも指折りの戦士と言っても、無礼を承知で例えるなら、彼もひとりの男なのだ。
竜人族の荒ぶる性質は、仲間を思うが故に選択したものなのかも知れない。
規格外。自らの国を護る使命。そして外部からの奇異の目と声を振り払うため。
もしかしたら、グエルにもまだ見ぬ一面があるのかも知れない。もしかしたら、それを知ることなくここを発つのかも知れない。
ドリューやグエルだけでない。ここに住まう全竜人族にも、それがあるのだろう。
そう思うと、この国に来てからの不安は消え去っていた。それどころか、今はひとつでも多くのこの国について知りたい。彼らのことを理解りたい欲求に駆られている。
手を取り合うのは人間だけでなく、もっと広がるべきなのだ。そう、思っている。
アスターシャがノルダッドに身を置いて一月ほどが過ぎた。
慣れ始めた、とは言ってもそこは年頃の女の子である。故郷が懐かしく思わない訳が無い。だが、ほぼ一週間ごとに届くロズタリアからの手紙が、ここでの覚悟を支える活力になる。
父親であるノルダッド王は、まるで人質の如く娘の身を、手の中から手放してしまったことを悔い、謝罪の言葉が紙の上を連ねる。だが、アスターシャはむしろ感謝している。
ロズタリアが籠の中と言うつもりはないが、狭い世界の先を知れたことは今のアスターシャにとって、確実に自分の中を変えた。それは常識だったり、価値観だったり。
マリエッタからの手紙は、城が輝きを失い、まるで闇の中に落ちたかのようです、とまるで恋慕の手紙かのように、文字が便箋の上を踊っていて、アスターシャは苦笑する。
銀の軌跡が空を突く。
今は手放しで褒め称える人間は側にはいない。竜人族に比べれば、アスターシャの剣の腕など児戯にも等しい、取るにたらないものだろうからだ。
武会で刺激されたわけではないが、アスターシャも民を護るために剣を振るおうと決意したかつての日が思い起こされ、奮い立った。
途絶えていた日課を取り戻すべく、剣を空に踊らせる。
それを、ドリューは傍らで見守る。ドリューに師事を仰いだわけでもなければ、助言を受けたわけでもない。だから、舞踏を褒め称える言葉掛けられることはない。
「ふう・・・」
小さく吐く息で肩を整え、剣を鞘に収めた。その剣の形状は、この国にとっては異質なものだろう。細く、銀の軌跡を描くレイピアは決して竜人族の鱗を裂くには至らないだろう。
「ドリュー様は、これから狩りですか?」
見られている恥ずかしさを振り払うように、アスターシャは問いかけた。
「そうだな。君はいつものか」
アスターシャも微力ながら狩りに帯同する身になったが、最近は別の行動に従事している。
「ええ。今日も街へ向かいます」
ノルダッドの城下街にお使いまがいに出たのを機に、アスターシャは城だけでなく、最近は街の竜人族ともノーアをきっかけとして顔見知りになった。
特に子供たち。ドリューに言わせると幼体期と呼ばれる未成熟な時期。それは人間の子供と同じく小柄で(それでもアスターシャの背を越える者もいるが)、愛らしい姿をしている。
最初こそ見慣れぬ人間に、物陰を盾にしつつも窺う姿に愛おしさを感じた。
特にアスターシャに興味を示した数人の幼体竜人族と仲良くなり、今は彼らに会いに街へ降りるのが日課だ。
彼らとの会話は、この街での清涼剤であり、アスターシャにとって楽しみのひとつになりつつあった。




