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4・其は、袂を分かつ者への手向け。

 ノルダッドを出たアスターシャは、ドリューの後ろを追う形で進む。

 足を踏み入れた森林は天然の迷宮で、差し込む光だけが唯一外との繋がりを感じられるくらいの閉塞感を覚える。

 昨日のノルダッドまでの山道ほど起伏はなく、難なく進めると思っていたが、やはり空気が地上より少ないのは一緒だ。ただひとつ違うのは、濃密な緑の匂いが胸の中を満たすことくらいか。

 自分が付いていくと言った手前、手心を加えて欲しいとは言い出せず、アスターシャはこれも試練だと、根性のみで突き進む。

 竜人族(ドラング)は狩りのために己の気配を消す必要はなく、ターゲットを視認した時点で全速力でそれを追う。

 脆弱な、地を駆ける小動物の動きより、竜人族(ドラング)の身体能力はそれを遥かに超えているからだ。小さな動物など悠に追いつく。

 ドリューの振るった剣の切っ先が、野兎の頭部を貫き、鳥の翼を難なく切り裂く。鹿を手早い動きで処理に入る。

 アスターシャはそれを残酷な行為だとは思わなかった。

 ロズタリアにいた時の食事も、誰かが獲物を狩り、料理長たちが完成された食事を作ってくれている。だからこそ、自分たちは労せずに腹を満たせるのだとロズタリア王は娘に説いていた。

 だが、その知識と現実ではまるで受ける衝撃は違う。分かっていても、さすがに目の前で血が吹き出る様子は目眩を覚えた。

 ドリューは適切に処理した肉の塊を手慣れた手つきで背中の籠に放り込んで行く。

「気分が悪いのであれば休むが」

「・・・お気遣いなく。これくらい、平気ですわ」

本当は、目の前が真っ暗になるくらいに頭が重い。

 血の匂いと緑の匂いが混じり合う濃密な塊が、アスターシャの胸の中を侵食していく。

 先ほど食堂で食べた肉も、誰かが取った命の欠片なのだろう。

 周囲の木には、様々な色を付ける木の実が生っている。

「・・・実を取って食してもよろしいですか?」

 今は喉を潤したい気分だ。

 見知った赤紫の果実が見えたので、それに手を伸ばそうとすると、ドリューが大きい体躯で容易に手を伸ばし、手早い手つきで果実をカットし、それをアスターシャへと差し出した。

 無色透明の液体は、身体の中を澄み渡り、一時の活力を与えてくれる。

 ドリューが手のひらに数個の小さな果実を差し出す。

「これは皮のまま食える」

 萌黄色の指で輪を作った程度の大きさの木の実を手渡され、それを口の中に入れる。

 噛むと、成程果汁が弾け、口の中が柑橘にも似た味と清涼感で溢れ出した。

 しばしの休息と、取った果実の味を堪能している時、異変は起きた。

 アスターシャの身体を覆う、違和感。思えばロズタリアからノルダッドに来て、考えなかったわけではない。

 だが、目まぐるしく回転する環境の変化で、そこまで思考が及ばなかった。 由々しき事態だ。居住の問題や、食料事情よりも重大なこと。

 要するに。

 トイレに行きたいのだ。

 座って閉じた足をすり合わせつつ、アスターシャは顔を真紅に染めつつ周囲を見回す。ドリューはそれに不審な目を向けている。

 だが、このままじっとしているわけにはいかない。アスターシャは恥を偲んで、意を決した。

「あの。ドリュー様。私、と、トイレに行きたいのですが」

「・・・排泄か」

 そんなはっきり言わなくても・・・!

 羞恥から来る熱で、顔だけでなく手の中の果実までもが茹で上がりそうだ。

 ドリューは抑揚のない目で背後の草むらを差し、

「その辺りでしてくればいい」

 何を気にする事がある、と言わんばかりにドリューは言う。

 そんなことを言っても、アスターシャは躊躇いや恥ずかしさがあるわけで。何より『外』でだなんて。そんなはしたない真似ができる訳が無い。せめて、王宮に戻るまでは。

 アスターシャの身体に起きた異変はまだ僅かな違和感程度だったが、意識し始めると、それは確かな輪郭を持ち始める。

 アスターシャは立ち上がり、茂る緑の向こうを見る。そこは、深い緑の帳。

 一步草の柵を乗り越えれば、そこは世界から隔絶されるような。確かにそこなら誰にも見られることはなく。

 ・・・そうではなくて。それは人としての何かを失いそうになる行為で。

 ざわ。

 風なのか、木立ちが揺れる。連動するように、目の前の草も同じ動きで波打つ。

「待て」

 後ろからドリューの声が聞こえる。

 緑のざわめきが大きくなる。そこに、ドリューとアスターシャ以外の第三者の気配を感じる。

 アスターシャの身体が大きく後ろに引き寄せられた瞬間、言い表せない威圧感が前方から放たれた。

 それは最初、草むらから飛び出す獣かと思った。

 倒れ込みそうになった視界に、微かに捉えた森の緑で影になったそれは、四足歩行の獣などではなく、人の姿をしていた。

 金属質の何かが交差し、耳障りな音を立て、一瞬の静寂が訪れる。

 見ると、そこにはアスターシャをかばうように剣を抜いたドリュー。そして、その先には、同じようなシルエット。

「・・・竜人族(ドラング)?」

 漏れたアスターシャの言葉は、緑の匂いと新たに現れた、明らかな殺気に混じって消えた。

 その姿は、目の前のドリュー。ノルダッドで見た竜人族(ドラング)の姿とは同質に見えて、放つ雰囲気がまるで違っていた。

 鎧は身に纏っておらず、剥き出しのくすんだ灰色の鱗が竜人族(ドラング)だと示している。

 背には翼。地に垂れるは太い尾。

 だが、その瞳はドリューとは違い、意識を失ったかのように赤く、自我を感じられない。まだ森に住む獣だと言われた方が納得できる。

 口腔から、目の前の獲物を狙うかのように唾液を滴らせ、ドリューとアスターシャを赤眼に映し、射抜く敵意を向けている。

「どるぅぅあああっ!」

 何かを訴えるかのような、咆哮。その振動は大気を伝い、草木すら揺らす。

「下がっていろ」

 ドリューが静かに言うと、アスターシャの身体を後ろへ押しやり、剣を構え直し、地を蹴る。

 何故?

 その目の前にいるのは仲間ではないのか?

 ドリューのその行動の意味を考えている間に、手にした切っ先が翻る。その斬撃が、くすんだ灰色の鱗を容易に切り裂く。

 絶望にも似た金切り声が喉を貫くように吐き出され、吹き出す鮮血が緑を、色よい果実を汚す。

 傷つけられ、怒りに溢れる灰色の竜人族(ドラング)の鋭い爪が虚しく空を切り、代わりに返したドリューの刃が真一文字に硬質の身体に刻む。

 灰色の身体がのけぞり、その動きを一瞬固まる。

 ドリューにとって、その一瞬の隙で十分だった。

 ドリューの構えた刀身が鈍く輝き、全てを寸断する斬撃が放たれ。

 声もなく、呆気なく、灰色の竜人族(ドラング)の喉笛を掻き切る。

 一瞬。瞬きの間。

 しかし、永遠にも似た硬直の後、赤黒い奔流を撒き散らし、灰色の巨体が後方へと力なく倒れ伏せた。

 静寂を辺りが包む。風に乗る、穏やかに揺れる草葉がこすれる音が耳に微かに聞こえるのみ。

「・・・お仲間では、ないのですか?」

 ドリューの不可解な行動に戦慄しながら、アスターシャは震える声で何とか言葉を押し出そうとする。

 剣にこびり付いた黒い血漿を振り払い、ドリューはあくまでも冷静な動きで剣を鞘に収める。だが、その目の奥には言い表せない虚しさを宿しているようで、アスターシャは思わず息を飲んだ。

「こいつは『竜人族(ドラング)』ではない。いや。成れなかった、と言うべきか」

 ドリューの言葉の意味が分からず、アスターシャの疑問符を宿した表情は変わらない。

竜人族(ドラング)が地上最強の生物である竜から枝分かれした存在であることは知っているか」

 竜人族(ドラング)はドリューの言う通り、全ての生命の頂点である竜を祖とする一族だ。

 竜の使徒、神の化身という別名もあるくらい有名な話だ。だが、それゆえ人間からは恐れられ、強すぎる力は畏怖を与える。それが人間の竜人族(ドラング)へ対する様々なマイナスの意識の原因だろう。

「我らは、遠い昔に言語を手に入れ、独自の文化を育て、この世界に適応した姿へと進化を遂げた」

 斬り伏せた物言わぬ亡骸を見つめながら、ドリューは語る。

「彼らはその進化に失敗した、『規格外』と呼ばれる存在だ」

 それは、進化の道を外れた者の末路。

「稀に現れる、言葉を得るどころか感情を失い、敵味方の境目も判別することの叶わなくなった哀れな存在だ。こうして切る伏せて黙らせる以外の手立てを、俺は知らない」

 それは即ち、規格外の竜人族(ドラング)は、言葉による対話の難しさを現している。いや、それは不可能なのだろう。でなければ、剣で同族を斬るなんて非情な真似ができるはずがない。彼らが言葉を手に入れ、対話が可能な存在に進化したのなら尚更だ。

 ドリューは地面を掘り起こし始めた。その行動の意味をアスターシャはすぐさま理解した。だから、ドリューに倣い、自分の指先が土に塗れるのにも構わず、地面に手を差し出した。

「いいのか」

 その言葉の意味は、素手で土を掘り起こす手が汚れることに対してであろう。

 少なくとも、同族に刃を向けて冷静を装っても、ただの冷徹な心情を持って剣を振るったわけではないドリューに対しての敬意のつもりだ。

「すまん。一撃で屠ることが出来なかった」

 ドリューは亡骸を掘り返した穴に横たわらせ、土をかぶせた。

 ドリューの放った言葉に意味は、その時は分からなかったが、人間のように死者を弔う気持ちを知り、差し向けるその瞳には惜別の感情が込められている気がした。


 森から帰還したドリューとアスターシャは、背中の籠を食堂へと持ち込むと、厳つい顔の給仕長はその戦利品の数と質に、満足そうな笑みを浮かべた。

「・・・すん」

 アスターシャはふと自分の姿を顧み、匂いを嗅ぐ。

 よく考えたら、昨夜から風呂にも入っていないし、さっきはさっきでショッキング出来事に出くわし全身が汚れてしまっている。そのお陰でトイレを欲するカウントダウンが伸びたのは不幸中の幸いだ。

「・・・あの、ドリュー様」

 こそり、とアスターシャは傍らの竜人族(ドラング)へと小声で話しかける。

「お風呂、というのはございますでしょうか」

 ドリューは少し考えた後。

「・・・風呂というのは、湯浴みのことか」

 竜人族(ドラング)といえど、風呂に入らないなんてことはあるまい。ドリューの身体にも、返り血で浴びた身体を落としたり、土だらけの手を綺麗にしたいだろう。

「身体を洗いたいのなら、近くに川がある」

 返ってきた答えは、アスターシャの望むものではなかった。

「・・・川、というのはお魚が泳いでいる場所、ですわよね」

 アスターシャの感覚では、そこは釣りをするところであって、入浴をする場所ではない。せいぜい手足を付けて涼を取る場所、という認識でしかない。

「お風呂はないのでございますか」

「全身の場合は我々はいつもは川で済ます。手足を洗う水場ぐらいは使うが、風呂はどちらかと言えば湯治の意味で入る場合が多い」

 アスターシャは眼の前が真っ暗になる感覚を覚える。

「その浴槽も、様々な薬草の成分が染み付いている故、人間が入るには都合が悪いだろう」

 竜人族(ドラング)には有用でも、人間には害を及ぼす可能性がある、と。

 川でなんて、それは即ち屋外で裸になることを意味する。そんなはしたない真似、できるはずがない。でも、纏わり付く不快感と汚れを洗い流したいのは確かで。

「あの、その場所の案内していただくことはできますか?」

 ただ、とりあえずそこがどんな場所なのは確かめたい。 

 アスターシャの願いにドリューは「わかった」とだけ答え、先導した。その後ろをアスターシャが続いたのであった。

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