2・姫は竜の国へ旅立つ。
「私は心配にございます!」
メイドのマリエッタが、その表情に怒りすら滲ませて憤慨した。
竜人族の国へアスターシャが向かうことが決まったその夜。アスターシャは、自室でメイドと共にその荷造りの最中だった。
メイドはそう言うが、アスターシャ本人は割と胸が高鳴っている。いつか来る見識を広げる旅が、期せずして訪れたのだ。それは少なくとも数年は先の話であるはずだった。
大きめのトランクに着替えや日用品を丁寧に詰めながら、マリエッタは釣り上げる柳眉を緩めない。
「あの野蛮で粗暴な蛮族が住む国に、姫様が足を踏み入れるなど、私には我慢がなりません」
早くに母親を亡くしているアスターシャにとって、身の回りの世話をしてくれているメイドたちはある種親代わり、姉のような存在だ。その末妹が異国の地に送られる。その心配はもっともだろう。
「・・・野蛮、って。そいう噂もありませすけれど」
世間に伝わる竜人族のイメージは荒ぶる暴君。文化レベルも人間よりも劣る低水準。誇れるものは兄弟な戦闘能力だけ。武器なども使わずとも、人間の身体など引き裂ける。畏怖しかそこには存在しない。
「500年前の借りだか知りませんが、それは今の私たちには関係のないことではありませんか。姫様が迷惑を被ることなどありません」
ここまで怒り心頭なのは、その竜人族の国にアスターシャ以外の人間の入国を禁じられたせいだ。
「私は、これは500年前の出来事にかこつけた、姫様へのちょっかいだと思いますの」
言っている意味がわからず、アスターシャま眉をひそめる。
「だって、姫様はこのロズタリアの生ける秘宝!その美しさはきっと種族すら超えているのですわ!竜人族ですらそれは例外ではないです!」
力説するマリエッタに、アスターシャは困ったような表情。
「それは、いささか飛躍しずぎなのではないでしょうか」
アスターシャは、ロズタリアが竜人族への儀を返すまでの担保。それ以外の意味はないはずだ。
「くれぐれもお気を付けて。竜人族に決して心を許すことは無きよう」
そう忠告を受け、その日は早めにベッドに入って寝た。久しぶりに1番付き合いの長いマリエッタと共にする夜は、アスターシャに懐かしさと寂しさを宿らせたのだった。
約束の竜人族の国へと向かう朝。アスターシャはロズタリアの外の平原に向かった。
そこには信じられない巨大な物があった。見た目は海に浮かんでいるべきの帆船。だが、それを背負うのは巨大な竜。竜人族の移動手段である竜船艇だ。
全長50メートルはあるだろうか。白い鱗が美しい竜だ。犬のように腹を草原に押し付けているその姿は、勇壮な竜の姿とは思えず、ある種の愛らしさすら感じる。だが後ろのマリエッタは、その姿に顔を青ざめさせつつ、トランクを持つ手が震えている。
「怖いのであれば、ここまでで構わないわ」
「・・・姫様は、恐ろしくはないのですか?」
その首をちょいと伸ばし、大きな口を開けられたら、小さなアスターシャとマリエッタなど、同時に飲み込まれてしまうくらいの大きさを誇る。
だが、なぜだろう。
確かに巨大さゆえの圧迫感は感じる物の、そこまでの恐怖は感じない。
「ひいっ」
マリエッタが小さな悲鳴を上げる。
人間の姿を認め、目が大きく動いたからだ。
「ありがとうマリエッタ。ここまででいいわ」
アスターシャは、マリエッタからトランクを取る。
「情けないメイドで、申し訳ありません」
「いいえ。貴方たちがいたから、私ここまで生きてこられました」
アスターシャが、マリエッタを抱きしめる。
マリエッタの表情は、これが今生の別れかのように涙で歪んでいる。
きっとまた会える。
だから、晴れやかな笑顔でアスターシャは一時の別れを告げた。
案内してくれたのは、緑の鱗の竜人族だ。
謁見の間に現れた、老体と隻眼。残りのもうひとりの武人の竜人族。
竜船艇から正方形の籠が滑車で下げられ、それに乗り上空へと移動。竜の背中に挿げられた巨大な船型の建物へと足を踏み入れた。
中はここが竜の背中であることを忘れてしまいそうだった。木造の壁天井にまっすぐの通路が伸び、左右に扉が連なっている。
緑の鱗の竜人族が一室の扉を開け、アスターシャを促す。
部屋の中は広い。竜人族の背丈に合わせたためであろう。向かい合わせの長椅子も、人間が3、4人は腰掛けられそうな長さだ。
窓ガラスの外に、見慣れた風景が見える。
生まれた城。国が。
「席に着け。間もなく離陸する」
言われ、トランクを壁際に押し付けつつ、アスターシャは椅子に腰掛ける。向かい側に緑色の鱗の竜人族が腰を沈める。
「これから空の旅だ」
腕を組み目を伏せ、言葉が無用なものかのように押し黙る。
外にはまだメイド服姿が見える。飛び立つまで見送るつもりなのだろう。
「・・・突然のことで戸惑っているだろうが安心しろ。悪いようにはしない」
目を伏せたまま、竜人族は言った。
「お気遣いなく。私はこれっぽっちも心配などしていませんわ」
本当は、ある。
だが、自分はやがてロズタリアの王となる人間だ。これくらいのことで動揺を見せてはいけない。
「そうか」
とだけ言って、また無言になる。
「貴方、お名前は?」
アスターシャが聞くと、竜人族は目を薄く開け、対面を見やる。
「・・・ドリューだ」
「貴方は、500年前、ロズタリアに起きた出来事を知っていますの?」
「・・・話に聞いているだけだ」
目の前の竜人族、ドリューは、少なくとも当時の生き字引ではなさそうだ。
「我らがいかに長命でも、流石にそこまでの時は生きられん」
アスターシャの質問の意図を汲み取ったのか、ドリューが応える。
「我らの国になら、そのかつてのことを知るヒントがあるやも知れんな」
やがて船艇が大きく振動し。窓から見える草が、風圧で大きくなびくのが見える。
遠くにいるメイド服が空を見上げている。表情は見えないがその顔は心配に満ちているだろう。
ぐらりと揺れる室内が、やがて浮遊感を生む。
生まれ育った場所が遠くなる。
アスターシャは心の中でしばしの別れを告げた。
北方の霊峰。グレイトピークは、大昔の人間にとってそこは神聖なる山であった。神の住まう山として、その名を轟かせる、足を踏み入れるのも憚れる聖地だ。
かつては人を阻むような環境の劣悪さ、冬季は極寒の雪風が吹雪く悪路が神聖視されている理由であった。人間は、そこに初めに神が降り立った場所だと信じられていた。神の化身と呼ばれる竜人族が住んでいたとは、何かのめぐり合わせだろうか。だからこそ、ロズタリアもかつての危機に助けを求めた。
山の中腹に竜船艇を降ろし、そこからは徒歩の移動だ。
岩肌に風と共に揺れる草花。遠くには鳥が自由に空を泳いでいる。豊かな自然がそこにはあった。
「儂は老いぼれゆえ歩みが遅いでな。他の者に付き添わせる。ドリュー、グエル。お前さんたちは姫さんを連れて先へ行け」
隻眼の竜人族はグエルと言った。物静かな様子はドリューと似ているが、どちらかと言うとふてぶてしさを感じる。
前もって示し合わせたことなのか、アスターシャを真ん中に、前方にドリュー。後方をグエル。
「ここよりまだ、徒歩でしばらく掛かる」
その言葉は大丈夫か、の意だろう。
今のアスターシャの身を纏うは綺羅びやかなドレスなどではなく、動き良い軽装の鎧だ。これも、マリエッタを含むメイドと一緒に仕立てたものだが、その表情は晴れやかなものではなかった。それは、嬉しいものではなかったのだろう。
アスターシャのトランクは、グエルが不満顔をしつつも肩に担いだ。
ドレスよりは数倍動きやすい格好であるはずだ。だが、山の上は空気の美味しさと引き換えに、胸の苦しさを残す。
鍛えているとは言っても、所詮自分は温室で育ったお嬢様なのだと思い知らされた。慣れない山道は、幼い少女には思ったより過酷な道だったようだ。
「はあ、はあ」
もうすでに、アスターシャの身体は悲鳴を上げ始めている。
「おい。この人間の娘を担いで行け。すっトロくてならねえ」
ドリューは後方のアスターシャの歩幅に合わせて前を行くのを感じるが、後ろのグエルはからはまるでせっつくかのような威圧感を感じる。
「・・・見くびらないでくださいます?これでもロズタリアの未来を背負う王の娘と自負しております。これくらいの荒れた山道など」
完全に強がりだ。アスターシャの足は枷を着けているかのように重く、まるで深い沼に足を取られているかのようだ。だが、グエルはそれを虚勢と見破った。ふん、と小さく鼻を鳴らすと、興味を失ったかのようにアスターシャから視線を外した。
「人間には酷な山道だ。ゆっくりと向かったほうが効率はいい」
それでもドリューは今のペースを貫くようだ。明らかにちっ、という舌打ちが背後から聞こえた。
しばらくは具足が土と石を踏む音と、アスターシャの息遣いのみが反芻する。
ドリューたちは顔色ひとつ変えない。やはり慣れているのか、山道などものともしていない。
少し歩いたところで、ドリューは傍らに生えている果実のような実をもぎ取った。赤紫の、楕円形の球体の果実。
ドリューは腰から短刀を抜き取ると、果実の先を切り落とし、それをアスターシャへと差し出した。
「カボルだ。果肉は食えないが、中の果汁は飲料には適している。水分補給をしろ」
手渡された赤紫の果皮は、手触りからして固く、ちょっと握ったくらいでは形を変えそうにない。
果皮の中はクリーム色の果肉で、ドリューの言う通り液体で満たされていた。
未知の果汁はアスターシャに不安をもたらしたが、疲労と喉の乾きを訴える身体は、手の中のオアシスを求めていた。
恐る恐る飲み口から果汁を口に運ぶと、アスターシャは想像もしない清涼感に目を見開いた。砂糖水のような口当たりとはまた違う、喉元から疲れを押し出すような清廉さ。
身体を染み渡るように感じる水の流れとは逆に、手の中の空の果皮を持て余していると、ドリューがそれをひったくるように奪い、いずれ土に還る、とその辺の茂みの中に放り投げた。
「あ、ありがとうございます」
「ここで倒れられても困るからな」
このドリューという竜人族も、人間を矮小な存在として見ているのだろうか。確かに人間は竜人族と比べて力や体力に劣る。
しばらく歩いていると、周囲の風景が変わり始めた。
自然の岩肌の隆起に、明らかな人工物が見え始めた。
木や石で居住を作るのは人間と同様だが、そのサイズからしてすでに違う。まるで巨人の国に来たような錯覚に陥る。
山道とは違い、ここはちゃんと石畳で舗装されていて。
「ここが我が国、ノルダッドだ。疲れている所悪いが、まずは王に会ってもらう」
ドリューの言葉もそこそこに、アスターシャは街の光景に目を奪われていた。
ドリューたち同様、鱗に覆われた蜥蜴のような頭部をした四肢が、そこかしこに闊歩している。その瞳が、自分たちとは違う姿の闖入者であるアスターシャに向けられている。
人間が竜人族を珍しいと思うのと同じで、竜人族も人間が珍しいのだろう。
アスターシャはここがロズタリアではない事実と、新たな世界を垣間見た現実に、自分の胸が高鳴るのをはっきりと感じていたのだった。




