13・遠き日の約束。未来への誓い。
ヴァンデラに連れてこられたのは王宮の奥。
陽の光も遮られた、薄暗い通路。
独特な、涼しい空気の流れが肌を撫で、周囲とは違う状況はアスターシャに不思議な不安さを生み出して。
そして、その通路の最奥は扉で終わっていた。
閉じられたその扉には、厳重そうな錠前で施錠されており、奥の物の重要さを物語っている。
ヴァンデラは懐から鍵を取り出すと、錠前に差し込み、ひねる。
ガキン、と重厚な錠の外れる音と共に、扉を押し開ける。
独特な紙の匂いが鼻を付く。
その原因は扉の奥の部屋。
「・・・ここは?」
「ノルダッドの歴史、知識。全てが詰め込まれている蔵書室だ。ある意味、ここがノルダッドの全てと言っても過言ではない」
全ての本の背表紙が、綺麗にこちらを向いている。日焼けを防止するためか、窓の類が一切なく、昼間の今ででも薄暗く、文字を目に移すには、老僧に火を灯さなければならない。その火をヴァンデラが灯しながら、アスターシャがその後に続く。
蔵書室は1階、2階に分かれていて、部屋の最右側に階段があり、そこから2階に登れる。ヴァンデラが首の動きだけでアスターシャを促す。
2階に登ると、そこも本で詰め込まれた棚が連なる。
ヴァンデラはある棚の前に来ると、背表紙の上を選ぶように彷徨わせ、1冊の本を抜き取る。
そして、それを側にあるテーブルの上に置く。
「・・・これは?」
「我々の正体と、ある人間との出会いを記した書だ」
それは、硬質のカバーで製本された、1冊の本。
炎を灯す油の焼ける音と共に、テーブルにランプが置かれた。
灯る炎が本の表紙を照らす。アスターシャはそれを、めくる。
紙に記されているのは、人間の言葉だ。それも古い字体ではない、アスターシャにも読める文字で紙の上を満たしている。
ヴァンデラを見上げると、彼は無言で「どうぞ」と促した。
灯る明かりの中、指先を紙に添え、アスターシャは一文字目から目で追い始めた。
我々竜人族は、『空』に生きる種族だ。
空に無数に点在する浮島を我々は日々戦い、奪い合い、争っていた。我々は鱗の色でその勢力を分けており、戦い続けていた。
その背に背負う翼で天を駆け、剛爪で引き裂き、腹から湧き出る炎で相手を消し炭にする。
そうやって何十年、何百年と島の所有権を争い、奪い、殺し、戦ってきた。奪った島が血で染まっているのは今に始まったことではなく、特段珍しいことではなかった。
誰が始めたかもわからない、終わることのない戦い。そんな戦いはある時、呆気なく風色を変え、終わりを告げた。
我々の部族が、とある勢力と島を巡って戦いをしていた時、突如天を光が襲った。
網膜を焼く程の眩い光に目を細めていると、異変が起きた。
空気が風と共に吹き荒れ、大気が捻じれ、いつもとは違う重苦しい感覚が身体を襲う。
その異様な状況に、我々は畏怖を覚え、身体が振るえるほどの恐怖を感じたのを覚えている。
我々は一時争う手を止めた。
次の瞬間には閃光が視界の中、まるで何か大きな獣の顎に飲み込まれるような浮遊感。
やがて光がおさまり、目を開けた時、我々は言葉を失った。
なぜなら、そこは我々の住まう世界ではなかったからだ。
奪い合っていた大地はそこにはなく、見知らぬ木々や花が目に付く。
何より、我らが見下げるはずの雲が、天を覆っていたからだ。雲の海を漂う島を、我々は奪い合っていたはずだ。
誰かが、ここは空の下の世界ではないのか、と言い出した。
それはありえない。
我々の空の下の世界は、どこまでも永劫に続く奈落で、『底』などない。
まるで、長きに渡る我々の戦いを寸断するようではないか。まさに殺し合いをしていた最中の、この場にいた全ての竜人族が戸惑い、その手の武器の行方を彷徨わせていた。
まるで、あの光は争いを寸断するような輝きだった。
そこに、見知らぬ者がいた。
赤、緑、黒。どの鱗でもない色の肌で、果たして生命体なのかもわからない。
我々と同じく、かろうじて頭部はあり、四肢を有する。
そして、口を開く。我々の預かり知らない音を発している。
我々は警戒を滲ませる。奇しくも、初めて様々な色の鱗を持つ竜人族が、共通の相手に向かって武器を構える。
彼は、最初こそ驚きの表情を浮かべてはいたものの。こちらの警戒の色もどこ吹く風、歩みを寄せてくる。
その時は、彼が我々を救い、我々の運命をいい意味で捻じ曲げるなどとは、思ってもいなかった。
アスターシャは震える指でページをめくり続けている。
その様子を、可笑しそうにヴァンデラは噛み殺している。
湧き出す好奇心で急かすように、アスターシャはページの端をめくった。
我々とまるで違う容姿のその男は、実に不可思議な存在だった。
肌は白いが、鱗で構成されている訳では無い。
顔の造形もまるで異なり、我々の審美眼では、それは形容のしがたいものだった。
他の連中や仲間はそいつを捕らえ、ここがどこであるか調べようとする者もいた。
だが、見知らぬ土地で下手に動くべきではない、と長である我は後ろで騒ぐ彼らをなだめる。
困ったのは、意思疎通が出来ないという点だ。
目の前の生物は何か口から音を発してはいるが、それは我々にとってただの音の波でしか無く、その意味は理解できない。
相手もそれが伝わらないとわかったのか、顔を困ったものに変える。
部族の博学の者に、彼が何を伝えようとしているのか読み取らせようとするも、何しろ取っ掛かりがない。
不可思議な邂逅に頭を悩ましていた時、突如眼前の男が腰元の剣を抜いた。
ざわめく緊張。次々と構える同胞。
白い男は、煌めく刃で我々にも目もくれず、茂みから現れた獣を刺し貫いたのだ
四肢の獣は断末魔の雄叫びを上げて、やがて動かなくなった。鋭い爪、牙を持つ大型の獣だ。
剣を動かなくなった獣の身体から引き抜くと、彼は淀みのない動きで刃を踊らせる。
瞬く間に獣を解体し、赤いもので滴る肉を切り出す。さらに手際よく火を起こすと、それを適当な枝で突き刺し炙り始めたのだ。
この男が一体何をしているのか、周りの仲間は一向に理解が出来ず、その様子をただ見守る。だが、その肉の焼ける匂いが食欲をそそるのは、不可解な世界にいても同じように感じる感覚で。
そして、その男は肉を貫く一本を私の前に差し出した。
再び起きる緊張。
肉を焼いて食うことなど考えたことのなかった我々には、それは甘美な味だった。腹から吐き出す炎は、あくまでも相手を攻撃するためだけの武器でしかなかった。
その男は順次焼けた肉を他の者にも振る舞う。その匂いに釣られ、我先にと枝を奪う。そこには爪を振るい、命を奪うものとは違う争いがあった。平和な戦いがそこにはあった。
再度言う。
彼は不思議な男だった。
獣を容赦なく斬り伏せる、我々と同質のことをしているのに、野蛮だとは思えなかったのだ。
自分と姿形の違う我々を恐れることなく、歩み寄ろうとする。
我々は同種だろうと、縄張りに足を踏み入れる者は例外なく敵であるのに。
我々と共に、美味そうに枝先の焼けた肉を齧るその姿は、愉しそうに笑っていた。
我々は岩肌に穴を堀り、そこを一時の身を寄せる場所とする。腕力だけは無駄にある我々には、それは容易な仕事だった。
だが元々、別々の部族が集った集団だ。考え方や戦うため、その理念がそもそも違う。
我の部族と敵対する部族はもちろん、ここにいるよりはマシと、ここを離れる者。背を向け旅立つ者を、我は止めることはできなかった。
我は、後ろに残った皆を長として導く義務と責任がある。だからここに留まり、彼の存在を手がかりとしてここがどこなのか、そしてなぜ我々がこの場所にやってきたのかを知る必要があった。
それからいくばくかの時が流れた。
唯一の希望と手がかりは、我々と接触してきたその男。
身振り手振りで僅かながら意思疎通が出来るようになり、断片的ではあるが、彼の話す言葉を理解し始めるくらいにはなった。
彼は自分のことを人間という種族であると言い、この世界に住む存在だと語った。
彼は、自分のことをいずれ王になるという奇妙な人間だった。
王。それはすなわち、ある領地を治める頂点の称号だ。それがなぜ、こんな山奥にいるのか。
それを問うと、彼の住まう国ではある年齢になると見識を広げるために旅をする仕来りらしい。
我々とは、その旅路の上で出会った。そう考えると、運命的なものすら感じる。
それからさらに時は流れた。
わかったのは、元の世界に戻る手段が未だ見つかっていないこと。
人間の言葉。
そして、人間と我々の間に流れる時が、別の速度で動いていること。
旅を続ける彼は、時折この山に立ち寄ってくれる。
今や彼は仕来りの旅を終え、一国の玉座に腰を落ち着ける王となった。
そんな地位に上り詰めても、我々と繋がりを続けている、奇特な人間だ。
その姿は、出会った時は幼さの残る顔立ちをしていたが、今やその顎にヒゲを蓄える、静観な顔つきになっている。
我々に取っては僅かな年月でも、彼らにとっては見た目が変化するほどの時間であるらしい。
我々が、その爪や炎で誰かの命を奪うことをしなくなって久しい。
その力を発揮するのは、腹を満たすために獣に手を掛ける時だけになった。
我を信じて付いてきてくれる残った仲間と共に、我々と行動をともにする鱗の色の違う竜人族とも、衝突することも無く。
まるで天の神が争うことを諌め、彼が手を取り合うことを促したかのような。
この世界に来てから、そんなことをたまに思う。
離れていった同士。同じ種族、仲間、敵。その行方は今は知らない。
彼は旅の途中で世界各地に出没する、竜の頭部を持つ存在を教えてくれた。
それが異なるものとして人間から敵視されていることも。十中八九、自分たちから離れていった竜人族であろう。
我々とは違い、悪戯に力という手段で人間を遠ざけ、傷付ける彼らの末路は想像に難くない。
世界を覆う災厄のように、異なる姿の竜人族は排除されるべき存在だと人間に認識されている。
それは時に争いにまで発展し。
圧倒的な力と数の力の衝突は、片方にだけ良い結果をもたらすことはなく。我は、それを愚かな行為だと感じた。
我々と同じく手を引き、歩み寄ればお互いが傷つくことはなかっただろう。
それはこの世界を知ろうとせず、自身を改めること無く、奪うということを辞めなかった彼らの失態だ。
ちゃんと向きあえば、彼らはわかってくれる。
王となった彼は、我々の存在を自分の国に招くと言い出した。
世界各地で暴れている、我々の仲間が引き起こしている暴虐を正さなければならないと。話し合えば、決して暴力的なだけの存在ではなく、手を取り合うことも可能だと。
そこに、一筋の希望を見出して。
だが、我々に投げつけられたものは奇異の目と侮蔑。様々な感情の入り混じった、目。
長きに渡る時の中で得た言葉でコミュニケーションを図ろうとするも、自分より遥かに背丈で上回るその姿に恐怖を感じないはずもなく、初めての彼以外の人間との接触は、苦いものに終わった。
彼の住む城の者、彼の妻。全ての人間の目が、明らかな異質なものを見る目で。居心地が良いものではなかった。
彼は我々に謝罪した。
人間が、新たに出現した竜人族という存在を受け入れ、慣れていないのだろう、と。
どちらも、まだ成長が必要な時なのだと。新たな世界を受け入れる時期なのだと彼は語った。
姿の異なるものを認め、受け入れる心の成長を。
彼は言った。
必ず自分たちが手を取り合う時代は来ると。
その時まで耐えて欲しい、とも。
元の世界は、戦いがあった分ここよりも苛烈だった。
我々は硬い鱗に覆われ、体内には熱を宿す器官がある。
過酷な環境と、我々の存在自体が人払いになり、この山に人間が足を踏み入れることは皆無だった。
凍てつくような吹雪く風。新緑が宿る季節。
何度この繰り返しを迎えただろうか。
戦わないことがこんなに心を穏やかにすることを、かつての我々は信じただろうか。
彼の助力もあり、我々が降り立った山肌には住居を構え、やがてそれがひとつの街を作り出した。
田畑を作り、剣や鎧などの武具を生み出し、同種ではなく獣のみその刃を向ける。
我々をこの世界に呼び込んだ、神か悪魔かは知らないが、その何者かはこうなることを望んでいたのかも知れない。
争いが愚かなことだと案に教えていたのかも知れない。
はたまた、ロズタリアなる国を治める、今や立派な王になった彼が教えてくれたことなのかも知れない。
我は誓う。
我々を受け入れ、様々な知識を授け救ってくれた彼に、何か困難が起きればこの身を賭して助けることを。




