11・闇夜に溶けるは刹那の風。
「どうしたの?先生」
明後日の方向を向いているアスターシャに、子供の竜人族が心配そうな言葉を掛ける。
アスターシャの視線の先には何もない。
広大な自然の中にあるノルダッドの街並み。遠くには山肌。自然豊かないつもどおりの光景だ。
「・・・いえ。何だか。最近、誰かに見られている気がして」
街に住人が歩いてはいるが、アスターシャの存在はすでに馴染んだもので、いい意味で関心は薄れている。
「ジュレルがずっと先生のことを見ているからじゃないの?」
と、誰かが言った。それにジュレルは顔を真っ赤に変化させ、
「み、み、見てないしっ!」
立ち上がりながら、激昂する。
いつもの通り、アスターシャを先生と慕う竜人族の子供との交流の時。
今は微笑ましいそのジュレルの反応も、アスターシャの胸に満ちる不安にも似た感覚。
最近、時折だが誰かの視線を感じることがままあるのだ。
気の所為。杞憂。はたまた自意識過剰なのかもしれない。だが、ふと気がついた時に、どこからか自分を見る視線を感じるのだ。
それは、当然気持ちのいいものではなくて。
「誰かに見られている?」
その異変をドリューにも話した。
食事時、肉を裂くナイフの動きを止め、険しい視線をアスターシャに向ける。
気のせいだ、と一蹴されそうな雰囲気の中、返ってきたのは意外な言葉で。
「だとしたら、大したものだ。いい勘をしているのかも知れない」
ドリューの言っている言葉の意味がわからず、アスターシャは眉を潜めた。
「今日、その話をしようと思っていたところだ」
アスターシャもいつにない緊迫感でナイフの動きを止める。
「数日前から、このノルダッドの外で不穏な影の目撃情報が多発している」
と、ドリューは言う。
「見回りからの報告では、全身の黒尽くめ。まるで森に住む獣のような動きで枝の上を跳躍して去って行ったらしい。その目的は不明」
「規格外、とか獣では」
「その可能性もないとは言い切れんがな。少なくとも、斥候の目と足を振り切る事のできる能力を持つことになる」
アスターシャでも、竜人族でもない、何者かの存在がこのノルダッドにいる?
「仮に何者かが森に潜んでいたとしよう。そいつは獣の脅威にも、規格外の存在も意に介さない異常者であることは確かだ」
濃密な森の中では、どこからか脅威が襲って来るかわからない。
「わかるか?そいつは森の中で自在に動けるほどの能力を持つ人間ということになる」
「・・・人間、といいました?」
ドリューの言葉の端が気になる。
「目撃した情報によると、黒尽くめだったが、確かに人の形をしていたらしい」
アスターシャの疑問の表情を察し、次いでドリューが口を開く。
「この過酷な地に、我々の追跡を撒き、滞在を続けられる理由」
それは竜人族そのものか、その手引を受けた人間。もしくは過酷な環境にも耐えうる訓練を積んだ第三者、か。
アスターシャは、誰か竜人族の助けがなければ一日も持たないのは先の一件で証明されている。
「・・・森の中に、首を斬り離された獣の亡骸が無数に点在していたという報告もあった。我々は、狩る獲物に敬意を評しているつもりだ」
それは、アスターシャも目撃している。
彼等は少なくとも、命を頂くという意味を理解し、亡骸を地に埋め、その生命を軽んじて無下にすることはなかった。
何者かが獣の襲撃を退けたのか、それこそ食料の調達のために狩ったのかはわからない。だとしても、その死骸をそのままにしているのはらしくはない。
「どちらにせよ、このノルダッドに君以外の何者かが潜伏している可能性がある。君の感じた視線と同じものかは現時点では定かではない」
今までに感じたことのない、深刻な表情。
「君への警護を強化するように、というのが王の意思だ」
「・・・私が、狙われているのですか?」
「・・・杞憂ならばいいがな」
そう言って、ドリューは食事を再開させた。
「首尾はどうだ」
薄暗い室内に、しわがれた声が響く。
ロッドランド大臣が、目深に腰を沈めた椅子の上から誰にともなく話しかける。
薄暗い、暗幕で陽の光さえ閉じた室内に、ほのかに灯る蝋燭だけが光源だ。
その灯火が、空気の流れでふわりと揺れる。
「ここに」
男とも、女ともわからない声。極めて凡庸な、抑揚のない声色。
「アスターシャ姫の存在を確認。無事であるようです」
ロッドランド以外の何者かの声が響く。
その報告に、ロッドランドの皺が思慮と共に深くなる。
「・・・あのトカゲ共に囲われているのが厄介だな」
街の周囲には獰猛な獣が生息していること、そして竜人族の姿をした異質な存在がいること。
それは人間味を感じられない、獣以上の醜悪さと獰猛さで。
仕留めるのは容易いが、その時は静観の構えを取った。幸いに、姿を見せなければその異形はこちらを感知できないようだった。
「やはり、蛮族共の国は危険すぎる。姫が身を置いていい場所などではない。いや、国と言うのもおこがましい」
グレートピークは神の住まう山。それが、あんな爬虫類もどきの存在であってはならない。
神聖性の欠片もない、その目を背けたくなるような異形が人間と同じ言葉を吐くのですら我慢がならないのに。
かつてのロズタリアが、そんな竜人族共の力を借りて危機から脱したというのも間違った伝承だ。
大方、奴らの自作自演。
ロズタリアを奴らが襲い、それを救うことにより、信頼と協力を得たに違いない。
そんな卑怯で穢れた連中のもとに姫を向かわせる王の気が知れない。
ロズタリアと竜人族には過去からの繋がりがある?
馬鹿らしい。
あんな愚かしい生物が、我ら人間と同じい目線、対等な存在だとは思わない。奴らが人間より優れているのは、個々の野蛮な戦闘能力だけだ。こちらの戦力が整えば、そのアドバンテージも、もはや差異はなくなる。
奴らと縁を切り、いや、むしろ奴らをこの地上から追い出す日は近い。
そして・・・。
ロッドランドの笑みが怪しく、揺れる。
ノルダッドの街がにわかにざわめきはじめていた。
街を徘徊するのは鎧を纏った竜人族の戦士だ。
その原因はもちろん、街の外に出現したという黒尽くめ。
その数、目的は不明。
その場には獣以外の血液が見受けられないことから、獣をものともしない戦闘能力を有すると見受けられる。
アスターシャの感じる何者かの視線というのは、それの存在を裏付ける決定的な要因ではない。
だが。
「あ、あの。ドリュー様」
アスターシャが困惑している理由。
それは。
アスターシャの自室の前。ドリューは大きな身体を簡素な椅子に越し掛け、腕を組んでいる。
「俺は、君の護衛を頼まれた」
まるで出会った時のようなことを言い出した。
ここはノルダッドの王宮内だし、扉を阻んでいるとは言え、近くに殿方がいる状況は落ち着かない。
それにドリューの性格上、夜通しそこに居続けるようで。
それは落ち着かないとは別の感情が支配して。
一晩中起きてまで守ってもらうことだろうか。
街は竜人族の戦士が警備を強化し、当然王宮の護りも堅固だ。
何よりその警備はアスターシャを守るためだけにいるのではない。
王の両翼を守護するのは、さらに屈強な戦士だ。その点では問題はないだろうが。
「原因が究明するまで、君の安全は俺が守る」
出会ってわかったことは、ドリューは真面目で堅物と言える性格で。それは戦士としては良いように働くのだろう。
ロズタリアの騎士のような、職務に忠実というのとはまた違う実直さ。
時にそれは曲げることをしない頑固さを覚えて。
こうなるとドリューは折れないのだろう。だから、アスターシャは戸惑いのまま自室の扉をゆっくりと閉めたのだった。
夜。
どこか遠くで聞こえる夜鳥の鳴き声でアスターシャは目を冷ます。
今の季節は日中は温暖な気候が続くが、夜間は人間には肌寒い。たまに忘れかけるが、何よりここは高山なのだ。
ベッドの上でくるまっていても、覆いきれない顔の肌を撫でる空気は、ひやりと涼やかで。
それが身体の異変を引き起こすのは必然で。
アスターシャはゆっくりとベッドから身を起こし、そっとドアに手を添え、開ける。
目を伏せるドリューが、腕を組んだまま彫像のように、アスターシャがベッドに入る前と寸分違わぬ格好のまま佇んでいる。
その僅かな振動でさえに反応し、ドリューは目を開けた。
「・・・どうした」
だが、アスターシャはその問いに素直に答える事ができない。
果たして闇の帳の中でも、自分の顔は正しく羞恥の色を発しているだろうか。
「・・・お、おトイレです」
顔から火が吹き出そうな勢い、そして消え入りそうな声でアスターシャは言う。
そう言った瞬間、何を思ったかドリューは椅子から重い腰を引き上げる。
「お供しよう」
アスターシャの顔どころか身体を覆う熱が倍増する。
「お、お、おトイレですよ!?」
「排泄が、生物が最も隙が生み、油断をする場所だ。君を狙う視線が杞憂のものではないと証明できない以上、君から警護を離すわけにはいかない」
ドリューは真面目だが、デリカシーはない。
それは生物が生物である以上、避けては通れない部分だ。だが、誰かをお供にトイレに赴くなど、幼少期以外にはあり得なかった。
だが、こうなったらドリューの意思は固く、アスターシャの言葉程度では押しのけることは出来なさそうで。
諦めて、薄暗い通路を行く。
「いいですか!目を閉じ、耳を塞ぎ、一切の音を疲労ことを禁じます!」
川で初めて入浴した時と同じ言葉で注意する。
もちろんトイレの中までは跨がせることはない。例え扉を隔てていても、そこは一線を引かなければならない。
ドリューは背を壁に預け、まるで彫像に戻ったかのように身動ぎせず、目を伏せる。そんな生真面目さが今は逆に困る、アスターシャはそう思った。
「・・・あの」
ことを全て済ませ、顔を赤くさせたままドリューに弱々しくも声を掛ける。
マリエッタですら、トイレのお供に付けていたのは記憶の遥か彼方だ。それを今なお護衛とは言え、しかもそれは殿方で。羞恥に染まらないワケがないのだ。
月明かりの差す廊下の上を、来た道を戻る。等間隔で差す、乳白色の光がアスターシャとドリューを優しく照らす。
むず痒い感覚。
いたたまれなくなり、アスターシャが何か言葉を紡ごうとした時。
廊下の床に照らされる月光が僅かに歪んだ。
それにアスターシャよりも先に反応したのはドリューで。
膨れ上がる闘気と共に、腰元の柄に手を掛ける速度は早業の如く。
それは武会で感じた戦士のそれ。
その状況にアスターシャは戸惑いを見せ、思わずドリューを見上げる。
「下がっていろ」
そう低くつぶやき、足音も立てずに廊下を滑り、おもむろに扉に手を掛け、外に出る。
中庭も同様に月の光の恩恵を受け、生え育つ植物昼間とは違う神秘的な佇まいを見せていて。
「ドリュー様?」
「何者かの気配を感じた。君の感覚は正しいのかもな」
冷たい風の吹く中庭は、アスターシャとドリュー以外の姿は見受けられず。
視線を巡らせるドリュー。それをアスターシャも目で追う。
シュラ、とドリューが腰の剣を抜く。照らす月光に、刃が鈍く光る。
アスターシャに緊張が走る。少なくとも、こんな深夜に感じる視線ではないのと、明らかな敵意。
身の竦むような感覚は、この街の中では感じたこともない。
静寂が辺りを支配する。
どのくらい身を固まらせていただろうか。
アスターシャが吹く風になびく髪を手で抑え。
「・・・誰も、いない?気の所為」
そこまで言った瞬間。
アスターシャの眼の前で火花が弾け、自分の身体が押し出されるのを感じる。
ドリューが剣を抜き、空いている手でアスターシャを突き飛ばしたのだ。
柔らかい草の絨毯に、思わず身体を倒れ込ませる。夜露の冷たさが身体を伝う。
何が、とアスターシャが視線を上げると、そこには刃を交えるふたつの影が映し出されていた。
片方は言うまでも無くドリューで、もう片方は。
目の部分をくり抜いた、黒い頭巾で顔を隠した、何者か。
頭部だけでなく、全身が黒。スラリ、と月光に青白く反射する刀身を握る手首と、目の部分以外を黒で包んだ、何者か。
その侵入者を、鋭い視線でドリューが睨む。
不快な金属の擦れる音が耳に届く。
ドリューの刃が、その黒尽くめの振るう刃と噛み合い、不快な音を奏でていたのだ。
返す刃が、再度火花を生み、深夜に似合わぬ美しい赤を散らす。
少なくとも、ノルダッドの報告にあった謎の黒尽くめは存在していた。そして、刃を振りかざすこの謎の侵入者がまともな思考をしているはずもない。
アスターシャは言葉を飲んだ。
黒尽くめと何度目かの切り結んだ後、空いた手が自分の腰元に伸び、もうひとつの煌めきを神速の速さで放った。
じゃっ。
ドリューも黒尽くめの動きに反応し、反対の手で腰元の短刀を勢いよく引き抜く。
別の音階の剣撃音が中庭に響く。
「俺の後ろを離れるな」
あくまで冷静に、ドリューは言う。
その言葉に目だけで反応したのは黒尽くめの方だった。
刹那の剣の乱舞。斬撃の応酬。
表情を変えず、ドリューの二刀と黒い二刀が夜風に流れる。
・・・助けを呼んだほうが良いのではないのか。
グエル。他の戦士。誰かに助けを求めたほうが良いのではないのか。
震える足で立ち上がる。
この黒尽くめは、獣や規格外とは明らかに違う。
確実に殺意を宿し、剣を抜いた。
アスターシャのその動きを感知し、ドリューの視線が逸れた。
瞬間。
「ぐうっ!」
ドリューの苦悶が漏れ、闇夜に色が溶けてはいるものの、確実にそれは飛沫となって、宙に舞った。
「ドリュー様!?」
ドリューの体表の鱗が直線で引かれ、それでもとどまらず、黒尽くめの二撃目が空気を音もなく裂く。
間合いをとろうとするドリューの動きよりも、明らかに早い。
黒頭巾の中の目が抑揚無く、ただ機械的に襲いかかる。その軌道は確実にドリューの首元へと。
ドリューは歯を食いしばり。
黒尽くめの思惑は届かず。
静かな夜空に咲く、爆光。
思わず黒尽くめは全身を手で庇い、間合いを取る。
にわかに周囲がざわめき始める。
一瞬の逡巡と戸惑いを見せたのは黒尽くめで。
「・・・ち」
と小さく放った舌打ちが聞こえ、黒尽くめは跳躍すると、木々の枝を足場にして、中庭から消えた。
別の竜人族叫び声が聞こえ、薄闇で包まれる王宮に火が灯り始める。
「敵襲か!?」
騎士の竜人族が中庭になだれ込む。
煙を吹き出すドリューの身体は、夜風の所為か、既に紅さを引かせていて。
黒尽くめの刃がドリューの首元を跳ねる瞬間、灼甲を発動させ、難を逃れた。
傍らには熱により捻り切れ、変形した刃の破片が地面に横たわる。
「大丈夫ですか!?ドリュー様!」
ドリューほどの手練れが、一太刀を受けた。
ドリューは傷口から滴る血を、気にすることなく。去っていった賊の方へと鋭利な視線を向けている。
胸元に負った、鎧ごと切り裂かれたドリューの傷跡。それを抑えようと、アスターシャは手を添える。
手のひらから滴る、体温以外の熱。それは瞬間的に膨れ上がった灼甲による熱の残滓だけではないだろう。
自分のせいだ。ドリューの言うことに反して迂闊な動きを見せたから。
冷静になった今ならわかる。結果、単独だったようだが、あの時点では黒尽くめがひとりとは限らなかったから、ドリューは後ろから離れるなと言ったのだ。
つくづく自分が嫌になる。
ドリューはどんな状況でも冷静さを欠くことがなく、アスターシャを守ることに忠実で。
アスターシャの手に残ったドリューから滴る鮮血が、嫌な自己嫌悪だけを残して。




