凡人、驚く
男がクロエの腕を掴んだ瞬間、乾いた破裂音が響いた。
「ぎゃああああああ!」
男の右手首から先が文字通り弾け飛んでいた。血しぶきが飛び散り、アスファルトに赤い染みを作る。男は膝をついて、残った手首の断面を押さえながら絶叫を続けた。
「な、何だよこれ!」
「おい、手が!手がないぞ!」
残りの二人は血の気を失い、慌てて後ずさりした。一人は腰を抜かして尻もちをつき、もう一人は恐怖で震えながらクロエを見つめていた。
クロエの表情が一変していた。先ほどまでの困惑した顔は消え失せ、氷のように冷たい瞳が男たちを見下ろしている。その視線には人間を虫けらのように扱う残忍さがあった。唇の端がわずかに上がり、薄い笑みを浮かべている。
「触れてはならないものに、よくも手を伸ばしたものね」
クロエの声は低く、威圧的だった。空気が重苦しくなり、周囲の温度が下がったかのような感覚が漂う。
「化け物だ!化け物だ!」
一人の男が叫びながら立ち上がろうとしたが、足がもつれて再び転倒した。
「クロエ!」
仁成が走ってきた。息を切らしながらクロエの前に立ち、彼女の肩に手を置く。
「大丈夫か?怪我は」
クロエはハッと我に返った。冷酷だった表情が嘘のように消え、いつもの穏やかで人懐っこい顔に戻る。
「仁成...」
「何があったんだ?」仁成は血まみれの男を見て、状況を把握しようとした。
「この人たちが私に絡んできて、それで」クロエは困ったような表情を見せた。「つい、反射的に」
地面で泣き叫んでいる男の声が周囲に響き続けている。このままでは通報されてしまう。
「ちょっと待ってて」
クロエは男の前にしゃがみ込んだ。そして、まるで子供を叱るかのように軽くコツンと男の頭を叩いた。
瞬間、切断されていた手首が元通りになった。まるで最初から何も起きていなかったかのように、男の右手は完璧に復元されていた。血痕すらも消えている。
「え?」男は自分の手を見つめて混乱した。「俺の手...あれ?」
クロエは立ち上がり、今度は指をパチンと鳴らした。
すると三人の男たちの表情がぼんやりとした。まるで夢から覚めたかのような顔をして、辺りを見回している。
「えーっと、俺たち何してたっけ?」
「さあ?なんかここに立ってた気がするけど」
「もう帰ろうぜ、なんか疲れた」
三人は首をかしげながら、その場を立ち去っていった。まるで過去数分間の記憶が完全に消去されたかのように、何の関心も示さずに歩いて行く。
仁成は唖然として一部始終を見ていた。男の手首が爆発し、復元され、記憶が消去される。これが魔族の力なのか。
「すごい力だな」仁成はつぶやいた。
「ごめんなさい」クロエは申し訳なさそうに言った。「つい魔力を使ってしまって。でも、あの人たちが私に触ろうとしたから、反射的に」
「いや、君は悪くない。でも...」仁成は振り返って男たちが去っていく方向を見た。「あんなに簡単に記憶を操作できるのか?」
「基本的な魔術よ。人間の記憶は魔族にとってはとても脆いの」クロエは買い物袋を拾い上げた。「でも普段は使わないようにしてる。倫理的に問題があるから」
「倫理的に、か」仁成は複雑な表情を見せた。
「人間の自由意志を尊重したいの。記憶操作や洗脳は、やろうと思えば簡単だけど、それは相手の人格を否定することになる」
仁成は改めてクロエを見つめた。彼女は魔族の王族であり、人間にとって理解の及ばない力を持っている。先ほど見せた冷酷な表情は、おそらく彼女の本来の一面なのだろう。だが、同時に人間的な倫理観も持ち合わせている。
「君は複雑な存在だな」仁成は苦笑いを浮かべた。
「私だって、自分がよくわからないの」クロエは歩きながら言った。「魔族として生まれ育ったけど、人間界で過ごすうちに、いろんなことを考えるようになった」
「例えば?」
「力を持つ者の責任について、とか。私たち魔族は人間より圧倒的に強い。でも、だからといって好き勝手にしてもいいわけじゃない」
二人は家に向かって歩いた。夕暮れの空が薄いオレンジ色に染まっている。
「でも、今回は君を守るために使ったんだろう?」仁成が尋ねた。
「そうね。でも、あの瞬間は守るというより...」クロエは言葉を選んだ。「怒りの方が強かった。私に触れようとした人間が許せなかった」
「それが君の本性なのか?」
クロエは立ち止まった。
「わからない。魔族として育てられた私の本能なのか、それとも個人的な感情なのか」彼女は自分の手のひらを見つめた。「でも、あの瞬間は確実に殺意を抱いていた」
仁成も立ち止まった。クロエの正直さに驚いている。
「正直に言ってくれてありがとう」
「隠しても意味がないでしょう?これから一緒に暮らすんだから、私のことを知ってもらわないと」
「そうだな。でも俺も、君のそういう率直なところは好きだよ」
クロエはほっとしたような表情を見せた。
「本当?怖くない?」
「怖くないと言えば嘘になる」仁成は率直に答えた。「でも、君がその力を悪用しようとしていないことはわかる。それに、俺を守ろうとしてくれているのも伝わってくる」
「ありがとう、仁成」
二人が歩き始めた時、遠くのマンションの屋上から、二人を覗く人影があった。
日向陽菜は屋上の柵にもたれかかり、仁成とクロエの姿を見守っていた。先ほどの一部始終を目撃している。男の手首が爆発し、復元され、記憶が操作される様子をすべて見ていた。
「やっぱりね。あの子、只者じゃないと思ってた」
彼女は携帯電話を取り出し、番号を選んだ。
「私、日向です。報告があります」電話の向こうから低い男の声が聞こえる。「ターゲットの能力を確認しました。予想以上です」
電話の相手が何かを言った。
「はい、記憶操作と物質再生を確認しました。レベルはSクラス以上と推定されます」日向は冷静に報告した。「並野仁成との関係も良好のようです。計画通り接区を続けます」
再び相手が話した。
「了解しました。次回の接触は三日後を予定しています。それまでに詳細な行動パターンを把握します」
日向は電話を切った。そして再び彼女の視線は、遠ざかっていく二人の姿を追った。
「ごめんね、並野さん」彼女は小さくつぶやいた。「でも、これも仕事だから」
夕日が日向の顔を照らしている。先ほどまでの人懐っこい笑顔は消え、冷徹で計算高い表情を浮かべていた。
一方、家に到着した仁成とクロエは、今日買った商品を整理していた。
「疲れたな」仁成はソファに座って伸びをした。
「お疲れさま。今日はありがとう」クロエは新しい下着や日用品をちゃんとタンスにしまっている。
「日向さんに会えて良かったな。彼女のおかげで買い物がスムーズに進んだ」
「そうね、親切な人だった」クロエは答えたが、どこか引っかかるものを感じていた。
「どうした?何か気になることでも?」
「いえ...」クロエは首を振った。「なんでもないわ」
しかし、実際のところ、クロエは日向と握手した時に違和感を感じていた。人間とは異なる何かを感じ取ったのだ。でも、それが何なのかはっきりしない。もしかすると、考えすぎかもしれない。
「夕食の準備をしましょうか」クロエは話題を変えた。
「そうだね。今日は簡単なものでいいかな」
「カレーはどうかしら?人間の代表的な料理の一つでしょう?」
「いいね、作り方知ってるのか?」
「今朝、料理本で勉強したの」クロエは誇らしげに言った。
二人はキッチンに向かった。仁成は今日の出来事を振り返りながら、これからの生活について考えていた。クロエの正体を知ってしまった以上、もう元の平凡な生活には戻れない。
でも、悪い気はしていなかった。むしろ、生活に刺激が加わって面白くなっている。問題は、彼女を狙っている他の魔族たちと、今日見せた彼女の危険な一面だ。
クロエが玉ねぎを切りながら涙を流している姿を見て、仁成は微笑んだ。魔族の王族でも、玉ねぎの刺激には勝てないらしい。
「目が痛い」クロエが涙を拭いながら言った。
「慣れるよ、大丈夫」
「人間の料理って大変ね」
「でも美味しくできた時の満足感は格別だよ」
そんな他愛もない会話をしながら、夕食の準備を進めた。外では日が完全に暮れ、街の灯りが窓から見えている。
平凡で穏やかな時間が流れているが、二人はまだ知らない。日向陽菜という存在が、これからの生活に大きな影響を与えることになるということを。
そして、クロエを狙っている魔族たちが、再び動き始めているということも。