凡人、使い魔になる
目が覚めると、頭の中に鈍い痛みが残っていた。昨夜はリビングでそのまま寝てしまっていたらしい。
並野仁成はしばらくぼんやりと天井を見つめていた。昨夜の記憶が断片的に蘇ってくる。缶チューハイを三本も空けたせいで、現実と夢の境界が曖昧になっている。
猫が喋った。魔界の王族だと名乗った。契約を結んだ。
「馬鹿げてる」
仁成は寝返りを打とうとして、違和感に気づいた。手の甲がちりちりと痛む。見下ろすと、そこには見覚えのない紋章が刻まれていた。
直径三センチほどの円の中に、複雑な幾何学模様が浮かび上がっている。黒い線で描かれているが、よく見ると微かに金色に光っているようにも見える。触れてみると、皮膚の下に埋め込まれたように感じられ、まるで生きているかのように脈動していた。
「これは、夢じゃ、、ない?」
仁成は起き上がった。昨夜の会話が鮮明に思い出される。クロが語った魔界での権力闘争、父である先代魔王リヴァイアスの死、そして反乱軍からの追手。一般人に紛れて魔族が生活しているという衝撃的な事実。そして自分が結んだ契約の内容。
『私と契約を結んで、魔界の争いに関わるか。それとも普通の人間として生きるか』
あの時、仁成は何と答えたのだろうか。記憶が曖昧だったが、手の甲の紋章が全てを物語っていた。自分は契約を受け入れたのだ。
ふと、リビングを見渡すがクロの姿がない。昨夜まで使っていた猫用の食器も空のままだった。
「クロ?」
返事はない。仁成は部屋中を探したが、黒猫の姿はどこにもなかった。
「まさか、夢だったのか?」
だが、手の甲の紋章は確実に存在している。仁成は混乱していた。契約を結んだはずの相手がいなくなっている。これはどういうことなのか。
すると、寝室のドアが少しだけ開いているのに気づいた。昨夜はリビングで寝てしまったのだから確実に閉まっていたはずなのに。仁成は恐る恐る近づいて、隙間から中を覗いた。
ベッドの上に、見知らぬ少女が横たわっていた。
「え?」
仁成は息を呑んだ。黒い髪がシーツの上に広がり、白いワンピースのような服を着た少女がすやすやと眠っている。年齢は十五、六歳といったところだろうか。整った顔立ちで、安らかな寝息を立てている。
「誰だよ、この子は!」
仁成は思わず大声を出してしまった。一人暮らしの部屋に、見ず知らずの少女がいる。これは完全に犯罪者扱いされるパターンだ。
少女がゆっくりと目を開いた。黄色い瞳が仁成を見つめる。その瞬間、仁成の中で何かが繋がった。
「その目、まさか」
「おはよう、仁成」少女は眠そうに目をこすりながら起き上がった。「うるさいわよ、朝から」
声は昨夜聞いた、あの端正な語調だった。仁成は後ろに下がった。
「君は、もしかして」
「私よ、クロよ」少女はあくびをした。「契約を結んだでしょう?それで人間の姿になれるようになったの」
仁成は壁に背中をつけた。頭が追いつかない。
「ちょっと待て。昨日は猫だった。今度は人間?何がどうなってるんだ?」
「説明が必要ね」クロは立ち上がった。身長は一五〇センチほどで、華奢な体型だった。「魔族は元々、複数の形態を持ってるの。でも魔力が弱っている時は、一番消費の少ない動物の姿になるしかないのよ」
「魔力?」
「あなたと契約を結んだことで、私の魔力が回復したの。だから人間の姿を保てるようになった」
クロは仁成の前に歩いてきた。
「でも、これでもまだ本来の力の三分の一程度ね。完全に回復するまでには時間がかかる」
仁成は手の甲の紋章を見下ろした。
「この紋章が契約の証?」
「そうよ。あなたは私の使い魔になったの」
「使い魔?」仁成は眉をひそめた。「俺がペット扱いされるのか?」
「逆よ」クロは首を振った。「私があなたの力になる。あなたが私を守る代わりに、私があなたに魔力を分け与える。対等な関係よ」
「魔力って、何ができるんだ?」
「基本的な戦闘能力の向上。身体能力が人間の標準の三倍になる。それと、魔族や魔術を見抜く能力」
クロは手のひらを向けた。そこに小さな炎が浮かび上がる。
「私はもちろん、もっと強力な魔術が使える。でも今は控えめにしておくわ。人間界で目立ちたくないから」
炎は一瞬で消えた。仁成は口を開けたまま、その光景を見つめていた。
「本当に魔法が使えるのか」
「魔術よ」クロは訂正した。「魔法は人間が使うもの。魔術は魔族の力」
「区別があるのか」
「当然よ。魔法は地球上の自然エネルギーを借りるもの。魔術は魔界から直接力を引き出すの。威力も精度も段違い」
仁成は椅子に座り込んだ。情報が多すぎて頭が混乱している。
「ちょっと待ってくれ。整理させて」
「どうぞ」
「君は魔界の王族で、父親は魔王だった。でも跡継ぎ争いで命を狙われて、人間界に逃げてきた」
「正確ね」
「それで俺と契約を結んで、俺が君を守る代わりに、俺に魔力をくれる」
「そういうこと」
「で、大臣側の反乱軍の刺客が君を追ってきてるから、俺たちは戦わなければならない」
クロは頷いた。
「でも俺はほんの1週間前まで普通のサラリーマンだったんだぞ?戦闘経験なんてない」
「大丈夫よ」クロは自信満々に言った。「私が訓練してあげる。それに、魔力があれば普通の人間より遥かに強くなるわ」
仁成は手の甲の紋章を見つめた。確かにちりちりとした感覚がある。エネルギーが流れているような感じだ。
「試してみる?」クロが提案した。
「何を?」
「魔力を使ってみるのよ。簡単なものから」
クロは仁成の手を取った。紋章に触れた瞬間、電気が走ったような感覚があった。
「力を意識して。あなたの体の中に流れるエネルギーを感じて」
仁成は目を閉じた。最初は何も感じられなかったが、だんだんと体の奥から温かいものが湧き上がってくるのを感じた。
「これが魔力?」
「そうよ。今度はそれを右手に集中させて」
仁成は意識を右手に向けた。すると、手のひらがほんのりと光り始めた。
「すげぇ」
「まだまだよ。これは魔力を可視化させただけ。実用的な技術を覚えるには時間がかかる」
クロは仁成の手を離した。光は徐々に消えていく。
「でも、あなたは素質があるわ。普通の人間なら、最初は魔力を感じることすらできないもの」
「俺に素質?」
「そうよ。だから私があなたを選んだの」
仁成は複雑な気分だった。今まで何をやっても平凡だった自分に、魔術の素質があるなんて。
「でも、危険なんだろう?反乱軍の刺客って」
クロの表情が急に真剣になった。
「ええ。彼らは私を殺そうとしてる。そして私と契約した人間も、当然標的になる」
「俺も狙われるのか」
「残念だけど、そうなるわね。でも心配しないで。私が絶対にあなたを守る」
クロの黄色い瞳に強い意志が宿っていた。
「それに、あなたも強くなる。魔力があれば、普通の刺客程度なら相手にならないわよ」
仁成は立ち上がった。窓の外を見ると、いつもと変わらない住宅街の風景が広がっている。でも今は、その平凡な景色の中に魔族が潜んでいるかもしれないと思うと、全てが違って見えた。
「一つ聞かせてくれ」
「何?」
「なんで俺なんだ?他にももっと適任者がいたんじゃないか?」
クロは少し考えてから答えた。
「あなたがカラスから私を助けてくれた時、私は確信したの。この人は信頼できるって」
「それだけ?」
「それだけじゃないわ。あなたには優しさがある。でも同時に、必要な時は行動できる勇気もある。そして何より」
クロは仁成を見つめた。
「あなただって、今の人生に満足してないでしょう?」
仁成は言葉に詰まった。クロの指摘は図星だった。
「会社をクビになって、これからどうしようかって悩んでたんじゃない?」
「どうして知ってるんだ?」
「あなたが私を拾った夜、すごく落ち込んでたもの。普通の人なら野良猫なんて気にしないで通り過ぎるわよ。でもあなたは助けてくれた。それは、あなた自身も助けを必要としてたからじゃない?」
仁成は黙り込んだ。クロの分析は的確すぎて反論できない。
「私たちは似てるのよ」クロは続けた。「どちらも居場所を失って、一人ぼっちになった。だから惹かれ合ったの」
「居場所を失った、か」
「でも今は違う。私たちには互いがいる」
クロは仁成の前に立った。
「私はあなたを信じてる。だからあなたも私を信じて」
仁成は手の甲の紋章を見つめた。昨夜の決断を後悔しているわけではない。ただ、これから始まる新しい人生に対する不安があった。
「訓練はきつい?」
「覚悟しておいた方がいいわね」クロは苦笑いした。「でも必ずあなたを強くしてみせる。約束する」
仁成は大きく息を吐いた。
「わかった。やってみる」
「本当に?」
「ああ。どうせ失うものなんてない。それに、君一人を危険な目に合わせるわけにはいかないし」
クロの顔が明るくなった。
「ありがとう、仁成。必ず後悔させないから」
「ところで」仁成は思い出したように言った。「その服、どうしたんだ?俺の家に女性の服なんてないぞ」
クロは自分の白いワンピースを見下ろした。
「魔術で出したのよ。こちらの世界に来てからは魔力を温存するために殆ど猫の姿になってたから久しぶりね。でも長時間は維持できないから、後で買い物に行きましょう」
「買い物?」
「私、人間界の服に興味があるの。可愛いのがたくさんあるでしょう?」
クロは目を輝かせた。その表情は完全に年頃の少女のものだった。
「魔界にはそういうのがないのか?」
「実用性重視だから、あまりお洒落じゃないのよ。人間界の方がずっとセンスがいいわ」
仁成は苦笑いした。魔王の娘でも、やはり女の子は女の子なのか。
「でもその前に、朝食を作ろう」
「あら、あなたお料理できるの?」
「一人暮らし長いからな。基本的なものなら」
仁成は台所に向かった。冷蔵庫の中身を確認すると、卵と食パン、それにベーコンがある。
「オムレツでいいか?」
「オムレツ?」クロが興味深そうに尋ねた。
「卵料理の一種だ。魔界にはないのか?」
「ないわね。どんな味?」
「食べてみればわかる」
仁成は手際よく卵を割り、フライパンで調理を始めた。クロは好奇心旺盛に料理の過程を見つめている。
「人間は毎日こうやって食事を作るの?」
「当たり前だろう。魔界では違うのか?」
「魔力で栄養を補給するから、食事は楽しみでするものなの。でも人間の料理は美味しいって聞いたことがある」
オムレツが完成すると、仁成は皿に盛りつけた。トーストとベーコン、それにコーヒーも用意する。
「さあ、どうぞ」
クロは恐る恐るフォークでオムレツを切った。一口食べると、目を丸くした。
「美味しい!」
「そんなに驚くことじゃないだろう」
「でも本当に美味しいのよ。魔界の食事とは全然違う」
クロは夢中になってオムレツを食べている。その様子を見ていると、仁成の心も温かくなった。
「今日から、よろしくお願いします」
クロは食事を一旦止めて、仁成に頭を下げた。
「こちらこそ」仁成も答えた。
窓の外では朝日が昇り始めていた。平凡だった並野仁成の人生は、確実に新しい章に入ったのだ。魔界の王族と契約を結び、これから未知の戦いに身を投じることになる。
不安もあるが、同時に期待もあった。今まで経験したことのない冒険が始まろうとしている。
「そうそう」クロが思い出したように言った。「今日はまず、この街にいる魔族の調査をしましょう」
「この街にも魔族がいるのか?」
「間違いなくいるわ。反乱軍の手先も含めて。でも心配しないで、すぐには襲ってこないはず」
「なんで?」
「まだ私の居場所を特定できてないから。でも時間の問題よ。早めに準備を整えないと」
仁成は手の甲の紋章を見つめた。これから始まる新しい人生に、覚悟を決めた。