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凡人、


総合調査研究所の地下2階、訓練施設の一角で汗を拭う仁成の顔には、昨日とは明らかに異なる充実感が浮かんでいた。身体強化魔法の持続時間が初日の五分から今日は八分まで延びており、魔力の制御も安定してきている。


「今日の調子はどうですか?」クロエが水の入ったボトルを差し出しながら尋ねた。


「だいぶ慣れてきました」仁成は感謝を込めて受け取った。「最初は魔力の流れを意識するのが大変でしたが、今はもう自然に」


「それは素晴らしい進歩ですね」クロエが微笑んだ。「あなたの集中力と努力の賜物です」


二人がそう話していると、訓練エリアの入り口から足音が聞こえてきた。振り返ると、リディアが普段よりもかなり深刻な表情で近づいてくるのが見えた。その歩調にも、いつもの落ち着いた余裕が感じられない。


「リディアさん」仁成が挨拶した。「お疲れ様です」


「お二人とも、お疲れ様でした」リディアは形式的に応えたが、その声には明らかな緊張が含まれていた。「少々重要なお話があります。お時間をいただけますでしょうか」


クロエは瞬時にリディアの表情から異変を察知した。「何か問題が起きたのですか?」


「はい」リディアは率直に答えた。「魔族評議会から正式な連絡が入りました」


三人は訓練エリアの隅にある休憩スペースに移動した。防音設備の整った個室で、他の職員たちに聞かれる心配はない。


リディアは腰を下ろすと、すぐに本題に入った。「先ほど魔界から緊急の魔法通信が届きました。クロエ、あなたと仁成さんに対して、魔族評議会から正式な招待状が発出されることになりました」


「招待状?」仁成が困惑した。「僕たちを魔界に?」


「はい」リディアは頷いた。「クロエの王位継承者としての地位確認と、仁成さんのS級紋章に関する専門的な指導を目的とした、公式訪問の招待です」


クロエの表情が曇った。「私は王位なんて望んでいません。それはリディアさんもご存知のはずです」


「もちろん承知しております」リディアは苦い表情を浮かべた。「しかし、問題はそう単純ではありません」


「どういうことですか?」仁成が身を乗り出した。


リディアは深くため息をついた。「実は、この招待状の発出を主導したのは、バルザック派なのです」


「バルザック派が?」クロエが驚いた。「彼らは私を敵視していたはずではありませんか?」


「それが最も不可解な点です」リディアは頭を振った。「バルザック派の代表ヴォルガ・ブラッドソーンは、評議会でクロエの魔王即位を公然と支持すると発言しました」


仁成は政治的な複雑さについていけずにいた。「それは良いことではないのですか?敵対していた相手が味方になったということでしょう?」


「いえ、むしろ非常に危険な状況です」リディアは強く否定した。「バルザック派が突然方針を変えるということは、必ず裏に何らかの企みがあります」


「どのような企みでしょうか?」クロエが不安そうに尋ねた。


「現時点では確証はありませんが」リディアは慎重に言葉を選んだ。「クロエを利用して、より大きな政治的目的を達成しようとしている可能性が高いです」


仁成の左手の紋章が微かに温かくなった。魔界に関連する話題になると、どうしても反応してしまうようだ。


「さらに問題なのは」リディアが続けた。「従来は中立派だった多くの種族長たちまでもが、バルザック派の提案に同調したことです」


「なぜそんなことが起きるのでしょうか?」クロエが困惑した。


「推測ですが、バルザック派が何らかの政治的取引や圧力をかけた可能性があります」リディアは分析した。「一夜にして政治的勢力図がここまで変わるのは、自然な現象ではありません」


仁成は不安になった。「それでも、僕たちは招待に応じなければならないのですか?」


「法的には拒否することも可能です」リディアは答えた。「しかし、正式な評議会決定を無視すれば、クロエが魔界の政治から完全に排除される可能性があります」


「それは構いません」クロエは即答した。「私は最初から政治には関わりたくなかったのですから」


「問題は、バルザック派がそれを許さないかもしれないということです」リディアの声が重くなった。「彼らがクロエを必要としている以上、様々な圧力をかけてくる可能性があります」


仁成は内心で震え上がった。政治的な陰謀に巻き込まれる恐怖もあったが、それ以上にクロエを危険に晒すかもしれない状況に対する罪悪感があった。


「僕のせいですね」仁成は小さく呟いた。「S級紋章なんて持っていなければ」


「そんなことはありません」クロエが強く否定した。「あなたの紋章は私たちにとって大切な力です」


「クロエの言う通りです」リディアも同意した。「S級紋章は確かに政治的な注目を集めますが、同時に大きな可能性も秘めています」


その時、リディアの携帯電話が鳴った。着信画面を確認すると、田中麗子からの電話だった。


「失礼します、この電話は重要です」リディアは立ち上がって通話を始めた。「田中大臣、お疲れ様です」


「お疲れ様、リディアさん」田中の声がスピーカーを通して聞こえた。「緊急でお話したいことがあります」


「こちらも同じです」リディアは答えた。「魔族評議会の件でご相談があります」


「それは奇遇ですね」田中が軽く笑った。「私の方も評議会関連の情報があります」


リディアは仁成とクロエを見た。二人は頷いて、通話に集中することを示した。


「まず、こちらからお伝えします」リディアが口火を切った。「バルザック派がクロエの魔王即位を支持するという、予想外の展開がありました」


「それは興味深いですね」田中の声に驚きの色が滲んだ。「従来の彼らの方針とは正反対です」


「はい、それで非常に困惑しております」リディアは率直に述べた。「彼らの真の意図が全く読めません」


田中は少し間を置いてから答えた。「実は、私も不可解な情報を得ております。バルザック卿の周辺で、ある人物の存在が囁かれているのです」


「ある人物?」リディアが身を乗り出した。


「詳細は電話では申し上げにくいのですが」田中が慎重に言った。「前魔王に関連する、極めて機密性の高い人物です」


クロエは父である前魔王に関する情報に反応した。「父に関連する人物とは、どのような方でしょうか?」


「あなたがクロエ様ですね」田中は丁寧に挨拶した。「初めてお話しします。詳しくは直接お会いしてお話しする方が良いでしょう」


「お忙しい中、ありがとうございます」クロエが感謝を示した。


「いえいえ」田中は答えた。「むしろ、私にとっても重要な情報交換の機会です」


リディアが具体的な提案をした。「それでは、近日中にお会いして詳細をお聞かせいただけませんでしょうか?」


「もちろんです」田中は即答した。「ただし、場所は慎重に選ぶ必要があります。この件は極めてデリケートですから」


「承知いたしました。安全な場所を手配いたします」


「ありがとうございます。それで」田中の声がより真剣になった。「バルザック派の動向について、もう少し詳しく教えていただけますか?」


リディアは評議会での出来事を簡潔に説明した。ヴォルガの突然の方針転換、多数の種族長たちの同調、そして圧倒的多数でのクロエ招待決定について。


「実に巧妙ですね」田中は分析的に呟いた。「表向きは理想的な政治統一に見せかけて、裏では別の目的があるということでしょう」


「その通りです」リディアは同意した。「しかし、その真の目的が何なのかが分からないのです」


「私が得た情報では」田中が重要な手がかりを示した。「バルザック卿は何らかの『切り札』を持っているようです」


「切り札?」仁成が反応した。


「具体的な内容は不明ですが」田中が続けた。「彼は最終的な勝利を確信している様子です。それは単なる政治的駆け引きを超えた、根本的に状況を変える何かである可能性があります」


クロエは不安になった。「それが私たちを魔界に呼び寄せることと関係があるのでしょうか?」


「十分に関係がある可能性があります」田中が警告した。「クロエ様を魔界に招くことで、バルザック卿の計画の重要な段階が始まるのかもしれません」


リディアは深刻な表情で考え込んだ。「それでは、招待を断る方が得策でしょうか?」


「それも一つの選択肢です」田中が答えた。「しかし、逃げ続けることで根本的な解決になるかは疑問です」


「どういう意味でしょうか?」


「バルザック卿の影響力は既に魔界全体に及んでいます」田中が説明した。「今回の評議会決定でも明らかなように、彼に対抗できる政治勢力は限られています」


「確かにその通りです」リディアは認めざるを得なかった。


「であれば」田中の声に決意が滲んだ。「むしろ積極的に情報収集を行い、彼の計画を暴露する方が効果的かもしれません」


仁成は勇気を出して発言した。「僕たちが魔界に行って、直接調査するということですか?」


「危険ですが」田中が率直に答えた。「最も確実な方法でもあります」


クロエは恐怖と決意の間で揺れ動いていた。「でも、もし罠だったら」


「確かにリスクは大きいです」リディアが冷静に分析した。「しかし、情報がない限り、効果的な対策も立てられません」


「私も可能な限り協力します」田中が力強く宣言した。「魔界の政治的混乱は、人間界にも深刻な影響を与えかねませんから」


リディアは重要な確認をした。「田中大臣、先ほどおっしゃった『前魔王に関連する人物』について、もう少しヒントをいただけませんでしょうか?」


田中は長い沈黙の後、慎重に答えた。「名前は『ダミアン』と聞いています」


クロエが息を呑んだ。「ダミアン?」


「はい。しかし、この人物の存在は極めて機密扱いになっているようです」田中が説明した。「表向きには、魔族評議会でも秘匿事項とされています」


「秘匿事項?」リディアが眉をひそめた。「なぜ評議会がそのような人物の存在を隠すのでしょうか?」


「推測ですが」田中が慎重に言った。「この人物がバルザック卿の『切り札』そのものである可能性があります」


仁成は混乱した。「どういうことでしょうか?」


「もしもダミアンという人物が魔王の血筋を持つとすれば」田中が説明した。「クロエ様にとって政治的な競争相手になる可能性があります」


「競争相手?」クロエが震え声で言った。


「王位継承権を巡る争いです」リディアが深刻な顔で解釈した。「もしもそうであれば、バルザック派がクロエを支持するのは、実は罠である可能性が高くなります」


田中が確認した。「クロエ様は、ダミアンという名前にお心当たりがありますか?」


クロエは首を振った。「全くありません。父からそのような人物の話を聞いたことも」


「お父様が意図的に隠していた可能性もあります」田中が指摘した。「王族の複雑な事情というものは、しばしば秘密に包まれますから」


リディアは戦略的に考えを巡らせた。「それでは、魔界訪問の真の目的は、クロエをダミアンと対面させることかもしれませんね」


「その可能性は高いです」田中が同意した。「政治的な正統性を巡る公開討論、あるいは何らかの儀式的な競争が用意されているかもしれません」


仁成は不安になった。「それは危険ではないですか?」


「極めて危険です」田中が率直に答えた。「しかし、逃げ続けることで状況が改善するとは思えません」


クロエは深く考え込んだ。父リヴァイアスには確かに多くの秘密があった。王として、そして個人として、彼女に明かしていない事実が山ほどあったはずだ。ダミアンという人物の存在も、その一つなのかもしれない。


「仁成」クロエが彼を見つめた。「あなたはどう思いますか?」


仁成は一瞬戸惑ったが、素直に答えた。「正直に言えば、とても怖いです。でも、君が決めたことなら、僕は一緒に行きます」


「ありがとう」クロエは微笑んだ。「あなたがいてくれるなら、頑張れます」


リディアは二人の絆の強さを感じ取った。「それでは、魔界訪問を前提として準備を進めるということでよろしいでしょうか?」


「はい」クロエが頷いた。「ただし、十分な準備と安全対策をお願いします」


「もちろんです」リディアは約束した。


田中が実用的な提案をした。「それでは、明日の夕方にでも直接お会いしましょう。より詳細な情報を共有し、具体的な戦略を検討する必要があります」


「ありがとうございます」リディアが感謝を示した。「場所と時間の詳細は、後ほど連絡いたします」


「承知いたしました。それでは、失礼します」


電話が切れると、三人の間に重い沈黙が落ちた。魔界への招待という表向きは名誉ある提案が、実際にはバルザック派の巧妙な罠である可能性が高まっていた。


「リディアさん」仁成が口を開いた。「僕の訓練は、どの程度まで進めるべきでしょうか?」


「できる限り集中的に行いましょう」リディアは答えた。「特に防御魔法と戦闘時の連携について重点的に訓練します」


「戦闘?」クロエが不安になった。


「最悪の事態に備える必要があります」リディアは現実的に説明した。「魔界での政治的駆け引きは、時として物理的な戦闘に発展することがあります」


仁成は左手の紋章を見つめた。まだまだ未熟な自分が、本当にクロエを守れるのだろうか。その不安が紋章を通じて微かな振動となって現れた。


「大丈夫です」クロエが彼の手を握った。「私たちは一緒です。一人で戦う必要はありません」


「そうです」リディアも励ました。「チームで行動すれば、個々の弱点は補い合えます」


リディアは腕時計を確認した。「今日の訓練はここまでにして、明日から本格的な戦闘準備に入りましょう」


「分かりました」仁成は決意を固めた。


更衣室で着替えながら、仁成は明日田中大臣から聞くであろう新たな情報について考えていた。ダミアンという謎の人物、バルザック派の切り札、そして魔界で待ち受けている未知の危険。


どれも彼の想像を超える複雑さだったが、クロエと一緒なら乗り越えられる気がした。S級紋章の力を正しく使いこなすことができれば、きっと彼女を守ることができるはずだ。


「仁成、準備はできましたか?」更衣室の外でクロエが待っていた。


「はい」仁成は扉を開けて出てきた。


「明日からは、もっと厳しい訓練になりそうですね」クロエが心配そうに言った。


「大丈夫です」仁成は力強く答えた。「君のためなら、どんな訓練でも頑張ります」


二人は研究所の出口に向かった。夜の街は相変わらず平和で、魔界の政治的混乱など知る由もない市民たちが普通の生活を送っている。


「この平和を守るためにも」クロエが呟いた。「私たちは頑張らなければなりませんね」


「そうだね」仁成が同意した。「明日、田中大臣からどんな話を聞くことになっても、一緒に乗り越えよう」


星空の下、二人は手を繋いで歩いていった。明日からの困難な道のりを前に、彼らの絆はより一層深まっているようだった。


そして魔界では、バルザックが最終的な準備を進め、ダミアンが自分の運命について深く思索を巡らせていた。三界を巻き込む大きな政治的変動の序章が、ついに始まろうとしていた。

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