凡人、
魔界の中央部、三つの山脈に囲まれた盆地に聳え立つ魔族評議会本部は、まさに魔界の政治的中枢を象徴する威容ある建造物だった。黒曜石と紫水晶を組み合わせた外壁は高さ三百メートルを超え、十三本の尖塔が魔界特有の紫がかった空へと突き立っている。各尖塔には魔界十三勢力を表す紋章旗がはためき、建物全体を取り巻く古代魔法陣が金色の光を放って、近づく者の身分と魔力レベルを自動的に識別していた。
リディア・ヴァレンタインは、その荘厳な正門前で深く息を吸い込んだ。人間界での総合調査研究所所長としての控えめな装いとは打って変わって、彼女は今日、魔族評議会最高顧問としての正装に身を包んでいる。深紅の絹で織られた儀礼用ローブには銀糸で複雑な魔法文字が刺繍され、胸元の「調和する三日月」の紋章が静かな魔力の光を放っていた。
「リディア最高顧問、お帰りなさいませ」門番を務める上級魔族が恭しく頭を下げた。「緊急評議会の件でお越しでしょうか」
「はい」リディアは落ち着いた声で答えた。「議長はいらっしゃいますか?」
「ガブリエル議長は既にお待ちです」門番の表情にわずかな曇りが差した。「ただし、今回の出席状況にいくつか変化がございまして」
「どのような変化ですか?」
門番は声を低めた。「バルザック派の出席者数が通常の三倍近くに増えております。また、これまで中立派もしくは穏健派だった数名の種族長が、事前の根回しでバルザック派寄りの姿勢を示すとの情報が入っております」
リディアの眉がわずかに動いた。政治の潮目が確実に変わりつつあることを感じる。
「承知いたしました。案内していただけますか」
本部の内部は外観以上に威厳に満ちていた。高さ百メートルを超える大広間の天井には魔界建国から現在に至るまでの歴史を描いた巨大な魔法壁画が描かれ、無数の魔力灯が宮殿のような美しい光を放っている。廊下の両側には歴代評議会議長と魔王たちの肖像画が並び、その中でも前魔王リヴァイアス・ルシファーの肖像画は特に大きく、威厳ある表情で来訪者を見下ろしていた。
「リディア様」若い魔族の秘書官が足早に近づいてきた。「議長よりお伝えがございます。本日の会議は第一評議室での開催となります」
第一評議室。魔族評議会の最上階に位置する、最も格式高い会議室だった。通常の定例会議では使用されることのない、王族や重要な政治問題を扱う際の専用会議室である。
彼らは魔力で稼働するエレベーターで最上階へ向かった。上昇するにつれて、窓外に魔界の広大な景色が広がっていく。遠くには各種族の居住区域が見え、竜族の火山要塞、吸血鬼族の暗黒城、精霊族の光の庭園など、魔界の多様性がパノラマのように展開されていた。
第一評議室の扉は純粋な魔導合金製で、最高位の魔族でなければ開くことができない特殊な魔法錠が施されていた。扉が音もなく開くと、予想以上に多くの参加者が既に席に着いているのが見えた。
円形に配置された十三の席の中央には、議長席と副議長席がある。議長のガブリエル・アスモデウスは魔界でも最古参の政治家で、白い髭を蓄えた威厳ある老魔族だった。その隣の副議長セラフィナ・ベルゼブブは中年の女性魔族で、鋭い知性を感じさせる翠の瞳を持っている。
周囲には魔界十三勢力を代表する種族長たちが座っていたが、リディアが驚いたのは、従来はバルザック派に批判的だった数名の種族長が、今日は明らかに異なる表情をしていることだった。
竜族長ドラコ・ファイアブレッドは普段の豪放さを影を潜め、慎重な表情を浮かべている。鬼族長オーガ・ストームクラッシャーも、これまでの穏健派としての立場を忘れたかのような神妙な面持ちだった。
「リディア最高顧問、お疲れ様でした」ガブリエル議長が立ち上がって挨拶した。「重要な案件についてご報告をいただけるとのことで、皆で心待ちにしております」
「議長、副議長、そして種族長の皆様」リディアは丁寧に一礼した。「本日はお忙しい中、貴重なお時間をいただき誠にありがとうございます」
「早速ですが」セラフィナ副議長が口を開いた。「前魔王の御息女であるクロエ様の件について、詳しい状況をお聞かせください」
評議室に緊張が走った。クロエの存在は魔界の政治バランスを大きく左右する可能性があるからだ。
「クロエ様は現在、人間界で『クロエ・デュボア』として生活されております」リディアは用意してきた資料を参照しながら報告した。「彼女は自身の出生の秘密についてある程度理解されており、魔族としての能力も段階的に覚醒しつつあります」
「覚醒の程度はいかがでしょうか?」竜族長ドラコが質問した。
「現時点では部分的な覚醒ですが」リディアは慎重に答えた。「潜在魔力は極めて高く、前魔王の血統を色濃く受け継いでおられることに疑いの余地はありません」
この時、バルザック派の代理人として参加していたヴォルガ・ブラッドソーンが静かに立ち上がった。彼は中堅の魔族貴族で、バルザック卿の腹心として知られている。痩身に鋭い頬骨、深い紫の瞳を持つ彼は、外見こそ穏やかだが、その内に秘めた政治的野心は計り知れなかった。
「それは実に素晴らしいお話ですね」ヴォルガは満面の笑みを浮かべた。「前魔王の正統な血を引くクロエ様こそ、我々が長年待ち望んでいたお方です」
リディアは内心で警戒した。バルザック派がクロエを称賛するのは全く予想外だった。彼らならむしろ、彼女の存在を政治的脅威と見なすはずではないのか。
「バルザック卿は」ヴォルガが続けた。「クロエ様の魔界への帰還と、正当な地位への就任を心から支持しております」
「正当な地位とは、具体的にどのようなものでしょうか?」ガブリエル議長が鋭く確認した。
「もちろん」ヴォルガは胸を張った。「魔王の座です。前魔王の血統として、彼女にこそ魔界を統治する権利があります」
評議室がざわめいた。バルザック派が公然とクロエの魔王即位を推すとは、誰も予想していなかった展開だった。
リディアは深い混乱に陥った。バルザック派の真意が全く読めない。つい最近まで、彼らはクロエの暗殺を企てていたはずではなかったか。なぜ今になって支持に回るのか。
「興味深いご提案ですね」セラフィナ副議長が慎重に言った。「しかし、クロエ様ご自身のお気持ちはいかがでしょうか?」
「それについてお答えします」リディアは冷静さを保とうとした。「現在のところ、クロエ様に政治的な野心や魔界への帰還意思は見受けられません。むしろ、人間界での平穏な生活を強く望んでおられます」
「それは実に勿体ないことです」鬼族長オーガが重々しい声で言った。従来は穏健派だった彼が、今日は明らかに異なる態度を見せていた。「前魔王の娘として、魔界に対する責任があるはずです」
吸血鬼族長レイヴン・ナイトメアも同調した。「血統には義務が伴います。個人的な感情よりも、魔界全体の利益を優先すべきでしょう」
リディアは驚愕した。オーガとレイヴンは従来、彼女と同じ穏健派だったはずだ。なぜ突然バルザック派寄りの発言をするのか。
「皆様のお気持ちは十分理解いたします」リディアは言葉を慎重に選んだ。「しかし、本人の意思を無視して責任を押し付けることが適切でしょうか?」
「もちろん、強制するつもりはありません」ヴォルガが滑らかに言った。「ただし、彼女に魔界の現状を正しく理解していただく機会は必要でしょう」
「どのような機会でしょうか?」ガブリエル議長が警戒の色を示した。
「例えば」ヴォルガは具体的に提案した。「公式の魔界訪問や、重要な政治会議への参加です。彼女が魔界の実情を知れば、きっと責任感を感じられるでしょう」
リディアの警戒心がさらに強くなった。明らかにクロエを魔界に呼び寄せようとしている。
「しかし、彼女の安全面での配慮も必要です」リディアは反対の理由を述べた。「現在の複雑な政治情勢を考慮すれば、慎重を期すべきでしょう」
「安全面?」狼族長ウルフ・ムーンハウラーが首を傾げた。彼もまた、今日は普段とは異なる態度を示していた。「我々がクロエ様を心から歓迎しているのに、何を心配されるのですか?」
「確かに、バルザック派を含む多くの勢力がクロエ様を支持しています」魔女族長ヘクサ・スペルウィーバーが同意した。「これほど政治的な合意が得られている状況は極めて稀です」
リディアは混乱の極みにあった。なぜこれほど多くの種族長が、突然クロエ支持に回ったのか。しかも、その動きをバルザック派が主導しているように見える。
「皆様のご支持は誠に有り難く思います」リディアは冷静を装った。「しかし、急激な変化は予期しない混乱を招く恐れもあります」
「混乱?」ヴォルガが眉を上げた。「むしろ、正統な血統による統治こそが真の安定をもたらすのではないでしょうか」
「バルザック卿も全く同じお考えです」巨人族長タイタン・ストーンクラッシャーが加わった。「前魔王の時代のような強力で安定した統治体制を望んでおります」
リディアは内心で深く苦悩していた。表面上は理想的な政治的統一に見えるが、バルザック派の真意が全く読めない。彼らがクロエを本心から支持しているとは到底思えなかった。
「もう一つ重要な報告があります」リディアは切り札を切ることにした。「クロエ様は現在、人間の男性と使い魔契約を結んでおられます」
評議室が静まりかえった。使い魔契約は魔族にとって極めて珍しく、重要な意味を持つ関係性である。
「その男性について詳しく教えてください」セラフィナ副議長が身を乗り出した。
「並野仁成といい」リディアは慎重に続けた。「S級紋章保持者です」
会議室が騒然となった。S級紋章保持者の出現は数百年に一度の稀な出来事である。
「S級紋章?」ドラコが驚いて立ち上がった。「それは確実な情報ですか?」
「私が直接確認いたしました」リディアは断言した。「魔力増幅率は通常の十五倍以上に達しています」
ヴォルガの表情が一瞬動揺したが、すぐに態勢を立て直した。明らかに、この情報だけは予想していなかった。
「それは」オーガが呻いた。「極めて重要かつ危険な情報ですね」
「クロエ様とS級紋章保持者の組み合わせ」レイヴンが分析的に言った。「これは魔界の勢力バランスに革命的な変化をもたらす可能性があります」
しかし、ヴォルガは素早く思考を巡らせ、新たな戦略を練り上げた。「それであればなおさら、クロエ様には魔界にお越しいただくべきです」
「どういう意味でしょうか?」リディアが質問した。
「S級紋章保持者との契約は極めて強力です」ヴォルガは説明した。「しかし、同時に危険でもあります。適切な指導なしに力を使えば、予期しない破滅的結果を招く可能性があります」
「確かに、S級紋章の制御には高度な専門知識が必要です」タイタンが同調した。
「魔界にはその分野の最高権威がおります」ヘクサが付け加えた。「人間界では決して得られない古代からの叡智です」
リディアは彼らの論理的な攻撃に苦慮した。確かに、S級紋章に関する知識と技術は魔界の方が遥かに豊富だった。
「しかし」リディアは反論を試みた。「契約者である仁成さんも一緒にお越しいただく必要があります」
「もちろんです」ヴォルガは即答した。「S級紋章保持者も心から歓迎いたします。むしろ、彼にも魔界の歴史と文化を学んでいただきたい」
「人間を魔界に招くのは前例がありません」セラフィナ副議長が懸念を示した。
「前例がないからこそ、新しい可能性が開けるのです」ヴォルガは力強く反駁した。「クロエ様と紋章保持者の絆は、三界の関係に新たな章を開くかもしれません」
「ただし」リディアは最後の抵抗を試みた。「クロエ様はまだ王位継承権の年齢である二十歳に達しておりません。そのような重要な判断を今この場で下すのは、あまりに性急ではないでしょうか」
ヴォルガは一瞬沈黙した後、巧妙に反論した。「確かに正式な即位は二十歳を待つべきでしょう。しかし、魔界への招待と教育の開始に年齢制限はありません。むしろ、早期の教育こそが将来の優れた統治につながるのです」
「その通りです」オーガが同意した。「帝王学は一日にして成らず。若いうちから始めるべきです」
リディアは完全に追い詰められた感覚を覚えた。法的にも論理的にも、彼らの主張に反駁する材料が見つからない。
「それでは採決を行いましょう」ガブリエル議長が提案した。「クロエ様とS級紋章保持者への正式招待について」
「賛成」ヴォルガが最初に挙手した。
続いて、オーガ、レイヴン、ウルフ、ヘクサ、タイタン、シルフが次々と手を挙げた。海妖族長トリトン・ディープカレント、不死族長ネクロ・ボーンロード、さらには従来中立派だった種族長たちまでもが賛成に回った。
「反対」リディアが孤立無援のまま手を挙げた。
セラフィナ副議長も「反対」の意思を示したが、ガブリエル議長は慎重に棄権を選択した。
結果は圧倒的だった。賛成十、反対二、棄権一で、招待状送付が決定された。
「では、正式招待状の起草に入ります」ガブリエル議長が宣言した。「一週間以内に文書を完成させ、最高顧問を通じてお送りいたします」
会議が終了し、参加者たちが退出し始めた。リディアは深い困惑と不安に包まれていた。バルザック派がクロエを支持する理由が全く理解できない。彼らの真の目的は何なのか。
***
数刻後、魔界の辺境地域に位置するバルザック・クラウズの私邸に、評議会の結果が詳細に報告された。
広大な敷地に建つ黒鉄の城塞は、まるで軍事要塞のような威圧感を放っている。城壁の各所には監視塔が建ち、訓練された魔族兵士たちが昼夜を問わず警備に当たっていた。城の中央部には特に高い塔が聳え立ち、その最上階の一室だけに、他の部屋とは異なる温かい光が灯っていた。
バルザックは自室で、先ほど届いた評議会の議事録を読み終えたところだった。五十代半ばの彼は、前魔王の統括大臣として長年魔界の政治に携わってきた老練な実力者である。猛禽類を思わせる鋭い顔立ちに薄い唇、冷たい灰色の瞳。その外見は一見冷酷そうに見えるが、実際には極めて計算高く、長期的戦略を練ることに長けていた。
「ほぼ計画通りの結果ですね」傍らに立つ副官が満足そうに報告した。「リディアは完全に困惑しているようです」
「当然だろう」バルザックは議事録を机に置いた。「彼女には我々の真の意図が見えていない」
バルザックは立ち上がり、窓辺へと歩いた。そこからは、城の中央にそびえる高い塔がよく見える。塔の最上階、そこに彼が二十年間秘匿し続けてきた最重要の存在がいた。
「ダミアン様の様子はいかがですか?」バルザックが尋ねた。
「相変わらず読書と魔法の研究に熱中されております」副官が答えた。「最近は特に、古代魔法史に深い興味を示されているようです」
「そうか」バルザックは満足そうに頷いた。「あの子の知識欲と洞察力は素晴らしい。真の統治者としての資質が備わっている」
バルザックの視線は、塔の最上階の窓に注がれていた。そこには薄いカーテン越しに、青年の影がゆっくりと動いているのが見える。ダミアン・ハークレイ。前魔王リヴァイアス・ルシファーと天使族シェリル・ハークレイとの間に生まれた、魔界最大の秘密。
「ダミアン様の背中の紋章についてですが」副官が慎重に口を開いた。「最近、光る頻度と強度が顕著に増しているようです」
バルザックの目に鋭い光が宿った。「血玉の古王紋か」
血玉の古王紋。それは魔界の真の統治者のみに現れるとされる伝説的な紋章だった。魔界建国以来、この紋章を宿す者が現れたのは僅か三人。初代魔王、第七代魔王、そして前魔王リヴァイアス。そして今、歴史上四人目の保持者が誕生しようとしていた。
「紋章の完全な発現は」バルザックは確信を込めて言った。「彼の魔王としての正統性を宇宙そのものが証明していることを意味する。ダミアンこそが、真の魔界統治者なのだ」
「では、クロエ様を魔界に招く真の目的は」
「極めて単純明快だ」バルザックは冷徹な笑みを浮かべた。「クロエは完璧な囮に過ぎない。彼女を表舞台に立たせ、すべての政治的注目と敵意を一身に集めさせる。その間に、ダミアンは着実に力をつけ、血玉の古王紋が完全に発現した時、真の王として堂々と君臨するのだ」
副官は深い感心と共に頷いた。「実に巧妙で長期的な戦略です」
「クロエには気の毒だが」バルザックは肩をすくめた。「彼女は政治の駒に過ぎない。確かに血統は持っているが、統治者としての器量には疑問がある。人間界で甘やかされて育った娘に、魔界の複雑な統治など務まるはずがない」
「それに対してダミアン様は」
「二十年間、私が直接薫陶を与えてきた」バルザックは誇らしげに語った。「政治学、軍事学、魔法学、経済学、外交術。真の王として必要なすべての知識と実践的経験を身につけている。そして何より重要なのは、魔族と天使族両方の血を引いているため、三界すべてに対して正統な影響力を持つ可能性があることだ」
バルザックは窓ガラスに映る自分の姿を見つめた。数十年に及ぶ長期戦略が、ついに実現の時を迎えようとしている。
夜風が城の旗をはためかせ、バルザックの野望を天空に掲げるかのように、旗には古代魔界の統一紋章が誇らしく描かれていた。三つの世界を統べる真の王の証である。
「間もなく、お前の時代が来る」バルザックは塔に向かって小さく呟いた。その声には、二十年間の忍耐と計画に対する絶対的な確信が込められていた。「前魔王でさえ成し遂げられなかった、真の三界統一を、お前が実現するのだ」
魔界の夜空に、三つの月が神秘的な光を放っていた。それは古い予言が語る「統一王出現の兆し」だった。バルザック・クラウズの不敵な笑い声が、静寂な夜の空気に響き渡った。