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凡人、


総合調査研究所の地下2階にある訓練施設は、地上のオフィスフロアとは全く異なる世界だった。天井の高い広大な空間には、最新の照明設備が設置されており、昼間のような明るさを保っている。床は衝撃吸収材が敷かれ、壁面には防音材が施されているため、激しい訓練の音も外部に漏れることはない。


空間の至る所で、研究所の職員たちが様々な訓練に励んでいた。格闘技のマットエリアでは、職員同士がスパーリングを行い、汗を流している。別のコーナーでは、的に向かって魔法の練習をしている者たちの姿があった。魔力の光が空中に踊り、小さな爆発音や風を切る音が響いている。


仁成は訓練着に着替えて、この光景を見回していた。一週間前まで普通のサラリーマンだった彼にとって、この非現実的な環境は今でも夢のようだった。


「驚いているようですね」リディアが彼の隣に立った。「でも、先日の件もありましたし、あなたにも最低限の自衛能力を身につけていただく必要があります」


「はい」仁成は緊張した面持ちで答えた。「でも、僕なんかが本当にできるようになるのでしょうか?」


「大丈夫よ」クロエが励ますように言った。「あなたはS級紋章を持っているのだから、素質は十分にあるはずです」


リディアは仁成を訓練エリアの一角へ案内した。そこには基礎的な魔法練習用の設備が整っている。


「まず、理論的な部分から説明しましょう」リディアは椅子に座るよう促した。「魔術と魔法の違いについて、ご存知ですか?」


仁成は首を振った。「全く分からないです」


「魔術は、術者自身の魔力を直接的に行使する技術です」リディアは説明を始めた。「一方、魔法は外部の魔力源や道具を使って効果を発現させる技術です」


「外部の魔力源?」仁成が質問した。


「例えば」クロエが補足した。「魔石や魔法陣、特別な呪文などを使って、周囲の魔力を集めて使用するのが魔法です」


「なるほど」仁成は漸く理解し始めた。「それで、人間界では魔法の方が使いやすいということですか?」


「その通りです」リディアは頷いた。「人間界は魔界に比べて全体的な魔力濃度が低いため、個人の魔力だけに頼る魔術は威力が制限されます。しかし、魔法なら周囲の魔力を効率的に集めることができるので、人間界でも十分な効果を発揮できるのです」


仁成は自分の左手の紋章を見た。「この紋章も、魔法に関係しているのでしょうか?」


「紋章は魔力の増幅器として機能します」リディアは詳しく説明した。「あなたの場合、S級紋章ですから、魔力の増幅率は非常に高いはずです。つまり、魔術も魔法も、両方とも高いレベルで使用できる可能性があります」


「でも、いきなり高度なことはできませんよね?」仁成は不安そうに尋ねた。


「もちろんです」クロエが微笑んだ。「最初は基礎的な身体強化から始めましょう」


リディアは立ち上がり、仁成に向き合った。「身体強化は最も基本的な魔法の一つです。自分の身体能力を一時的に向上させる効果があります」


「具体的にはどのような効果ですか?」


「筋力、敏捷性、反射神経、持久力などを向上させることができます」リディアは実演しながら説明した。「また、軽度ですが治癒力も高まります」


クロエも隣に立った。「私たちが実際にやってみせますから、よく観察してください」


リディアは両手を胸の前で組み、小さく呪文を唱えた。「アルス・フォルティス・コルプス」


瞬間、彼女の体が淡い青い光に包まれた。光は数秒で消えたが、彼女の佇まいに微妙な変化があった。より引き締まって見え、動作も機敏になったようだった。


「今、私の身体能力は通常の約1.5倍になっています」リディアは説明した。


続いてクロエも同じ呪文を唱えた。しかし、彼女を包んだ光はより強く、金色に近い色彩だった。


「クロエの場合、魔力が強いので効果も高くなります」リディアが指摘した。「おそらく2倍以上の強化が得られているでしょう」


仁成は感心して見ていた。「すごいですね。僕にもできるでしょうか?」


「やってみましょう」クロエが励ました。「まず、呪文を正確に覚えることから始めます」


リディアがゆっくりと呪文を復唱した。「アルス・フォルティス・コルプス。意味は『術よ、体を強くせよ』です」


仁成は何度か復唱して、呪文を覚えた。発音は問題ないようだった。


「次に、魔力の流れを意識する必要があります」クロエが説明した。「あなたの左手の紋章から、全身に魔力を巡らせるイメージを持ってください」


仁成は目を閉じ、集中し始めた。左手の紋章が微かに温かくなるのを感じる。


「そうです、その感覚です」リディアが指導した。「その温かさを全身に流すように意識してください」


仁成は慎重に魔力の流れをイメージした。温かさが腕を伝って、肩、胸、そして全身へと広がっていく感覚があった。


「今度は呪文を唱えながら、その魔力を制御してください」クロエがアドバイスした。


「アルス・フォルティス・コルプス」仁成は集中しながら呪文を唱えた。


瞬間、彼の体を弱い光が包んだ。光の色はリディアと同じ青だったが、強度はかなり弱かった。しかし、確実に身体強化の魔法が発動している。


「成功です!」クロエが嬉しそうに手を叩いた。


仁成は自分の手を見た。確かに、いつもよりも力が湧いてくる感覚があった。


「初回でこの程度発動できるのは優秀ですね」リディアが評価した。「S級紋章の効果が既に現れているようです」


「本当ですか?」仁成は驚いた。


「普通の人が初めて身体強化魔法を使う場合、効果を感じられるまで数日はかかります」リディアが説明した。「あなたは一回で成功させました」


仁成は嬉しくなった。少しずつだが、自分も成長しているのを実感できる。


「では、実際に効果を確認してみましょう」クロエが提案した。


訓練エリアの一角には、握力測定器や跳躍力測定用の装置が設置されている。


まず、仁成は身体強化なしで握力を測った。結果は48キログラムだった。


「ごく平均的な数値ですね」リディアがメモを取った。


次に、身体強化魔法を使用してから再び測定した。今度の結果は63キログラムだった。


「約1.3倍の向上ですね」クロエが計算した。「初心者としては十分な効果です」


仁成は自分の成果に満足していた。確実に魔法の効果を実感できる。


「ただし、注意点があります」リディアが真剣な表情で言った。「身体強化魔法には持続時間があります」


「どのくらいですか?」


「初心者の場合、5分から10分程度です」クロエが答えた。「また、連続して使用すると、魔力の消耗により疲労が蓄積します」


「つまり、使いどころを考える必要があるということですね」仁成は理解した。


「その通りです」リディアは頷いた。「戦闘時や緊急時に備えて、普段から練習を積んでおくことが重要です」


この時、訓練エリアの別のコーナーで激しい格闘訓練が行われているのが見えた。二人の職員がスパーリングを行っているが、その動きは明らかに人間の限界を超えている。


「あの人たちも身体強化を使っているのですか?」仁成が尋ねた。


「はい」リディアが答えた。「実戦レベルの身体強化魔法を使用しています。あの程度の技術を習得するには、数ヶ月の鍛錬が必要です」


仁成はその激しい動きを見て、自分の修行の道のりがまだまだ長いことを実感した。


「焦る必要はありませんよ」クロエが彼の肩に手を置いた。「一歩一歩確実に進歩していけば大丈夫です」


「ありがとう」仁成は微笑んだ。「君たちがいてくれるから、頑張れます」


リディアは腕時計を確認した。「今日はこの辺りにしておきましょう。初回にしては十分な成果です」


「明日からは毎日少しずつでも練習しましょうね」クロエが提案した。


仁成は頷いた。「はい、よろしくお願いします」


訓練を終えて更衣室に向かう途中、仁成は先ほどの成功体験を振り返っていた。魔法を使えるようになったという事実は、彼にとって大きな自信となった。


「そういえば」クロエが歩きながら話しかけた。「身体強化以外にも、基礎的な防御魔法や治癒魔法もあります」


「そんなにたくさんあるんですか?」仁成は驚いた。


「魔法の種類は無数にあります」リディアが説明した。「ただし、実用的で習得しやすいものから順番に覚えていくのが効率的です」


「次は何を教えてくれるのですか?」


「バリア魔法が良いでしょう」クロエが提案した。「攻撃を防ぐための基本的な技術です」


仁成は期待に胸を膨らませた。少しずつでも強くなっていける実感があった。


更衣室で着替えながら、仁成は今日一日を振り返った。田中大臣との遭遇、ダミアンの存在、バルザックの陰謀など、自分たちを取り巻く状況は決して楽観できるものではない。しかし、今日の訓練で、自分にも戦う力があることを確認できた。


「仁成」更衣室の外でクロエが待っていた。


「どうしたの?」


「今日は本当にお疲れ様でした」クロエは優しく微笑んだ。「あなたが頑張っている姿を見ていると、私も嬉しくなります」


「ありがとう」仁成は照れながら答えた。「クロエのためにも、もっと強くなりたいんだ」


「私のため?」


「うん」仁成は真剣な表情で言った。「君を守れるような男になりたい」


クロエの頬がやや赤らんだ。「ありがとう。でも、私たちは一緒に戦うパートナーです。お互いを支え合いましょう」


「そうだね」仁成は頷いた。「一緒に頑張ろう」


二人は研究所の出口へ向かった。夕日が西の空に沈み始め、オレンジ色の光が空を染めている。


「明日も訓練ですか?」仁成が尋ねた。


「はい」クロエは答えた。「でも、あまり無理をしないでくださいね。体力と魔力の両方を鍛える必要がありますから、バランスが大切です」


「分かりました」


研究所を出ると、街の夕方の騒がしさが戻ってきた。通りを歩く人々は皆、普通の日常生活を送っている。彼らは魔界の政治的混乱や、三界の微妙なバランスについて何も知らない。


「平和な光景ですね」クロエがしみじみ言った。


「そうだね」仁成は同意した。「この平和を守るためにも、僕たちは頑張らなければならない」


「はい」クロエは決意を込めて頷いた。


二人は手を繋いで、夕日に向かって歩いていった。今日の訓練は小さな一歩に過ぎないが、それでも確実な前進だった。明日からも、彼らの修行は続いていく。


そして、遠からず訪れるであろう本当の戦いに向けて、仁成は一日一日強くなっていく必要があった。魔界の複雑な政治情勢の中で、彼とクロエ、そしてリディアたちがどのような役割を果たすことになるのか、その答えはまだ見えない。


しかし、少なくとも今日、仁成は自分にも戦う力があることを知った。それは大きな収穫だった。

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