凡人、
魔界の薄暗い夜空の下、バルザックの邸宅は重厚な石造りの威容を誇っていた。屋敷の奥にある書斎では、暖炉の炎が不安定に揺れ、部屋全体に踊る影を作り出していた。高い天井から吊り下げられたシャンデリアの光は微弱で、部屋の隅々まで照らすには不十分だった。
書斎の扉が静かに開かれ、黒いマントに身を包んだ人影が滑るように入ってきた。顔は深いフードに隠され、その正体を窺い知ることは困難だった。足音は絨毯に吸収され、ほとんど聞こえない。
マントの男は片膝をついて頭を下げた。その動作は流麗で、長年の忠誠を感じさせるものだった。
バルザックは巨大な机の向こうに座り、羽根ペンを手にしていたが、報告者の到着とともにそれを置いた。彼の鋭い眼光は、マントの男の方向に注がれている。
「報告しろ」バルザックの声は低く、権威に満ちていた。
「はい」マントの男は顔を上げることなく答えた。「田中麗子の動向について報告いたします」
「続けろ」
「田中は、魔族評議会最高顧問のリディア・ヴァレンタインと接触いたしました。廃工場の件が評議会側に把握されたようです」
バルザックの表情に微かな変化が現れた。眉間に小さな皺が寄り、顎の筋肉がわずかに緊張した。
「それだけか?」
「いえ」マントの男は続けた。「その場に、行方の掴めなかった前魔王の娘であるクロエ・ルシファーの姿を確認いたしました」
バルザックの手が机の上でゆっくりと握りこぶしを作った。暖炉の炎が一瞬強く燃え上がり、部屋の影がより深くなった。
「クロエとリディアが共に居ただと?」バルザックは低く呟いた。その声には明らかな苛立ちが含まれていた。
「はい。会話の詳細は把握できておりませんが、こちら側の動向と何らかの重要な情報交換が行われたものと推察されます」
バルザックは立ち上がり、書斎の窓へと向かった。窓の外には魔界の夜景が広がっている。遠くに見える魔族評議会の建物が、まるでこちらの動きを全てを見透かすかのようにそびえ立っていた。
「リディアめ」バルザックは窓ガラスに向かって吐き捨てるように言った。
「田中麗子は現在、人間界と魔界の両方にコネクションを持つ貴重な存在です」マントの男が分析した。「魔族評議会としても、彼女の協力を得ることができれば大きなアドバンテージとなるでしょう」
「協力」バルザックは苦々しく笑った。「あの女に協力などという概念があると思うか?奴は常に自分の利益を最優先に行動する。私に近づいたいたのもそのためだ」
バルザックは振り返り、報告者を見据えた。その瞳には冷たい怒りが宿っていた。
「だからこそ厄介なのだ」バルザックは言った。「田中が魔族評議会側につけば、我々の計画に大きな支障をきたす可能性がある」
「対策はいかがいたしましょうか?」
バルザックは再び席に戻り、深く椅子に座った。彼は指を組み、しばらく思案していた。暖炉の火がパチパチと音を立て、時計の針が時を刻む音だけが部屋に響いていた。
バルザックは慎重に言葉を選んだ。「今の状況では下手に事を荒立てると逆効果になる可能性が高い。奴はは既に警戒心を強めているだろう」
「では、どのような手を?」
バルザックの口元に、不適な笑みが浮かんだ。それは獲物を前にした肉食動物のような、危険な笑みだった。
「心配するな」バルザックは自信に満ちた声で言った。「こちらにも切り札がある」
「切り札、でございますか?」
「そうだ」バルザックは立ち上がり、書棚の方へ歩いた。そこには古い魔導書や政治関係の文書が並んでいる。「魔族評議会がどれほど画策しようとも、最終的に我々が勝利することに変わりはない」
彼は書棚から一冊の分厚い書物を取り出した。表紙には古代魔族語で何かが書かれているが、それを読み取ることができるのは限られた者だけだった。
「この切り札がある限り」バルザックは書物を机の上に置きながら続けた。「魔族評議会の好きにはさせない」
マントの男は興味深そうにその書物を見た。しかし、バルザックがそれ以上の詳細について語ることはなかった。
「田中の動向は引き続き監視しろ」バルザックは指示した。「特にリディアやクロエとの接触については、可能な限り詳細な報告を求める」
「承知いたしました」
「また」バルザックは付け加えた。「魔族評議会の動きについても注意深く観察しろ。彼らが次にどのような手を打ってくるか予測する必要がある」
「はい、バルザック様」
マントの男は再び片膝をついて頭を下げ、静かに部屋を後にした。扉が閉まると、書斎には再び静寂が戻った。
バルザックは一人残され、机の上の書物を見つめていた。その表情は複雑で、自信と不安が入り混じっているようだった。切り札があると豪語したものの、状況は決して楽観視できるものではない。
彼は窓の外を見た。魔界の夜は深く、星々が冷たく光っていた。遠くで夜行性の魔物の鳴き声が聞こえ、魔界らしい不気味な雰囲気を醸し出している。
「田中麗子か」バルザックは小さく呟いた。「お前がどちら側につこうとも、最終的な勝者は決まっている」
彼は書物を開き、古代魔族語で書かれたページをめくり始めた。そこには魔界の歴史と、ある重要な秘密が記されている。この秘密こそが、バルザックの言う切り札の正体だった。
場面は変わり、大臣邸の隣にある古い石造りの塔に移る。この塔は何世紀も前に建設されたもので、魔界の建築様式の古典的な美しさを保持していた。しかし、長い年月を経た石壁には苔が生え、所々にひび割れが見られる。塔の最上階近くにある一室に、一人の青年が座っていた。
ダミアンは重いオーク材のテーブルに肘をつき、両手で顔を覆っていた。部屋は薄暗く、小さな窓から差し込む月光だけが唯一の光源だった。壁には古い絵画がいくつか掛けられているが、どれも色褪せて、かつての美しさは失われている。
彼の手には小さなペンダントが握られていた。銀細工の繊細な作りで、中央には小さな写真が収められている。写真に写っているのは美しい女性で、優しい微笑みを浮かべていた。その女性こそ、ダミアンの母だった。
ダミアンはペンダントを開いて母の写真を見つめていた。その表情は深い悲しみに支配されており、瞳には涙が宿っていた。
「母さん」ダミアンは小さく呟いた。「僕はどうすればいいんだ?」
部屋の片隅にある本棚には、数多くの書物が並んでいる。魔法書、歴史書、詩集などが雑然と置かれているが、その中で一つだけ特別な場所に飾られているものがあった。
木製の写真立てに収められた古い写真。そこには二人の人物が写っている。一人は先ほどダミアンが見つめていた女性、彼の母。そして、もう一人は威厳に満ちた男性の姿があった。いや、あったはずだった。
なぜなら、その男性の顔部分は黒いインクで完全に塗りつぶされていたからだ。塗りつぶし方は雑で、明らかに感情的になって行われたものだった。インクが乾いた後も、何度も重ね塗りされている痕跡がある。
ダミアンは母の写真から顔を上げ、本棚の写真立てを見た。その瞬間、彼の表情が大きく変わった。悲しみは憎悪に変わり、優しかった瞳が鋭い光を放った。
「あの男」ダミアンは歯を食いしばって言った。「母さんを死に追いやったあの男を、僕は絶対に許さない」
写真の中で黒く塗りつぶされた人物こそ、前魔王だった。表面上は魔界を統治する偉大な王として知られていたが、ダミアンにとっては母を苦しめた憎むべき存在でしかなかった。
ダミアンは立ち上がり、写真立てに近づいた。そして、塗りつぶされた前魔王の顔部分を指でなぞった。その指は震えており、抑えきれない怒りを表していた。
「あなたは母さんを愛していると言った」ダミアンは写真に向かって話しかけた。「でも、結局は王としての立場を優先した。母さんを守ろうともしなかった」
彼の記憶の中で、母の最後の日々がよみがえった。病気に苦しみながらも、前魔王の訪問を待ち続けた母の姿。しかし、前魔王が現れることはほとんどなかった。政治的な都合により、公然と関係を認めることができなかったのだ。
「母さんは最後まであなたを信じていた」ダミアンは続けた。「でも、あなたは母さんを裏切った」
ダミアンの手が写真立てを強く握った。一瞬、それを床に叩きつけたい衝動に駆られたが、母も写っていることを思い出し、手を止めた。
代わりに、彼は机の引き出しから黒いインクと筆を取り出した。そして、写真の前魔王の顔部分に、さらにインクを塗り重ねた。もはや完全に真っ黒になり、元の顔は全く見えない状態だった。
「魔王」ダミアンは冷たく言い放った。「あなたの血を引く僕が、あなたの築いた全てを破壊してやる」
彼は筆を机に放り投げ、再び椅子に座った。母のペンダントを握りしめ、複雑な感情に支配されていた。愛する母への思いと、憎む父への復讐心が、彼の心の中で絡み合っている。
窓の外では風が強くなり、古い塔を揺らしていた。石壁がきしむ音が部屋に響き、ダミアンの内なる嵐を表現しているかのようだった。
「母さん、見ていてください」ダミアンは小さく呟いた。「僕は必ずあの男の作り上げた全てを無に帰します。そして、あなたの無念を晴らします」
彼の瞳には、もはや迷いはなかった。復讐への決意が、彼の内なる炎となって燃え続けている。前魔王への憎悪が、ダミアンの行動原理となっていた。この憎悪こそが、魔界の政治バランスを大きく変える要因の一つとなる可能性があった。
部屋の時計が深夜を告げ、ダミアンの長い夜が続いていく。復讐の炎は、決して消えることがないように思われた。