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凡人、


特殊調査研究機関の地下3階は、地上の華やかなロビーとは対照的に、薄暗い蛍光灯に照らされた無機質な廊下が続いていた。壁は冷たいコンクリートむき出しで、両側に点在する扉には番号だけが記され、その向こうで何が行われているのか外部からは一切窺い知ることができない。


田中麗子は、外務大臣としての公的な顔の時とは明らかに異なる、より警戒心の強い表情で廊下を歩いていた。外交官の洗練された微笑みは影を潜め、代わりに魔族の血が持つ本能的な警戒心が彼女の瞳に宿っていた。


「こんなところで会うとは思いませんでしたわ」


突然聞こえた声に、田中は足を止めた。振り返ると、表向きは一般企業の受付で人懐っこい笑顔を浮かべている日向陽菜が、今は全く別人のような冷たい表情で立っていた。


二人の間に、見えない緊張の糸が張り詰めた。地下の薄暗い廊下で、天使族と魔族が対峙している。どちらも人間界では別の顔を持っているが、この瞬間、彼女たちの本質が露わになっていた。


田中の体内で魔族の血が騒ぎ、日向からは天使特有の神聖な力の波動が微かに漏れ出していた。二つの異なる超自然的な力が、狭い廊下で静かに拮抗していた。


二人は数メートルの距離を保ちながら、互いを品定めするように見つめ合った。蛍光灯の光が彼女たちの顔に不気味な影を作り、この奇妙な対峙をより一層劇的に演出していた。


「しかし」田中は突然口調を変えた。「三界平和協定のことをお忘れではないでしょうね」


日向の表情が微妙に変化した。「もちろんです」


「であれば」田中は続けた。「私たちは互いに直接的な行動を取ることはできません。少なくとも、正当な理由なしには」


「当然承知しております」日向は小さくため息をついた。「あの協定のおかげで、私たちは随分と制約を受けていますからね」


三界平和協定。人間界、魔界、天界の間で締結された歴史的な平和条約だった。この協定により、三つの世界の住民は互いの領域を尊重し、無用な争いを避けることが義務付けられていた。特に人間界においては、天使族も魔族も人間社会に溶け込み、表立った対立を避けなければならないとされていた。


「制約」田中はその言葉を繰り返した。「確かに、自由に行動できない歯がゆさはありますね」


「ええ」日向は同意した。「しかし、それでも私たちはそれぞれの使命を果たさなければなりません」


田中は興味深そうに眉を上げた。「あなたの使命とは何でしょうか?」


「それはお答えできませんわ」日向は首を振った。「ただ言えるのは、この人間界の平和と安定を守ることです」


「平和と安定」田中は皮肉な笑みを浮かべた。「魔界の安定も、結果的には三界全体の平和に繋がるのですよ」


日向「魔界の安定?あなた方の内紛のことですか?」


田中は一瞬表情を硬くした。「内紛という言葉は適切ではありません。政治的な意見の相違です」


「意見の相違で済むレベルを超えているのではありませんか?」日向は追及した。「バルザック派と魔族評議会の対立は、もはや内戦前夜と言っても過言ではないでしょう」


田中は日向の情報収集能力に内心で感心した。天使族も確実に魔界の状況を把握している。「あなた方もよくご存知ですね」


「当然です」日向は当たり前のように答えた。「魔界の不安定は、人間界にも影響を及ぼしかねません。私たちも無関心ではいられませんわ」


「そして」田中は慎重に言葉を選んだ。「あなた方はどちら側を支持するのですか?」


日向は一瞬考えてから答えた。「私たちは中立を保ちます。ただし、人間界に害をなす可能性のある動きには対処せざるを得ません」


「害をなす可能性」田中は含みのある表情をした。「具体的にはどのような行動を指すのでしょうか?」


「例えば」日向は田中を見据えた。「人間界の文化財を魔界に持ち出すような行為です」


田中の表情が一瞬凍り付いた。天使族は彼女の密輸事業についても把握していた。


「それは」田中は慎重に言葉を選んだ。「文化交流という観点もあるのではないでしょうか」


「文化交流?」日向は冷笑した。「盗難品の売買を文化交流と呼ぶのですか?」


「全てが盗難品ではありません」田中は反論した。「合法的に入手した品物も多く扱っています」


「しかし、違法な品物も扱っているのは事実でしょう」日向は譲らなかった。


田中は一時沈黙した。否定できない事実だった。「需要に応えているだけです」


「需要」日向は苦々しい表情をした。「魔界の貴族たちの欲望に応えることが、そんなに重要なのですか?」


「経済活動です」田中は実用的に答えた。「需要と供給の原則に従っているだけです」


「随分と割り切った考え方ですのね」日向は軽蔑を込めて言った。


「生き残るためです」田中は率直に答えた。「混血である私には、純血の魔族や人間ほどの特権はありません。自分で道を切り開くしかないのです」


日向は一瞬、田中の立場に理解を示すような表情を見せた。しかし、すぐにその表情は消えた。


「同情すべき事情があろうとも」日向は冷たく言った。「違法行為は違法行為です」


「法律」田中は苦笑した。「三つの界にはそれぞれ異なる法律があります。どの法律に従えばよいのでしょうか?」


「人間界にいる以上、人間界の法律に従うべきです」日向は明確に答えた。


「では、魔界の法律に従って行動することは認められないのですか?」田中は反論した。


「魔界の法律を人間界で適用することはできません」日向は断言した。


二人の議論は平行線をたどっていた。立場の違いが根本的すぎて、歩み寄りの余地はほとんどなかった。


「しかし」田中は話題を変えた。「三界平和協定がある限り、あなた方も直接的な介入はできないはずです」


「もちろんです」日向は認めた。「我々も協定を遵守します」


「であれば、今のところはお互いに様子見ということですね」田中は確認した。


「そういうことです」日向は頷いた。「ただし、状況が変われば話は別ですが」


「状況が変わる?」田中は眉を上げた。


「例えば」日向は意味深に言った。「魔界の内紛が人間界に直接的な脅威をもたらすような事態になれば」


「その時は?」田中が尋ねた。


「その時は、私たちも行動せざるを得ないでしょう」日向は冷たく宣言した。


田中は日向の言葉の重さを理解していた。天使族が本気で行動を起こせば、魔界の政治バランスは大きく変わる可能性がある。


「威嚇のつもりですか?」田中は挑発的に言った。


「事実を述べているだけです」日向は淡々と答えた。「私たちには人間界を守る使命があります」


「守る」田中は その言葉を繰り返した。「あなた方の正義感は理解しますが、時として過度な干渉になることもあるのではないでしょうか?」


「私たちは必要最小限の行動しか取りません」日向は反論した。「しかし、必要であれば躊躇しません」


田中は日向の決意の強さを感じ取った。天使族の正義感と使命感は、時として融通の利かない頑固さにもなり得る。


「分かりました」田中は一歩後退した。「お互いの立場は理解できました」


「そうですね」日向も同意した。「今日のところは、これ以上の議論は無意味でしょう」


二人は再び沈黙に包まれた。地下の廊下に、蛍光灯の微かな音だけが響いていた。


「ただし」日向は突然口を開いた。その声には明確な警告の色が込められていた。


「何でしょうか?」田中が反応した。


日向は苦虫を噛み潰したような表情を浮かべ、田中を鋭い視線で見据えた。「あの方に気に入られているからと、魔族が調子に乗らないことね」


田中は一瞬、日向の言葉の意味を測りかねた。「あの方?」


しかし、日向はそれ以上説明しようとしなかった。彼女は踵を返すと、田中に背を向けた。


「お互い、節度を保って行動しましょう」日向は振り返らずに言った。「三界平和協定の精神に従って」


そう言い残すと、日向は廊下の向こうへと歩き去った。彼女の足音が次第に遠ざかり、やがて完全に聞こえなくなった。


田中は一人残され、日向が去った方向をしばらく見つめていた。「あの方に気に入られているから」という言葉が頭の中で反響していた。


一体誰のことを指しているのだろうか?。魔界の有力者?それとも、もっと上位の存在?天使族が言及するほどの人物となると、相当な影響力を持つ存在に違いない。


しかし、田中にはその正体に心当たりがなかった。自分が誰かに特別に気に入られているという認識もなかった。


ふっと、田中の口元に微かな笑みが浮かんだ。日向の警告は確かに気になるが、同時に興味深くもあった。天使族がここまで具体的な警告を発するということは、何か重要な動きが水面下で進行している証拠かもしれない。


田中は踵を返し、廊下の奥へと向かった。今日の目的は、日向との偶然の遭遇によって少し予定が狂ったが、それでも果たすべき用事がある。


奥の部屋への扉の前で、田中は一度立ち止まった。日向との会話を振り返り、得られた情報を整理した。


天使族は魔界の情勢を詳しく把握している。彼女たちは中立を保つと言いながらも、人間界への脅威となれば行動を起こす準備がある。そして、何らかの上位存在の影響下で動いている可能性がある。


これらの情報は、今後の行動を決める上で貴重な材料となるだろう。


田中は扉をノックし、中へ入っていった。廊下には再び静寂が戻り、蛍光灯だけが変わらず薄暗い光を放ち続けていた。


地下3階のこの一角で交わされた短い会話は、三界の微妙なパワーバランスの一端を垣間見せるものだった。表向きは平和協定によって安定しているように見える三界の関係も、実際には様々な思惑と利害が複雑に絡み合っている。


田中と日向、魔族と天使族の代表として、彼女たちの今後の動向が三界の未来に大きな影響を与える可能性があった。そして、その背後には、まだ正体の明かされない「あの方」の存在が影を落としていた。

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