凡人、
その時、影の中から一つの人影がすっと立ち上がった。仁成たちの前に、リディアが冷静な表情で歩み出てきたのだ。
「失礼いたします」リディアは田中大臣に向かって、丁寧にお辞儀をした。「私はリディア・ヴァレンタインと申します」
田中大臣は興味深そうに眉を上げた。「随分と落ち着いていらっしゃいますね」
「私は人間界では表向き、総合調査研究所を経営しております」リディアは淡々と自己紹介を続けた。「しかし本来の所属は、魔族評議会の最高顧問です」
「私たちに敵意はございません」リディアは両手を軽く広げて、武器を持っていないことを示した。「ただし、最近発生している一連の事件について、調査をさせていただいております」
田中大臣は数秒間リディアを見つめてから、小さくため息をついた。「魔族評議会の方でしたら、確かに話し合いの余地がありますね」
リディアがインカムに小声で指示を出した。「Aチーム、Bチーム、警戒を維持しつつ姿を現してください。外交交渉に移行します」
しばらくすると、マルクス、アリス、クロエの三人が別の入り口から慎重に現れた。全員が武器を構えてはいるものの、明確な敵意は示していない。
仁成はレイナード、トーマスと共に箱の影から出てきた。左手の紋章は相変わらず温かく、田中大臣が魔族であることを明確に感知していた。
「皆さん、ようこそいらっしゃいました」田中大臣は微笑んだ。「こんなところでお会いするとは、奇遇ですね」
クロエは田中大臣を見つめながら、魔力の性質を分析していた。「あなたは純粋な魔族ではありませんね」
「その通りです」田中大臣は率直に答えた。「私は魔族と人間の混血です。母が魔族、父が人間でした」
「それで政治の世界に」マルクスが推測した。
「両方の世界を理解できる立場にあったからです」田中大臣は頷いた。「人間界と魔界、双方に利益をもたらす架け橋になれると考えました」
リディアは慎重に次の質問を切り出した。「差し支えなければお尋ねしたいのですが、あなたはバルザック派の方でいらっしゃいますか?」
田中大臣の表情が僅かに硬くなった。「バルザック卿については、確かに知っております」
「どのような関係でしょうか?」リディアが続けた。
「彼は私に日本政府側との繋がりを持たせてくれた人物の一人です」田中大臣は慎重に言葉を選んだ。「しかし、あくまでも顧客の一人に過ぎません」
「顧客?」クロエが反応した。
「私の事業は、前魔王陛下が在位していた頃から小規模ながら続けておりました」田中大臣は説明した。「人間界の工芸品や美術品を魔界の貴族方に紹介する、文化交流事業とでも申しましょうか」
アリスが厳しい口調で割り込んだ。「それは単なる密輸ではありませんか?」
「法的な灰色地帯であることは承知しています」田中大臣は動じなかった。「しかし、両界にとって有益な交流であると信じております」
「盗難品の売買も有益な交流ですか?」トーマスが技術者らしい冷静さで指摘した。
田中大臣は一瞬表情を曇らせた。「それについては、私も心苦しく思っております。当初は合法的に入手した品物のみを扱っていたのですが」
「何が変わったのですか?」リディアが追求した。
「需要が急激に拡大したのです」田中大臣は深くため息をついた。「特にここ3年ほど、魔界の貴族たちからの注文が爆発的に増えました。魔界の政治情勢が不安定になるにつれて、貴族たちは人間界の品物により高い価値を見出すようになったのです」
仁成は混乱していた。政治家が密輸に関わっているという現実は、彼の常識を遥かに超えていた。
「それで、バルザック卿との関係が深くなったのですね」リディアが核心に迫った。
「正確に申し上げますと」田中大臣は慎重に言葉を選んだ。「バルザック卿は私の顧客の一人ではありますが、むしろ彼の方が魔界の貴族たちとのコネクションを積極的に強化しているように見受けられます」
「どういう意味ですか?」クロエが身を乗り出した。
田中大臣はクロエを見つめた。「あなたがクロエ様ですね。魔界では有名な方です、前魔王の正当な後継者として」
「はい」クロエは驚いた。「私のことをご存知なのですか?」
「魔界の貴族との取引を通じて、様々な情報が入ってまいります」田中大臣は説明した。「その中で気になる噂があるのですが」
「どのような噂ですか?」リディアが促した。
田中大臣は表情を真剣にした。「これは噂程度の情報ですが、バルザック卿は前魔王の忌み子を新たな魔王として即位させようと動いているようです」
「忌み子?」クロエの顔色が変わった。
「前魔王には、正妻であるあなたのお母様以外にも、何人かの愛人がいたと聞いております」田中大臣は慎重に説明した。「その中の一人との間に生まれた子供が、現在成人しているそうです」
「そんな」クロエは愕然とした。
「バルザック卿はその人物を利用して、魔界の政治的主導権を握ろうとしているのではないでしょうか」田中大臣が推測した。
マルクスが分析的に尋ねた。「あなたはどちらの陣営を支持するのですか?」
田中大臣は肩をすくめた。「正直に申し上げれば、魔界の統治者がクロエ様になろうが、その忌み子になろうが、私には大した違いはありません」
「どういう意味ですか?」クロエが眉をひそめた。
「私の事業は、魔界が安定していれば継続できます」田中大臣は実用的な観点から答えた。「統治者が誰であれ、貴族たちが物品を求める限り、需要は存在します」
「随分と割り切った考え方ですね」アリスが皮肉を込めて言った。
「私は商人です」田中大臣は率直に答えた。「政治的理想よりも、実用的利益を重視します」
レイナードが魔法的な観点から質問した。「忌み子の魔力はどの程度なのですか?」
「詳しくは分かりませんが」田中大臣は答えた。「相当な実力者だと聞いております。バルザック卿も、その実力を高く評価しているようです」
「名前は分かりますか?」リディアが重要な情報を求めた。
田中大臣は一瞬躊躇した。「ダミアンと呼ばれていると聞いております」
「ダミアン」クロエはその名前を繰り返した。「聞いたことがありません」
「当然でしょう」田中大臣は説明した。「前魔王は彼の存在を公にすることはありませんでしたから」
仁成は複雑な政治情勢に頭が混乱していた。魔王の後継者問題、バルザックの陰謀、密輸事業、全てが絡み合っている。
「しかし、なぜバルザック卿はそこまでして権力を握ろうとするのでしょう?」トーマスが疑問を呈した。
「おそらく」田中大臣は推測した。「魔界と人間界の関係を根本的に変えたいのではないでしょうか。現在の魔族評議会体制では、彼の野望は実現できない」
「どのような野望ですか?」リディアが詳しく尋ねた。
「申し訳ございませんが、詳細は分かりません」田中大臣は首を振った。「ただ、彼は、政治的な影響力を持ち、長期的な計画を持って行動している」
「私たちが今日ここに来たことは、バルザック卿に知られるでしょうか?」マルクスが現実的な懸念を示した。
「おそらく知られるでしょうね」田中大臣は率直に答えた。「彼は情報ネットワークを持っていますから」
「それは問題ですね」アリスが心配そうに言った。
「しかし」田中大臣は続けた。「魔族評議会の最高顧問の方が直接調査に来られたということになれば、彼も慎重にならざるを得ないでしょう」
リディアが頷いた。「確かに、公的な調査であることを明確にすれば、バルザック卿も表立った妨害はしにくいでしょうね」
「それで」クロエが田中大臣に向き直った。「もし可能でしたら、今後も情報を教えていただけませんか?」
田中大臣は少し考えてから答えた。「魔族評議会の調査に協力するということでしたら、可能です。ただし、私の立場もご理解いただきたい」
「どういうことでしょうか?」リディアが確認した。
「私は政治家としての顔もあります」田中大臣は説明した。「あまり表立って動くことは難しいですが、情報提供程度でしたら協力できます」
「ありがとうございます」クロエは心から感謝を込めて言った。
仁成は左手の紋章を見た。まだ微かに温かいが、緊張感は少し和らいでいた。田中大臣が敵ではないことを、紋章も感知しているようだ。
「一つ気になることがあります」仁成が口を開いた。
「何でしょうか?」田中大臣が彼に注目した。
「僕の紋章は、魔族の存在を感知するようですが」仁成は慎重に言葉を選んだ。「ダミアンと会った時も、同じように反応するのでしょうか?」
「おそらく反応するでしょう」田中大臣は答えた。「ただし、彼の魔力は相当強いと聞いていますので、より強い反応が予想されます」
「それは危険ということですか?」クロエが心配そうに尋ねた。
「可能性はありますね」田中大臣は率直に答えた。「彼がバルザック卿の陣営にいる以上、あなた方とは対立する可能性が高いです」
「分かりました」仁成は覚悟を決めた表情をした。「でも、クロエを支えるためなら、どんな相手でも立ち向かいます」
「ありがとう、仁成」クロエは感謝を込めて言った。
田中大臣は二人の様子を見て、微笑んだ。「お二人の絆は素晴らしいものですね。きっと困難を乗り越えられるでしょう」
「今後の連絡方法はどうしましょうか?」リディアが実務的な確認をした。
「私の秘書を通じて連絡を取れます」田中大臣は名刺を渡した。「この電話番号にかけて、『文化交流事業の件』と伝えてください」
「承知いたしました」リディアは名刺を受け取った。
「それでは、今日はこの辺りで失礼させていただきます」田中大臣は時計を確認した。「あまり長時間ここにいると、不審に思われるかもしれませんので」
全員が田中大臣に礼を述べて、倉庫を後にした。外に出ると、秋の冷たい空気が肌を刺した。
「まさか外務大臣がこんなことに関わっているなんて」トーマスが感慨深げに言った。
「しかも魔族だったとは」マルクスも驚きを隠せない様子だった。
「でも、協力してくれそうで良かったです」アリスが前向きに言った。
「問題はダミアンですね」クロエは複雑な表情をした。「父の子供がもう一人いるなんて」
「血縁関係があっても、必ずしも敵とは限らないのでは?」仁成が希望的な見方を示した。
「そうであればいいのですが」リディアは現実的に答えた。「バルザック卿の影響下にある以上、楽観はできませんね」
帰り道、仁成は今日の出来事を振り返った。田中大臣という予想外の協力者を得ることができた一方で、ダミアンという新たな脅威の存在も明らかになった。
「仁成」クロエが彼の手を握った。
「何?」
「今日は本当にありがとう」クロエは微笑んだ。「一緒にいてくれるだけで心強いです」
「僕の方こそ」仁成は答えた。「君と一緒だから、頑張れるんだ」
二人は手を繋いで歩いた。前途には困難が待ち受けているかもしれないが、少なくとも今日、重要な一歩を踏み出すことができた。バルザックの計画の一端を知り、田中大臣という協力者を得ることができた。
しかし、ダミアンという新たな脅威の存在も明らかになった。魔界の政治的安定のために、彼らの戦いはまだまだ続きそうだった。