凡人、色々知る
レイナードが両手を静かに広げると、淡い紫色の光が指先から滲み出した。その光は糸のように細く伸びて、全員の体を包み込んでいく。
「隠密魔法です」レイナードが小声で説明した。「完全に姿が消えるわけではありませんが、注意深く行動すれば発見される可能性は大幅に下がります」
仁成は自分の手を見下ろした。確かに、薄っすらと透明になっているのが分かる。不思議な感覚だった。
「効果は約三十分程度です」レイナードが時間制限を伝えた。「それまでに作戦を完了させる必要があります」
マルクスがインカムで他のチームに連絡を取った。「Aチーム、Cチーム、隠密魔法完了。三分後に同時突入開始」
「了解」クロエの声がかすかに聞こえた。
「こちらも準備完了です」リディアから返答があった。
仁成の左手の紋章が相変わらず微かに振動を続けている。建物に近づくにつれて、その振動は徐々に強くなっていた。
「紋章の反応はいかがですか?」トーマスが確認した。
「強くなっています」仁成は静かに答えた。「確実に、この建物に何かいます」
マルクスが三本指を立てて、カウントダウンを始めた。三、二、一。
合図と同時に、全員が建物へ向かって移動を開始した。レイナード、トーマス、仁成の三人は建物の側面入口に向かった。錆びついた金属扉の隙間から、薄っすらと光が漏れている。
レイナードが扉に手をかけて、金属操作魔法で音もなく開いた。ゆっくりと隙間が広がり、内部の様子が見えてきた。
中に足を踏み入れると、予想をはるかに超える光景が広がっていた。巨大な倉庫内には、木箱やダンボール箱が天井近くまで積み上げられている。通路のように空けられた隙間を縫って、奥へと続く道が見えた。
「すごい量ですね」トーマスが小声でつぶやいた。
仁成は近くにあった木箱の蓋が半分開いているのに気づいた。好奇心に駆られて覗き込むと、息を呑んだ。
箱の中には、宝石をあしらった金のネックレス、ダイヤモンドの指輪、真珠のイヤリング、高級腕時計など、明らかに高価な装飾品がぎっしりと詰め込まれていた。
「これは」仁成は震え声で言った。
レイナードとトーマスも箱の中身を確認して、顔色を変えた。
「間違いなく盗品ですね」トーマスが分析した。「都内で発生している一連の盗難事件の商品でしょう」
別の箱を開けてみると、そこには美術品や骨董品が丁寧に梱包されて収められていた。日本刀、掛け軸、陶磁器、仏像まで様々な品物がある。
「これほどの規模だったとは」レイナードも驚きを隠せない様子だった。
仁成は改めて倉庫内を見回した。積み上げられた箱は数百個にも及び、その全てに盗品が入っているとすれば、被害総額は想像を絶する金額になるだろう。
その時、建物の中央付近から男性の声が聞こえてきた。
「今日の分の梱包は終わったか?」
「ああ、予定通りだ」別の男性が答えた。「魔界の貴族様たちも物好きだよな、人間界の装飾品なんか欲しがってるんだから」
「金になるからいいじゃないか」最初の男性が笑った。「あっちの連中は、こういう『異世界の珍品』に異常な価値を見出すからな」
「確かにな。こんな簡単に大金が手に入るなんて、夢みたいだ」
「ただし、バレたら終わりだぞ。人間界の法律だけじゃなく、魔界の掟にも関わってくるからな」
「分かってるよ。だからこそ、慎重にやってるんじゃないか」
仁成、レイナード、トーマスは息を殺して男性たちの会話を聞いていた。魔界との密輸ということになれば、事件の規模は国際問題にまで発展する可能性がある。
会話が続く中、新たな足音が聞こえてきた。ヒールの音が規則正しく響いて、中央の空間へと向かっている。
「お疲れ様です」女性の声が響いた。「今日の作業状況はいかがですか?」
「ああ、大臣」男性の一人が慌てたように答えた。「予定通り進んでおります」
「大臣?」仁成は眉をひそめた。その声に聞き覚えがあるような気がした。
好奇心に駆られて、仁成は積み上げられた箱の影から、中央の空間を覗こうと身を乗り出した。レイナードが制止しようとしたが、間に合わなかった。
空間の中央に立っていたのは、濃紺のスーツを着た女性だった。三十代半ばと思われる彼女は、知的で上品な雰囲気を醸し出している。しかし、仁成は彼女の顔を見た瞬間、記憶の奥から何かが蘇ってきた。
「あの顔は」仁成は小声でつぶやいた。
その女性は、つい最近のニュースで頻繁に取り上げられていた人物だった。史上最年少で外務大臣に就任した田中麗子だ。国際外交の場で活躍し、メディアでも注目を集めている政治家である。
「田中外務大臣」仁成は思わず声に出しそうになったが、慌てて口を押さえた。
レイナードとトーマスも仁成の反応を見て、女性の正体に気づいた。三人の間に緊張が走った。
「大臣、次回の輸送スケジュールはいかがしますか?」男性の一人が質問した。
「来週の水曜日で準備してください」田中大臣が答えた。「魔界側からの要求リストも更新されています」
「承知いたしました。品物の選定基準に変更はありますか?」
「特に変更はありません」田中大臣は冷静に答えた。「ただし、最近人間界での捜査が活発になっているようですので、より慎重に行動してください」
「はい、十分注意いたします」
仁成は状況の深刻さを理解した。日本政府の外務大臣が、魔界との密輸に直接関与している。これは単なる盗難事件ではなく、国家レベルの機密事項に発展する可能性がある。
左手の紋章が急に熱くなった。田中大臣がこちらの方向を振り返った瞬間、仁成は彼女の瞳が一瞬紫色に光ったのを見た。
「誰かいるようですね」田中大臣の声が冷たくなった。
「え?」男性たちが慌てて辺りを見回した。
「隠密魔法を使っているようですが」田中大臣は微笑んだ。「残念ながら、私にはその程度の魔法は通用しません」
レイナードの顔が青ざめた。「魔族です」彼が小声で警告した。
田中大臣が手を軽く振ると、突然強い風が吹き抜けて、積み上げられた箱がいくつか倒れた。隠密魔法の効果が薄れ、三人の姿がぼんやりと見えるようになった。
「そこにいる皆さん」田中大臣が声をかけた。「せっかくお越しいただいたのですから、お話でもいかがですか?」
仁成の心臓が激しく鼓動した。逃げるべきか、それとも戦うべきか。頭の中が真っ白になった。
「仁成さん」レイナードが緊張した声で言った。「準備はいいですか?」
「大丈夫です」仁成は答えたが、声が震えているのが自分でも分かった。
田中大臣がゆっくりとこちらに歩いてきた。その瞳は完全に紫色に変わり、明らかに人間ではない存在であることを示していた。