凡人、潜入
翌朝、約束の時刻よりも三十分早く、仁成とクロエは指定された集合場所である倉庫街の駐車場に到着していた。前夜はほとんど眠れなかった仁成の顔には、疲労と緊張が混じった表情が浮かんでいる。
「やっぱり無理しない方がいいんじゃない?」クロエは心配そうに仁成の顔を覗き込んだ。「昨夜も言ったけれど、戦闘なんて危険すぎる」
「大丈夫」仁成は自分に言い聞かせるように答えた。「今回は後ろの方にいるから」
「でも」クロエは納得しきれない様子で続けた。「相手がどれほど危険かまだ分からないし、あなたに何かあったら私」
「クロエ」仁成は彼女の手を優しく握った。「僕だって、君を一人で危険な目に遭わせるわけにはいかない」
朝の冷たい空気が肌を刺すような秋の日だった。倉庫街には人気がなく、遠くから聞こえる工事音だけが静寂を破っている。コンクリートの建物が立ち並ぶ無機質な景観の中で、二人の吐息だけが白く立ち上っていた。
「あなたの気持ちは嬉しいけれど」クロエは仁成の手を両手で包んだ。「私は魔族なの。戦闘経験もあるし、魔法も使える。でもあなたは」
「僕は普通の人間だってことは分かってる」仁成は静かに言った。「でも、だからこそなんだ」
「どういう意味?」
仁成は遠くの山並みを見つめながら、ゆっくりと言葉を選んだ。「僕は今まで、困難なことや面倒なことから逃げ続けてきた。学校でも、バイトでも、人間関係でも、全部中途半端で終わらせてきたんだ」
クロエは黙って彼の言葉を聞いていた。
「でも君と出会って、魔界のことを知って、こんな世界があることを知ったら」仁成は振り返ってクロエの目を見た。「もう逃げたくないんだ。特に、君が関わることからは絶対に」
「仁成」クロエの瞳が潤んだ。
「それに」仁成は少し照れたように笑った。「使い魔契約のおかげで、少しは役に立てるかもしれないし」
その時、静寂を破るエンジン音が聞こえてきた。昨日と同じ黒いワンボックスカーが駐車場に入ってきて、続いて見慣れない車両も二台停車した。
リディアが助手席から降りてきて、手を振った。「お二人とも、おはようございます。早いですね」
「おはようございます」仁成とクロエが同時に答えた。
マルクスとトーマスも車から降りてきたが、他の車からは見知らぬ人物たちが現れた。全員が暗い色の戦闘服を着用し、明らかに普通の調査員とは異なる雰囲気を醸し出している。
「こちらが今回の特別チームです」リディアが紹介を始めた。「隠密行動と戦闘のスペシャリストたちです」
最初に紹介されたのは、アリスという名前の女性だった。二十代後半と思われる彼女は、短く刈り込んだ黒髪と鋭い緑色の瞳を持っている。身長は仁成とほぼ同じだが、全身から放たれる緊張感は圧倒的だった。
「よろしくお願いします」アリスの声は低く、感情を表さない。「今回の作戦では私が前衛を担当します」
「こちらはレイナードさん」リディアが次の男性を紹介した。「魔法戦闘の専門家です」
レイナードは三十代前半の痩せ型男性で、銀に近い金髪を後ろに撫でつけている。瞳の色は深い紫で、明らかに純粋な人間ではないことが分かった。彼が微笑むと、犬歯が通常より少し長いことに気づく。
「魔族の血を引いています」レイナードは仁成とクロエに自己紹介した。「魔法攻撃と防御を専門としています」
「そして、こちらがサイラスさん」リディアが最後の男性を紹介した。「情報収集と通信を担当します」
サイラスは二十代後半の男性で、眼鏡をかけた知的な外見だった。しかし、腰に装着された複数の通信機器や計測器具を見ると、彼もまた只者ではないことが分かる。
「よろしくお願いします」サイラスは丁寧にお辞儀をした。「前線での情報支援を担当させていただきます」
全員の紹介が終わると、マルクスがブリーフィングを開始した。
「昨夜の分析結果をお伝えします」マルクスは地図を広げた。「犯人の転送先は、間違いなくこの廃工場地帯です」
地図上の赤い円で囲まれた区域には、十数棟の廃工場が点在している。全て操業停止から五年以上経過しており、現在は無人の状態だった。
「魔力探知機での分析では」トーマスが技術的な説明を加えた。「特にこの三棟で強い反応が検出されています」
「三棟?」クロエが確認した。
「はい、建物A、B、Cと呼んでいますが」トーマスは地図上の建物を指差した。「それぞれ異なる特性の魔力反応があります」
アリスが戦術面での報告をした。「偵察の結果、建物周辺に見張りが配置されている可能性があります」
「見張り?」仁成は緊張した。
「人影は確認できませんでしたが」アリスは冷静に説明した。「定期的に魔力の移動反応があります。警戒態勢を敷いていると考えるべきでしょう」
レイナードが重要な警告を付け加えた。「相手が高位の魔術師であることは間違いありません。正面衝突は避けるべきです」
「では、どのような作戦で?」仁成が不安を隠しきれずに質問した。
「まず、三チームに分かれて同時に接近します」マルクスが作戦を説明した。「Aチーム:私、アリス、クロエさん。Bチーム:レイナード、トーマス、仁成さん。Cチーム:リディア、サイラスで情報支援」
「私は仁成と別々ですか?」クロエが心配そうに言った。
「申し訳ありませんが」マルクスは理解を求めた。「戦闘経験の差を考慮すると、この配置が最も安全です」
「仁成さんには極力戦闘に参加していただかないつもりです」レイナードがフォローした。「魔力探知に集中していただければ」
仁成は左手の甲を見た。紋章が微かに光っているのが分かる。
「分かりました」仁成は決意を込めて答えた。「足手まといにならないよう、気をつけます」
「無茶をしてはだめよ」クロエは念を押した。
「心配しないで」仁成は笑顔を作った。「君こそ、危険な目に遭わないでね」
準備を整えた一行は、徒歩で廃工場地帯に向かった。倉庫街から廃工場までは約一キロメートルの距離があり、途中には空き地や廃墟が点在している。
「通信はこの周波数で」サイラスが小型のインカムを全員に配布した。「緊急時はコード・レッドで即座に撤退してください」
歩きながら、アリスが戦闘時の注意事項を説明した。「相手の魔術レベルを考えると、瞬間移動や遠距離攻撃を多用してくる可能性があります」
「どのような対策を?」クロエが質問した。
「私とレイナードで魔法結界を展開します」アリスは答えた。「ただし、完全ではないため、常に警戒を怠らないでください」
廃工場地帯の入り口に近づくにつれて、空気の質が変わってきた。微かに金属臭が混じり、どことなく重苦しい雰囲気が漂っている。
「魔力の濃度が上がっています」クロエがソフトに報告した。「確実に魔族の活動拠点です」
「紋章の反応はいかがですか?」リディアが仁成に確認した。
「微かに温かく感じます」仁成は左手を見ながら答えた。「でも、昨日ほどではありません」
「距離がまだあるということですね」トーマスが分析した。
廃工場の外周柵に到着すると、全員が身を潜めた。錆びついた金網越しに、巨大なコンクリート建造物群が見える。窓ガラスの多くは割れ、蔦が壁面を這い上がっている。
「建物Aは正面の三階建て」マルクスが望遠鏡で確認しながら説明した。「建物Bは左側の倉庫型、建物Cは奥の円形タンク状の構造物です」
「どれから攻めますか?」アリスが戦術的な質問をした。
「まず建物Cから」マルクスが決定した。「魔力反応が最も強く、おそらく中枢部だと思われます」
レイナードが魔法で柵の一部を静かに開放した。金属が音もなく曲がり、人が通れる程度の隙間ができる。
「すごい」仁成は感嘆した。
「基礎的な金属操作魔法です」レイナードは謙遜した。「本格的な戦いになれば、もっと派手になりますよ」
一行は慎重に敷地内に侵入した。地面は雑草が生い茂り、所々にコンクリートの破片や錆びた機械部品が散らばっている。
「足音に注意してください」アリスが小声で指示した。「野生動物もいるかもしれませんが、人工的な音は避けましょう」
建物Cに近づくにつれて、クロエの表情がより深刻になった。
「魔力がさらに強くなっています」クロエは警告した。「複数の魔族がこの建物にいるようです」
「何人くらいですか?」マルクスが確認した。
「はっきりとは分かりませんが」クロエは集中して感知を続けた。「少なくとも三人、多ければ五人程度でしょうか」
「予想より多いですね」リディアが懸念を示した。
その時、仁成の左手の紋章が急に熱くなった。
「うっ」仁成は思わず声を漏らした。
「どうしました?」クロエがすぐに駆け寄った。
「紋章が急に」仁成は左手を押さえた。「熱くて」
レイナードとアリスが即座に警戒態勢を取った。
「敵に察知された可能性があります」アリスが判断した。
「撤退しますか?」サイラスが確認した。
「いえ」マルクスは冷静に決断した。「むしろ好機です。相手の注意がこちらに向いている今なら、一気に核心に迫ることができます」
「でも危険では?」クロエが心配した。
「確かに危険です」マルクスは認めた。「しかし、相手も警戒しているということは、ここに重要な何かがあるということです」
仁成の紋章の熱さは徐々に和らいできたが、代わりに微かな振動を感じるようになった。
「何か反応していますね」リディアが観察した。
「おそらく、建物内の魔族と共鳴しているのでしょう」レイナードが推測した。「紋章保持者特有の現象です」
「つまり、僕が近づけば相手も僕の存在に気づくということですか?」仁成が確認した。
「その通りです」レイナードは頷いた。「ただし、これは双方向の現象なので、相手の位置や状況もより詳しく把握できるはずです」
アリスが最終確認をした。「作戦を続行しますか?」
マルクスは全員を見回した。緊張した表情の中にも、それぞれが決意を固めているのが分かった。
「続行します」マルクスが決定した。「ただし、より慎重に行動しましょう」
クロエは仁成の手を握った。「絶対に無茶をしないで」
「君もだ」仁成は彼女の手を握り返した。「必ず一緒に帰ろう」
建物Cまでの最後の五十メートルを、一行は息を殺して進んだ。コンクリートの建造物は想像以上に巨大で、高さは三十メートル近くある。側面には数箇所の入り口があり、そのうちの一つから微かな光が漏れていた。
「あそこですね」マルクスが光の漏れる入り口を指差した。
「確実に人がいます」アリスが確認した。
「それでは」マルクスが最終指示を出した。「予定通りチーム分けで突入しましょう」
全員が頷き、それぞれの持ち場に向かった。いよいよ、事件の核心に迫る時が来たのだった。
仁成は緊張で喉が渇いているのを感じながら、レイナードとトーマスの後について建物の側面に回った。左手の紋章が継続的に振動しており、まるで心臓の鼓動のようだった。
「大丈夫ですか?」レイナードが心配そうに振り返った。
「はい」仁成は固く頷いた。「準備できています」
しかし内心では、これから遭遇するであろう未知の敵への不安で胸がいっぱいだった。それでも、クロエを守りたい、そして自分自身を変えたいという気持ちが、恐怖を上回っていた。
建物の影で待機しながら、仁成は深呼吸をした。今度こそ、逃げずに最後まで戦い抜く決意だった。