凡人、調査する
店の扉を開けると、鈴の音が響いた。店内は古い紙と革の匂いが混じった独特な香りに満ちている。天井まで届く本棚には、様々な言語で書かれた分厚い書物が並んでいた。
「いらっしゃいませ」奥から初老の男性が現れた。六十代前半と思われる店主は、丸眼鏡をかけ、グレーの髭を蓄えている。学者のような雰囲気を醸し出していた。
「昨日お電話でお話しした、調査会社の者です」マルクスが名刺を差し出した。「改めて、詳しい状況をお聞かせください」
「ああ、お忙しい中ありがとうございます」店主の田中は深々と頭を下げた。「本当に困り果てているんです」
リディアが手帳を取り出した。「まず、消失した書籍について教えてください」
「はい」田中は奥の机に向かい、資料を持ってきた。「十八世紀の錬金術書三冊です。『秘密の火』『賢者の石の探求』『金属変成の奥義』という貴重な文献でした」
「どのようにして入手されたのですか?」トーマスが質問した。
「古書のオークションサイトで見つけたんです」田中の目が輝いた。「三か月かけて競り落としました。特に『秘密の火』は世界に五冊しか現存しないと言われている超稀少本で」
「かなり高額だったのでしょうね」リディアが推測した。
「ええ、三冊で120万円でした」田中は苦笑いした。「老後の蓄えを随分使いましたが、これだけの本が手に入る機会はもう二度とないと思って」
仁成は同情的な視線を送った。生涯をかけて集めた本を盗まれた店主の心境を思うと胸が痛んだ。
「本が届いたのはいつ頃でしょうか?」マルクスが確認した。
「一週間前です。まだ店頭に並べる前だったんです」田中は悔しそうに語った。「バックヤードの特別な保管棚に置いていました」
クロエが首を傾げた。「店頭に並べる前なのに、どうして犯人は本の存在を知ったのでしょう?」
「それが一番不思議なんです」田中は困惑した表情を浮かべた。「誰にも話していませんし、インターネット上でも宣伝していませんでした」
「オークションサイトから内部情報が漏れた可能性は?」トーマスが鋭い質問をした。
「まさか!信頼のおける国家機関が運営元ですし、落札者についても全て秘匿されていますから、うちは家族経営で、私と妻だけです。妻は本の専門知識がないので、詳細な話はしていません」田中は首を振った。
マルクスはメモを取りながら続けた。「消失当日の状況を教えてください」
「三日前の午後二時頃でした」田中は記憶を整理するように話した。「私はカウンターで会計作業をしていて、妻は二階の整理をしていました」
「お客さんはいましたか?」
「いえ、その時間帯は誰もいませんでした」田中は断言した。「平日の昼間は滅多にお客さんが来ないんです」
リディアが重要な質問をした。「何かきっかけがあって、本の保管場所を確認されたのですか?」
「妻が『変な音がした』と言うので、バックヤードを見に行ったんです」田中の声が震えた。「そしたら、保管棚が空っぽになっていて」
「変な音?」仁成が身を乗り出した。
「『シュン』という、空気が抜けるような音だったそうです」田中は妻の証言を伝えた。「私は聞こえませんでしたが」
クロエとトーマスが意味深な視線を交わした。それは瞬間移動魔法特有の音だった。
「防犯カメラの映像は確認されましたか?」マルクスが続けた。
「はい、警察の方と一緒に見ましたが、何も映っていませんでした」田中は首を振った。「それに、バックヤードにはカメラがないんです」
「店内のカメラには、不審な人物は映っていませんでしたか?」
「いえ、当日の映像を全て確認しましたが、お客さんは朝の一人だけでした。常連の方で、いつもの雑誌を購入されただけです」
トーマスが技術的な質問をした。「電子機器に異常はありませんでしたか?レジやパソコン、照明など」
「特に気になることはありませんでした」田中は考え込んだ。「ただ、その日の夕方に店の電気がちらついたことがありますが、関係あるでしょうか?」
「可能性はあります」トーマスは慎重に答えた。「他に気になったことはありますか?どんな小さなことでも構いません」
田中は妻と相談するように奥を見た。「妻が言うには、その日の夕方から店内の空気が少し重く感じたそうです。湿気のせいかと思っていましたが」
クロエは店内を見回しながら、微かに残る魔力の痕跡を感じ取ろうとしていた。確かに、通常とは異なるエネルギーの残滓があった。
「店内を拝見させていただいてもよろしいでしょうか?」マルクスが許可を求めた。
「もちろんです。どうぞ」田中は快く応じた。
五人は店内を詳しく調査し始めた。マルクスは防犯上の死角を確認し、トーマスは電子機器周辺を調べた。リディアは本棚の配置や顧客の動線を分析していた。
仁成は左手の甲を時々見たが、紋章に特別な反応はなかった。しかし、バックヤードに近づくにつれて、何となく違和感を覚えた。
「クロエ、何か感じる?」仁成が小声で尋ねた。
「ええ」クロエは頷いた。「特にこの辺り」
二人がバックヤードの入り口付近に立つと、クロエの表情が険しくなった。
「強い魔力の残滓があります」クロエはリディアに報告した。「しかも、私達の知っている魔法とは少し違う特性を持っています」
「どう違うのですか?」リディアが詳しく尋ねた。
「通常の瞬間移動魔法は、移動先と移動元の両方に同程度の魔力痕跡を残します」クロエは専門的に説明した。「でも、ここには移動元の痕跡しかありません」
トーマスが興味を示した。「つまり、犯人は一方向の転送魔法を使ったということですか?」
「そのようです」クロエは確信を込めて答えた。「あるいは、転送先を特定されないような特殊な術式を使った可能性もあります」
「高度な技術が必要ですね」リディアが concern を示した。
調査を続けること三十分、新たな手がかりは見つからなかった。田中夫妻も協力的だったが、これ以上の情報は得られそうになかった。
「ありがとうございました」マルクスが田中に感謝を述べた。「何か進展があり次第、ご連絡いたします」
「よろしくお願いします」田中は深々と頭を下げた。「あの本たちが戻ってくることを祈っています」
書店を出た五人は、次の被害店舗である雑貨店に向かった。車内で、クロエが感じた魔力の特性について詳しく議論した。
「特殊な転送術式」トーマスが考え込んだ。「教科書には載っていない技術ですね」
「魔界でも、そんな高等技術を使える魔族は限られています」リディアが重要な指摘をした。「相当な実力者の仕業でしょう」
「バルザック派との関連も考えられますね」マルクスが推測した。
雑貨店『プチ・ボンヌール』は、住宅街の角に位置する小さな店舗だった。三十代の女性店主が、不安そうな表情で一行を迎えた。
「消失したのは輸入雑貨のセットです」店主の佐藤は説明した。「フランスから取り寄せた陶器とアクセサリーのセット、総額15万円相当でした」
「こちらも最近入荷したばかりでしたか?」リディアが確認した。
「はい、一週間前に届いたばかりでした」佐藤は頷いた。「まだ値札も付けていない状態で」
ここでも同様のパターンだった。新しく入荷した貴重な商品が、店頭に並ぶ前に消失していた。
コンビニエンスストア、文具店と順番に回ったが、どこも似たような状況だった。犯人は明らかに、各店舗の入荷状況を事前に把握していた。
「組織的な犯行の可能性が高いですね」マルクスが結論づけた。
夕方五時を過ぎた頃、一行は最後の調査地点であるアクセサリーショップ『グリッター』に到着した。繁華街の一角にある、富裕層から若い女性と幅広いアクセサリーを取扱っている専門店だった。
車を降りた瞬間、店の前で中年男性が慌てた様子で手を振っているのが見えた。
「あの方が店主の山田さんですね」リディアが確認した。
「皆さん!」山田が息を切らしながら駆け寄ってきた。「ついさっき、昨夜見かけた人物が店の裏から走り去るのを見ました!」
五人は驚いた。ついに犯人の痕跡を掴んだのだ。
「いつ頃のことですか?」マルクスが即座に質問した。
「十分前くらいです」山田は興奮気味に答えた。「裏口から黒い服を着た人物が飛び出してきて、東の方向に走って行きました」
「人相は分かりますか?」トーマスが詳しく尋ねた。
「暗くてよく見えませんでしたが、身長は170センチくらいの男性だったと思います」山田は記憶を整理した。「異常に速く走っていました」
マルクスは即座に決断した。「トーマス、私と一緒に追跡しましょう。まだそれほど時間が経っていません」
「分かりました」トーマスは調査機材をリディアに渡した。
「仁成さん、クロエさん、リディアさんは山田さんから詳しく話を聞いてください」マルクスが指示した。「私たちは周辺を捜索します」
「気をつけて」クロエが心配そうに言った。
「連絡を密にしましょう」リディアがインカムを確認した。
マルクスとトーマスは東方向に向かって駆け出した。二人とも魔族として人間以上の身体能力を持っているため、相当な速度で移動していく。
「では、店内でお話を伺いましょう」リディアが山田を落ち着かせた。
店内は色とりどりのアクセサリーで溢れていた。ネックレス、リング、ブレスレットなど、様々な装身具が美しくディスプレイされている。
「まず、昨夜目撃した人物について教えてください」リディアが本格的な聞き取りを開始した。
「昨夜十時頃でした」山田は思い出しながら語った。「店の片付けを終えて、裏口から出ようとした時に見かけたんです」
「どのような人物でしたか?」仁成が質問した。
「黒いコートを着た男性で、帽子を深くかぶっていました」山田は詳しく説明した。「顔はよく見えませんでしたが、普通の通行人とは明らかに違う雰囲気でした」
「どう違っていましたか?」クロエが興味深く尋ねた。
「歩き方というか、佇まいが独特でした」山田は適切な表現を探した。「まるで地面に足が着いていないような、フワフワとした感じで」
クロエの表情が変わった。それは魔族特有の移動方法の特徴だった。
「その人物は何をしていましたか?」リディアが続けた。
「店の周りをゆっくりと歩き回っていました」山田は不安そうに語った。「時々立ち止まって、店の中を覗き込んでいるようでした」
「どのくらいの時間、そこにいましたか?」
「十五分くらいでしょうか」山田は推測した。「私が見ていると気づいたのか、突然姿を消しました」
「消した?」仁成が驚いた。
「文字通り消えたんです」山田は真剣な表情で主張した。「一瞬で姿が見えなくなりました」
リディアとクロエが視線を交わした。これは間違いなく瞬間移動魔法の証拠だった。
「そして今日、同じ人物を見かけたということですね?」リディアが確認した。
「はい、間違いありません」山田は断言した。「あの独特な雰囲気は忘れられません」
クロエは店内を見回しながら、魔力の痕跡を感じ取ろうとした。確かに、他の被害店舗と同様の魔力の残滓があった。
「消失した商品について教えてください」リディアが聞き取りを続けた。
「新作のダイヤモンドネックレスです」山田は奥からファイルを持ってきた。「海外の有名ブランドの限定品で、価格は80万円でした」
「これも最近入荷したのですか?」
「四日前に届いたばかりでした」山田は頷いた。「まだ展示もしていない状態で、金庫に保管していました」
「金庫に保管していたものが消失したのですか?」仁成が驚いた。
「そうなんです」山田は呆然とした表情で説明した。「朝、金庫を開けたら空っぽになっていました。金庫には傷一つついていませんし、暗証番号を知る人は私だけです」
この事実は調査チームにとって衝撃的だった。金庫から商品が消失するということは、犯人の魔術レベルが想像以上に高いということを意味していた。
「他に気になったことはありませんか?」クロエが質問した。
「実は、ここ数日店内の温度が不安定なんです」山田は付け加えた。「エアコンの故障かと思ったのですが、業者に見てもらっても異常なしでした」
クロエは店内をより注意深く観察した。確かに、微妙な温度の変化を感じる。これも魔力の影響の可能性があった。
その時、リディアのインカムから連絡が入った。
「リディア、こちらマルクス」
「どうぞ」リディアが応答した。
「手がかりを発見しました。東に三ブロック離れた路地で、強い魔力の痕跡を検出しています」
「現在の状況は?」
「トーマスが詳細を調査中です。犯人はここで瞬間移動を使った形跡があります」
「分かりました。私たちもそちらに向かいます」リディアは決定した。
山田に礼を述べて、三人は店を後にした。指定された路地に向かう道中、クロエが重要な気づきを口にした。
「犯人は私たちの動きを監視していたかもしれません」
「どういうことですか?」仁成が尋ねた。
「私たちがここに到着する直前に姿を現したということは、偶然ではないでしょう」クロエは推理した。「意図的にタイミングを合わせた可能性があります」
リディアも同感だった。「挑発的な行動とも取れますね」
「犯人は私たちの存在に気づいているということですか?」仁成は不安になった。
「その可能性が高いでしょう」リディアは冷静に分析した。「しかし、それは犯人の正体に迫る好機でもあります」
路地に到着すると、マルクスとトーマスが計測器を使って何かを調べていた。
「お疲れさまです」リディアが声をかけた。
「ありがとうございます」マルクスが振り返った。「興味深い発見がありました」
トーマスが計測器の数値を読み上げた。「非常に強力な瞬間移動魔法が使用されています。しかも、転送先が異常に遠距離です」
「遠距離?」クロエが詳しく尋ねた。
「通常の瞬間移動は数キロメートル程度が限界ですが」トーマスは説明した。「この痕跡から判断すると、数十キロメートル先に転送された可能性があります」
「それほどの魔力を持つ魔族となると」リディアが推測した。「かなり限られてきますね」
マルクスが重要な情報を付け加えた。「そして、転送方向も特定できました」
「どちらですか?」仁成が身を乗り出した。
「南西方向です」マルクスは地図を広げた。「この方向には、廃工場地帯があります」
「廃工場地帯」リディアは thoughtful な表情を浮かべた。「隠れるには絶好の場所ですね」
「明日、そこを調査しましょう」マルクスが提案した。「ただし、今度は慎重に行動する必要があります」
「なぜですか?」仁成が質問した。
「犯人が私たちの存在を知っているなら、罠を仕掛けている可能性があります」マルクスは警告した。「十分な準備をしてから臨む必要があります」
夕日が街を赤く染める中、調査チームは今日得られた情報を整理しながら事務所に戻った。事件は大きく進展したが、同時により危険な状況に向かっていることも明らかになった。
車内で、クロエが深刻な表情で口を開いた。
「犯人の魔術レベルを考えると、単独犯ではない可能性があります」
「組織的な犯行ということですね」リディアが頷いた。
「バルザック派との関連も、どんどん濃厚になってきました」マルクスが憂慮した。
仁成は左手の甲を見た。紋章が微かに温かく感じられる。まるで、近づいてくる危険を察知しているようだった。
「明日は、いよいよ本格的な戦いになるかもしれません」リディアが全員に向けて言った。
「覚悟ができています」仁成は決意を込めて答えた。
「私たちなら大丈夫」クロエが仁成の手を握った。「一緒に真相を突き止めましょう」
夜が更けていく東京の街を背景に、五人の調査員は明日への決意を新たにしていた。