凡人、幽霊退治?
翌朝九時、仁成とクロエは約束通り魔族評議会事務所に向かった。昨夜はクロエの引っ越し準備で忙しく、二人とも少し眠不足だった。
「緊張するね」仁成は建物の前で深呼吸をした。
「私も」クロエは仁成の腕に軽く触れた。「でも、一緒なら大丈夫」
受付で名前を告げると、すぐにシルヴィーが現れた。今日は紺色のスーツを着て、髪を一つにまとめている。昨日よりもさらに大人びて見えた。
「おはようございます」シルヴィーは丁寧にお辞儀をした。「お二人とも、お時間通りですね」
「おはよう、シルヴィー」クロエが微笑んだ。
「今日は三階の会議室でブリーフィングがあります」シルヴィーは案内を始めた。「リディア様と他の職員の方々もいらっしゃいます」
エレベーターで三階に上がる間、仁成は改めて建物内の独特な雰囲気を感じていた。魔力特有の甘い香りと、どことなく電気的なざわめきが空気中に漂っている。
「慣れましたか?」シルヴィーが気遣うように尋ねた。
「まだ少し不思議な感じがします」仁成は正直に答えた。
「私も最初はそうでした」シルヴィーは理解を示した。「人間界と魔界、両方の魔力が混じり合っているので、敏感な方には影響があるんです」
廊下を歩いていると、昨日とは違う職員たちとすれ違った。皆プロフェッショナルな雰囲気を醸し出しているが、よく見ると人間とは微妙に異なる特徴を持っている者もいる。角の生えた男性、瞳の色が紫色の女性、異常に背の高い人物など、多様性に富んでいた。
「会議室はこちらです」シルヴィーが重厚な木製のドアの前で立ち止まった。
ドアをノックしてから入ると、楕円形のテーブルを囲んで六名ほどの職員が座っていた。テーブルの奥にはリディアがいて、仁成とクロエを見ると温かい笑顔を浮かべた。
「お二人とも、おはようございます」リディアが立ち上がった。「こちらへどうぞ」
シルヴィーの案内で、仁成とクロエはテーブルの片側に座った。向かい側には、初めて見る職員たちが並んでいる。
「それでは、皆さんにご紹介します」リディアが声をかけた。「こちらが並野仁成さんと、クロエさんです。今日から私たちのチームに加わっていただきます」
職員たちが一斉に頭を下げた。その中で、テーブルの中央に座る男性が特に目を引いた。四十代前半と思われるその男性は、深い緑色の瞳と銀髪を持ち、整った顔立ちながら左の頬に薄い傷跡があった。スーツの上からでも、がっしりとした体格が分かる。
「こちらは作戦部長のマルクス・ドラグーン」リディアが紹介した。「現場での指揮を担当しています」
マルクスは立ち上がり、仁成に向かって手を差し出した。
「よろしくお願いします」マルクスの声は低く、威厳がある。「紋章保持者としてお迎えできて光栄です」
「こちらこそ」仁成は間接を交わしながら答えた。マルクスの握力は想像以上に強く、魔族としての身体能力の高さを感じさせた。
「クロエお嬢様」マルクスはクロエに向き直った。「前魔王様にはお世話になりました。お嬢様にお仕えできることを嬉しく思います」
「ありがとうございます」クロエは丁寧に答えた。「父のことを覚えていてくださって」
「忘れるはずがありません」マルクスの表情が柔らかくなった。「素晴らしい王でした」
他の職員たちも次々と自己紹介をした。情報分析担当のエリカ、魔法技術担当のトーマス、渉外担当のサラなど、それぞれが専門分野を持つエキスパート集団だった。
「それでは、早速今日の案件についてお話しします」マルクスがテーブル中央のファイルを開いた。「都内で発生している連続商品消失事件です」
「商品消失?」仁成が首を傾げた。
「はい」情報分析担当のエリカが説明を始めた。黒髪をショートカットにした二十代後半の女性で、眼鏡をかけている。「過去二週間で、都内の様々な店舗から商品が忽然と消える事件が発生しています」
エリカはテーブルに地図を広げた。都内の地図に赤いピンが十数個刺さっている。
「被害に遭った店舗は書店、雑貨店、コンビニエンスストア、アクセサリーショップなど様々です」エリカは地図を指差しながら続けた。「共通点は、従業員が目を離した隙に商品が跡形もなく消えること」
「盗難とは違うのですか?」クロエが質問した。
「通常の盗難とは明らかに違います」マルクスが答えた。「防犯カメラには何も映っていない、アラームも作動していない、そして何より商品が文字通り『消失』しているのです」
「消失?」仁成は眉をひそめた。
「店員が商品棚を見て、一瞬目を逸らしてからもう一度見ると、商品がなくなっている」エリカは具体例を説明した。「まるで空気に溶けたように、痕跡すら残さずに」
「それは確かに異常ですね」仁成は納得した。
「警察に相談した店舗もありましたが」サラが苦い表情で言った。「『目撃者がいない』『証拠がない』という理由で、まともに取り合ってもらえませんでした」
「そこで、私たちに相談が持ち込まれたのです」リディアが経緯を説明した。「被害店舗の一つの経営者が、偶然私たちの存在を知っていました」
「どのような経緯で?」
「以前、店で起きた霊的な問題を私たちが解決したことがあったのです」マルクスが答えた。「それ以来、超自然的な問題が発生した際の相談先として認知されていました」
「なるほど」仁成は理解した。
「そして、昨日現場を調査したところ」トーマスが重要な情報を付け加えた。魔法技術担当の彼は、三十代前半の痩せ型男性で、常に何かの計測器具を持ち歩いている。「全ての被害店舗で、微量の魔力の残滓が検出されました」
クロエの表情が変わった。魔力の残滓という言葉に、重要な意味があることを理解したからだ。
「魔力の残滓ということは」クロエが慎重に尋ねた。「魔族が関与している可能性があるということですか?」
「その通りです」トーマスは頷いた。「しかも、残滓の特性から判断すると、瞬間移動系の魔術が使用された形跡があります」
「瞬間移動って本人が移動する方法しかないのかと思ってた」仁成は魔界での移動手段の一つとしての認識でしか無かった。
「今回は空間を歪めて、物体を一瞬のうちに別の場所に転送する魔術です」シルヴィーが説明した。「高等魔術の一つで、相当な技量が必要です」
「つまり、犯人は魔術で商品を盗んでいるということですね」仁成は整理した。
「盗難が目的かどうかはまだ分かりません」マルクスが慎重に言った。「商品の選択に一貫性がないのです」
「どういうことですか?」
「高価なものから安価なものまで、価値に関係なく消失しています」エリカが資料を見ながら説明した。「書籍、文房具、菓子、化粧品、アクセサリーなど、ジャンルもバラバラです」
「金銭目的ではない可能性が高いということですね」クロエが推測した。
「ええ」リディアが重々しく頷いた。「それが私たちが最も警戒している点です」
「なぜですか?」仁成が尋ねた。
「単なる盗難なら、人間界の法執行機関に任せればよいのです」リディアは説明した。「しかし、魔術が関与し、なおかつ目的が不明となると、より深刻な問題の前兆である可能性があります」
会議室に緊張した空気が流れた。全員が同じことを考えているようだった。
「前兆って」仁成が恐る恐る尋ねた。「何の前兆ですか?」
「人間界での魔族の活動が活発化している可能性です」マルクスが率直に答えた。「それも、評議会の許可を得ない、非公認の活動である可能性が高い」
クロエはバルザック派のことを思い出した。彼らが人間界で何らかの工作活動を行っているという話があった。
「バルザック派との関連も考えられるということですか?」クロエが直接的に質問した。
「可能性は否定できません」リディアが慎重に答えた。「ただし、確証はありません」
「いずれにしても」マルクスが立ち上がった。「大きな問題に発展する前に、事態を収束させる必要があります」
「具体的にはどのような作戦で?」仁成が実践的な質問をした。
「まず、被害店舗の詳細調査です」トーマスが答えた。「魔力の残滓をより詳しく分析し、犯人の特定につながる手がかりを探します」
「それから、現場での張り込み調査」マルクスが続けた。「犯行のパターンを分析し、次の犯行を予測して現行犯逮捕を試みます」
「仁成さんとクロエさんには」リディアが二人に向き直った。「まず被害店舗の調査に同行していただきます」
「私たちに何ができるでしょうか?」仁成が謙虚に尋ねた。
「クロエさんは魔力の残滓を感知する能力に優れています」トーマスが説明した。「機械では検出しきれない微細な魔力の変化も察知できるはずです」
「そして仁成さんの紋章は」リディアが付け加えた。「魔族の存在に反応する場合があります。犯人が近くにいれば、何らかのサインがあるかもしれません」
仁成は左手の甲を見た。紋章が薄く光っているのが分かる。
「分かりました」仁成は决意を込めて答えた。「やってみます」
「危険はありませんか?」クロエが心配した。
「基本的には調査のみです」マルクスが保証した。「私とトーマスも同行します。万一の際には全力でお二人を守ります」
「ありがとうございます」クロエは安心した様子を見せた。
「それでは、午後から最初の現場調査を開始します」リディアが予定を確認した。「お昼を食べてから、渋谷の書店から始めましょう」
「書店ですか?」仁成が確認した。
「はい、『リブロ・マジカ』という専門書店です」エリカが資料を読み上げた。「古書や稀覯本を扱っている小さな店舗です」
「そこで何が消失したのですか?」クロエが質問した。
「十八世紀の錬金術書が三冊」エリカは詳細を説明した。「いずれも非常に貴重な文献で、店主によると合計で100万円以上の価値があるそうです」
「錬金術書」仁成は興味深そうに繰り返した。
「それも気になる点の一つです」トーマスが指摘した。「他の被害商品は日用品が多いのに、この店舗だけ専門的な書籍が標的になっています」
「犯人が錬金術に関心を持っている可能性があるということですね」クロエが推測した。
「あるいは、特定の情報を求めていた可能性もあります」マルクスが付け加えた。
「情報?」
「古い錬金術書には、現代の魔法理論にも通じる技術が記載されていることがあります」シルヴィーが説明した。「もし犯人が何らかの魔法的な計画を立てているなら、そうした知識が必要だったのかもしれません」
会議室の空気がさらに重くなった。単なる盗難事件ではなく、より深刻な陰謀の一部である可能性が浮上してきたからだ。
「まずは現場を見てから判断しましょう」リディアが冷静に言った。「推測だけでは解決になりません」
「そうですね」仁成は頷いた。
「では、午後一時にここに集合してください」マルクスが最終確認をした。「調査用の機材も準備しておきます」
「私たちは何を持参すればよいでしょうか?」クロエが実践的な質問をした。
「特に必要ありません」トーマスが答えた。「ただし、動きやすい服装でお願いします」
「分かりました」
会議が終わり、職員たちが次々と席を立った。仁成とクロエは少し遅れて立ち上がった。
「緊張しましたね」仁成がクロエに小声で言った。
「ええ」クロエは頷いた。「でも、みんな私たちを信頼してくれているのが分かりました」
「頑張らないと」
「大丈夫」クロエは仁成の手を握った。「私たちならできる」
その時、シルヴィーが近づいてきた。
「お疲れさまでした」シルヴィーは微笑んだ。「初めての会議はいかがでしたか?」
「思っていたより本格的でした」仁成は正直な感想を述べた。
「皆さんプロフェッショナルですからね」シルヴィーは誇らしそうに言った。「でも、とても親切な方ばかりです」
「マルクスさんは少し怖そうでしたが」仁成が率直に言った。
「見た目は厳しそうですが、実はとても優しい人なんです」シルヴィーがマルクスをフォローした。「前魔王様の親衛隊長を務めていた方で、クロエ様のことも昔から知っています」
「そうなんですか?」クロエが驚いた。
「ええ。クロエ様が小さい頃、よくお城で遊んでもらったでしょう?」シルヴィーが思い出を語った。
「あの時の騎士のおじさんががマルクスさん?」クロエの記憶がよみがえった。「随分印象が変わりましたね」
「戦いで負った傷の影響で、表情が硬くなってしまったのです」シルヴィーは説明した。「でも、心は昔と変わりません」
「そうだったんですね」仁成は理解した。
三人は会議室を出て、廊下を歩いた。昼食の時間帯だったため、職員たちが食堂に向かう姿が見える。
「私たちも一緒に食事をしませんか?」シルヴィーが提案した。「食堂のメニューは美味しいですよ」
「お言葉に甘えます」クロエが答えた。
食堂は四階にあり、ゆったりとした空間にテーブルが並んでいる。窓からは都市の景色が見え、自然光がたっぷりと入ってくる。
カフェテリア形式になっており、様々な料理が並んでいる。人間向けの料理もあれば、明らかに魔族向けと思われる色鮮やかな料理もある。
「これは何ですか?」仁成が紫色のスープを指差した。
「魔界の野菜で作ったスープです」シルヴィーが説明した。「栄養価が高くて、魔力の回復にも効果があります」
「人間が飲んでも大丈夫ですか?」
「もちろんです」シルヴィーは微笑んだ。「むしろ、疲労回復に良いと思います」
仁成は好奇心に駆られて紫色のスープを選び、クロエは魔族向けの肉料理、シルヴィーはサラダを中心とした軽い食事を選んだ。
テーブルに座って食事を始めると、仁成は紫色のスープの美味しさに驚いた。見た目に反して、優しく上品な味わいだった。
「本当に美味しいですね」仁成は感動した。
「魔界の食材は人間界では手に入らないものなので、貴重な体験ですよ」シルヴィーが嬉しそうに説明した。
「そうだ!今度、魔界の家庭料理をご馳走しますね」シルヴィーが提案した。
「楽しみにしています」仁成は答えた。
食事をしながら、三人は午後の調査について話し合った。
「書店での調査、何に気をつければよいでしょうか?」クロエが質問した。
「まず、店内の魔力の分布を確認します」シルヴィーが説明した。「犯人がどこから侵入し、どの経路で商品に接触したかを推定するのです」
「紋章の反応にも注意を払ってください」シルヴィーは仁成にアドバイスした。「もし犯人の魔力の痕跡に反応すれば、重要な手がかりになります」
「分かりました」仁成は頷いた。
昼食を終える頃に、リディアが食堂に現れた。
「お疲れさまです」リディアが三人のテーブルに近づいた。「午後の準備はいかがですか?」
「おかげさまで万全です」仁成は答えた。
「それは良かった」リディアは安心した表情を見せた。「実は、追加の情報が入ったのです」
「追加の情報?」クロエが身を乗り出した。
「被害店舗の店主の一人から連絡がありました」リディアは重要そうに語った。「昨夜、店の近くで不審な人物を目撃したそうです」
「不審な人物?」仁成が興味を示した。
「詳細はまだ分かりませんが、通りがかりの人とは明らかに異なる雰囲気の人物だったとのことです」リディアは説明した。「午後の調査で、詳しく聞き取りをする予定です」
「事件解決の突破口になるかもしれませんね」シルヴィーが希望的に言った。
「そうなることを期待しています」リディアは頷いた。「それでは、一時に一階のロビーで集合してください」
午後一時、約束通り仁成とクロエは一階のロビーで待機していた。すぐにマルクス、トーマス、そしてリディアが現れた。三人とも調査用の鞄を持参している。
「それでは出発しましょう」マルクスが声をかけた。「現場まで私の車で向かいます」
建物の地下駐車場には、黒いワンボックスカーが停まっていた。一見普通の車だが、よく見ると独特な装飾が施されている。
「この車も魔法的な改良が加えられています」トーマスが説明した。「魔力の遮断機能や、緊急時の防御機能などが備わっています」
「すごいですね」仁成は感心した。
車内は思っていたより広く、後部座席には調査機材が整然と配置されている。仁成とクロエは中央の席に座り、マルクスが運転席、リディアが助手席、トーマスが最後部の席に座った。
「書店までは約三十分です」マルクスが運転を開始した。「その間に、現場での注意事項を説明します」
車が地上に出ると、東京の街並みが窓の外に流れていく。平日の午後らしく、程よい交通量だった。
「まず、店舗の方には私たちの正体は明かしていません」リディアが説明を始めた。「一般的な調査会社として活動していますので、魔法に関する発言は控えてください」
「分かりました」仁成とクロエが同時に答えた。
「調査中は私が主導します」マルクスが続けた。「お二人は観察に集中してください。何か気になることがあれば、後で報告してもらいます」
「魔力の感知については」トーマスが付け加えた。「クロエさん、できるだけ详細に状況を記憶しておいてください。後で分析に役立てます」
「はい」クロエは緊張した面持ちで答えた。
車は渋谷の繁華街を抜けて、比較的静かな住宅地に入った。古い建物が立ち並ぶ一角に、小さな書店があった。
「あそこです」マルクスが指差した。
『リブロ・マジカ』という看板が掛かった二階建ての建物は、年代を感じさせる佇まいだった。一階が書店になっており、大きなガラス窓から店内の本棚が見える。
「思っていたより小さな店ですね」仁成がつぶやいた。
「個人経営の専門書店ですから」リディアが説明した。「しかし、扱っている書籍は非常に貴重なものばかりです」
車を近くのコインパーキングに停めて、五人は書店に向かった。
店の前に立つと、クロエの表情が変わった。
「どうしたの?」仁成が心配そうに尋ねた。
「魔力の残滓を感じます」クロエは小声で答えた。「確かに、強力な魔法がここで使われた痕跡があります」