凡人、猫を拾う
並野仁成は、自分の人生を漢字一文字で表現するなら「凡」だと思っていた。
身長一七二センチ、体重六五キロ。黒髪に黒い瞳、どこにでもいる顔立ち。大学は中堅私立、就職先も中小企業。年収も三百万円台で、これといった特技もない。恋人はいないが、特別モテないわけでもない。要するに、何もかもが平均的すぎて、電車の中で隣に座っても誰も覚えていないような男だった。
そんな仁成の平凡な日常が崩れ落ちたのは、三月の肌寒い夜のことだった。
「並野さん、申し訳ありませんが、来月末で退職していただくことになりました」
人事部長の黒井の言葉は、まるで他人事のように淡々としていた。理由は経費の不正使用。もちろん身に覚えはない。実際にやったのは同期の裏部だということも知っている。しかし裏部の父親は取引先の役員で、仁成はただのしがないサラリーマン。どちらの首を切るかなど、考えるまでもなかった。
「証拠は?」仁成は震える声で尋ねた。
「こちらにありますよ」黒井は資料を差し出した。「あなたの署名入りの領収書です」
筆跡は巧妙に真似されていた。裏部の几帳面な性格を知っている仁成には、こうなることまで計算していたのだとわかった。
「異議申し立ての権利はありますが、会社としてはこの件をあまり大きくしたくないんですよ。穏便に済ませていただければ、退職金は満額お支払いします」
つまり、黙って諦めろということだった。
仁成は何も言えなかった。言葉が喉に詰まり、ただ頷くしかできなかった。その後の記憶は曖昧だった。気がつくと、近所の公園のベンチに座り込んでいた。
三月の夜風は冷たく、街灯の下には桜のつぼみが小さく膨らんでいた。もう少しで開花だというのに、仁成の心は真冬のように凍えていた。
「クソが」
呟いた言葉は夜の静寂に吸い込まれていく。裏部のふてぶてしい笑顔が脳裏に浮かんだ。きっと今頃は居酒屋で同僚たちと乾杯しているのだろう。「並野のやつ、ついにクビになったらしいぜ」なんて笑い話にしながら。
ガアアアア。
突然、鳴き声が響いた。見上げると、街灯の上にカラスが止まっている。その下の茂みで、小さな黒い影がもがいていた。
「にゃあ、にゃあ」
猫の鳴き声だった。カラスは執拗に茂みの中を突いている。仁成は立ち上がった。
「おい、やめろ!」
手を叩くと、カラスは一度振り返ったものの、すぐに攻撃を再開した。仁成は近くに落ちていた小石を拾い、カラスめがけて投げつけた。石はカラスの翼をかすり、ようやく飛び立っていく。
茂みを覗き込むと、手のひらほどの黒猫がいた。生後数ヶ月といったところだろうか。左の前足から血が滲んでいる。
「大丈夫か?」
猫は仁成を見上げて、小さく鳴いた。黄色い瞳に映る街灯の光が、なぜか涙のように見えた。
仁成は猫を抱き上げた。思ったより軽く、心臓の鼓動が手のひらに伝わってくる。
「とりあえず、病院に行こう」
夜間救急の動物病院を検索し、タクシーを呼んだ。運転手は嫌な顔をしたが、追加料金を払うと渋々承諾してくれた。
病院での診察は意外にもあっさりとしたものだった。
「外傷は浅いですね。消毒して絆創膏を貼っておけば大丈夫です」白衣の獣医は淡々と説明した。「栄養失調気味ですが、命に別状はありません。野良猫でしょうか?」
「多分」仁成は答えた。「拾ったばかりなので」
「でしたら、保健所か愛護団体に連絡を」
「わかりました」
だが、仁成に保健所に連れて行く気はなかった。なぜかはわからないが、この小さな命を手放したくなかった。今の自分と同じように、誰からも必要とされていない存在だからかもしれない。
「里親が見つかるまで、うちで預かります」
獣医は驚いたような顔をしたが、猫用のミルクとキャットフードを分けてくれた。
仁成の住む部屋は安月給というのもあって見た目1LDKではあるがリビングは6畳と少し狭い。猫は最初こそ警戒していたが、温かいミルクを飲ませると安心したのか、仁成の膝の上で丸くなって眠ってしまった。
「お前も大変だったんだな」仁成は猫の頭を撫でながら呟いた。
翌日から、仁成の生活は一変した。朝は猫にミルクを与え、日中は里親探しという名目で近所を散歩し、夜は一緒にテレビを見る。猫は人懐っこく、仁成の後をついて回った。
一週間が過ぎた頃、仁成は本格的に里親探しをする気が失せていた。この小さな同居人がいることで、無職の憂鬱が少しだけ和らいでいたからだ。
「お前、名前がないとな」
猫は仁成の膝の上で、黄色い瞳を向けた。
「クロでどうだ?安直すぎるか?」
その夜、アルコールにめっぽう弱い仁成だったが、久しぶりに酒を飲んだ。缶チューハイを三本空けて、ほろ酔い気分で猫に話しかけた。
「なあ、クロ。俺ってついてないよな?」
猫は仁成の膝の上で、じっと見上げている。
「真面目にやってきたつもりなのに、最後は濡れ衣着せられてクビだぜ?理不尽だと思わないか?」
クロは小首を傾げた。
「でもさ、お前と出会えたのは良かったよ。お前がいなかったら、俺、どうなってたかわからない」
酒が回って、気分が高揚してきた。
「お前だって、カラスに襲われて大変だったろ?でも俺たち、今はこうして一緒にいる。これも何かの縁かもな」
そのとき、猫がゆっくりと口を開いた。
「その通りね、仁成」
仁成の手がピタリと止まった。酒の酔いが一気に醒める。
「今、喋った?」
「喋ったわよ」クロは人間の言葉で答えた。「驚いている場合じゃないの。あなたに話さなければならないことがあるのよ」
仁成は猫を膝の上から慌てて降ろした。立ち上がろうとしたが、足がもつれて尻もちをついた。
「待て、待てよ。猫が喋るなんて、そんな馬鹿な」
「現実を受け入れなさい」クロは端正な声で言った。「私は普通の猫じゃない。魔界の王族よ」
「魔界?王族?」仁成は混乱していた。「何それ、アニメの見すぎか?」
「冗談じゃないわ」クロの声に厳格さが込められた。「私の父は先代魔王リヴァイアス。母は人間界の魔術師よ」
仁成は壁に背中をつけて座り込んだ。
「魔王って、あのロールプレイングゲームとかでよく勇者と戦うラスボス的な?」
「こっちの世界で言ったらまあ、そう言った存在ね。でも父は三年前に亡くなった。跡継ぎ争いが激しくて、私は命を狙われたの。それで一年前に人間界に逃げてきた」
クロは仁成に近づいた。
「でも追手が近づいている。私一人じゃもう限界なの」
「だから俺に?」
「あなたには見ところがあるわ」クロは断言した。「私を助けてくれた時の勇気。一週間私を世話してくれた優しさ。そして今、現実離れした話を聞いても逃げ出さない度胸」
仁成は頭を抱えた。
「無理だよ。俺はただの平凡な人間だ。魔王の娘を守るなんて、そんな大それたこと」
「大丈夫よ」クロの声は優しくなった。「私があなたに力を授ける。でも、その前に決めてもらわなければならないことがあるの」
クロは仁成を見つめた。黄色い瞳が、暗い部屋の中で金色に光って見えた。
「私と契約を結んで、魔界の争いに関わるか。それとも普通の人間として生きるか」
仁成は沈黙した。選択を迫られている。平凡で安全な日常か、危険だが意味のある冒険か。
「決めるのはあなたよ、仁成」
クロの言葉が、静寂の中に響いた。