第1章 春風と窓枠とネコ
「ネコの寿命は、長くても20年らしい。」
午後13時17分。太陽が西に傾き始める頃、チョークが黒板を擦る音だけが響く教室で、俺はぼんやりと校庭を横切る茶色の野良猫を眺めながら、そんなことを考えていた。
つい先月、中学の卒業式で「仰げば尊し……」を口ずさんでいた俺は、猫年齢で言えばもう高齢者らしい。
海辺の町にあるこの高台の高校にはは、春風がじんわりと潮の香りを運んでくる。
だからかもしれない。匂いが鼻腔を出入りするたびに、港で漁師に魚をねだって「にゃーにゃー」している、デブ猫の記憶が脳裏をよぎる。あの猫の穏やかな日常が、なぜか羨ましくてたまらない。
──はあ……。
「なんで俺は、猫なんかに嫉妬してるんだ?」
人類の叡智を引き継いだはずのこの脳みそで、俺はいま、猫に負けた気がしている。
でもそんな滑稽な感情も、分厚い教科書のページをめくって、未来の不確定さに立ちすくむ自分を俯瞰するうちに、だんだんと笑えなくなってくる。
理想と現実の狭間で屁理屈をこねくり回す。──これが俺の「アオハル」だ。退屈な月曜の午後、授業中の窓枠に浮かぶ雲の変化を観察しながらの、静かな思考実験。
有意義なはずだ。と、思いたい。
学生生活をよりよい記憶にするためには、自分で自分を納得させるのが一番、都合がいい。
授業も中盤に差し掛かり、葛藤を学生の本分である勉学に昇華させようと、自分の心情を心の深層にギューと仕舞い込もうと目を閉じる。ゆっくり確実に、現実に思考をシフトしてゆく...
その瞬間、突然にメガネ教師が授業の静寂を切り裂いた。教卓の人員名簿と席の配置を確認して、赤いチョークの先端を俺に向けながら、
「零治君...!」
と一言。感情の欠乏した、いかにも冷静で官僚的なフレーズだ。
俺はギョッと目を見開き、体感的には30秒くらい思考が停止する錯覚に陥る。メガネ教師が次に口を開いた時、どんな言葉が飛び出すんだろうかと思考停止したが、とりあえずここは冷静を繕っておこうと決意して答える。
「はい...」
と間の抜けた返事。
俺はクラスメイトという名の観衆たちの視線を一身に受け止める。
メガネの上顎と下顎がゆっくり開き、無駄に白い歯が日光を反射し始める。正直、「ホワイトニングのしすぎだろ!」とは、多分その時は考えなかった。
「顔を洗ってくるか、立って授業を受けるか選びなさい。」
なんということだろう。その時、静かな言葉の矢が、メガネ教師の喉から、白い犬歯の間を通って、空気の振動として時速約1224kmで打ち出された!
(これは客観的立場のクラスメイトからすると、とても常識的で的確なオトナの対応だ...)
うっ...!(ぐうの音も出ない言葉により俺のHPが7割減少して心のレッドラインが迫る)
肝がギョギョッと冷えて、暑くもないのに汗が背中に生じた。もはや全てを受け入れようと、この時ようやく決意する。
メガネ教師よ、おめでとう。命中だ!メガネ教師の冷静な言葉は、見事に俺の鼓膜を貫いて、心のファイアウォールをするりと躱わしながら脳内への侵入に成功した...!俺の心臓の鼓動は急激にポンプを開始する。血液の循環が、脳の前頭前野と海馬に集中して現状打破を必死に模索し始めた。
もはや、これが夢であると信じたかった。新学期で絶妙に一体性に欠けているクラスメイト達にも、ところどころ小規模な友情感が芽生え始めたようだ。教師の言葉に共鳴してほんの少しざわめく。
だから、この教室の静かに緊迫した空気感から1度抜け出そうと考え、もっともらしい返答を行う。
「あの...すみません...トイレ行ってきます。」
これにより、俺の負けが確定した。まあ、初めから負け戦...というか、教師VS生徒の構図で俺に勝ち目があるわけ無いよな。
クラスメイトの視線を回避するようにいそいそと立ち上がり、平静を繕って教室の出入り口へ歩いていく。
ああ、こんな時、窓際の席から廊下までは7〜9mくらいの距離があるのがさらに俺の機嫌を損ねる。その間約7秒。扉まで接近に成功して、ついにこの地獄の閉鎖空間から脱出する。
誰もいない廊下の、「清らかな」空気を吸い込む。
きっと俺の心のオーディエンスたちは、スタンディングオベーションに湧いている事だろう。そしてトイレの個室でひとときのプライベート空間を展開して心情を整理する。
俺はただ、昼過ぎ一番目の授業中に自前の哲学をフル展開したのちに、思考の爆発的拡大を利己的な論理の帰結によって深層意識に押し詰めたかっただけなのに。しかも、学生の本分という原理原則に則って、現実にシフトするためにちょっとだけ瞼の裏の暗黒を感じたかった...。
それだけなのに!
あの恐ろしく速い情報操作...あの「メガネ」の冷静な対応ときたら!俺が授業中に堂々と居眠りを行ったという印象をクラス中に波及するという意味では一流のフェイクニュース拡散能力を持っているようだ。
速やかに突発災害的な精神の乱れを丁寧に取り繕って、俺は教室に戻った。特に何事もなかったかのようにチョークの擦れる音とメガネ教師の冷静な論調だけが響いている。
席に着くとなぜか、悪夢から醒めたような安心感と清々しさを感じた。
俺の存在を寛大に受け入れてくれる教育現場的の事務的な雰囲気がとても心地よい。そして、穏やかな時間の矢は宇宙のプログラムに従ってゆっくりと俺の1日を刻んでいくのだ。
ふと、「幸せ」とは、言葉というパズルのピースの主観的な「安心感」に、優しい論理の色彩を着色しただけなのかもしれない。と、じんわり思った。
気が付けば、教室の窓枠の中でサンサンと輝いていた太陽は西の方にある山脈の影に隠れようとしていた。夕焼け色の太陽の1/3ほどが隠れ、今日も俺の黒い影が相対論的に伸びる。
そして、
「高校生としての約1095分の1日が終わっていく。」
午後17時52分。卓球部の先輩に誘われた仮入部体験を終え、汗を拭いながら教室へ戻る。別れのワルツを心の片隅で幻聴的に流しながら、自転車の冷たいディスクシリンダーキーを机の引き出しから取り出して、ポケットに入れた。
教室を出て、校庭の隅っこにある駐輪場までたどり着く。中学から使っている、青くてところどころ錆びついた自転車のシリンダーを回して、跨る。ちょっとばかし左足で助走をつけて、右足でペダルを強く踏む。
月の明かりが太陽に変わって街を優しく照らし始めた。俺は校門を疾風のように通過して、まだ少し暖かいアスファルトの道路を自転車の黒いタイヤで踏み締める。夕暮れをブロックダイナモライトのイエローな光線で切り裂きながら、6km先にある地方都市のはずれにある32階建ての学生用アパートに向かって今日もペダルを何千回も漕いでいく。見上げれば、α星アルデバランの眩い夕暮れだった。