四日目・朝
朝の光を浴びながら、車を走らせる。
風はまだ冷たく、道路には通勤の車もまばらだった。
いよいよ、この小さな旅も残り二日。
今日は、朝イチから「遊び」に行く予定だった。
早起きして、コーヒーも購入し、準備万端。
娘と二人、楽しみにしていた場所へ向けて――順調に車を走らせていた。
……はずだった。
けれど、問題が発生した。
完全に、やらかした。
昨晩、AIで調べた情報をもとにルートを組んだ。
距離も悪くないし、所要時間もクリア。
なのに、近づくにつれて、妙な違和感が込み上げてくる。
ナビは「目的地周辺」と示している。
けれど、そこに「行ける道」がない。
改めて地図を見直す。
たしかに、目的地は目と鼻の先にある。
――が、その間には、山。もしくは崖。
つまり、「すぐそこ」なのに、「行けない」。
正確には、“徒歩や車ではたどり着けない”。
電車専用のルートに沿った観光地だったのだ。
「なんで遊べないの?」
「なんで行けないの? 近くにあるのに……」
助手席から、ぽつりぽつりと飛んでくる疑問の声。
言葉はやさしいけれど、刺さる。
昨晩、「楽しみだね」って二人で盛り上がったぶん、なおさらだ。
「……ごめん。本当に、ごめん」
ひたすら謝りながら、頭をフル回転させる。
どうする? どう立て直す?
車を少し戻して、コンビニの駐車場に停める。
ふぅ、と深呼吸。
金と時間をかければ、楽しいことはできる。
けれど、果たしてそれは「今」でなければならないのか。
記憶に残る出来事にするには?
お金で「楽しい」を買うのではなく、今しかできない「何か」に変えるには?
かつての旅、失敗、経験――いろんなものが頭の中を巡っていく。
そして、出た結論は――
「山に登ろう」
唐突だった。でも、そこには自分なりの確信があった。
予定が崩れたのなら、いっそ遊びを挑戦に切り替えてみよう
たぶん登り切れない、だが、こいつの負けん気がどこまで行けるのかを見てみたい。
お金で得た“楽しい記憶”なんて、たぶんそのうち忘れてしまう。
だったらいっそ、金を使わず――でも、忘れられない“キッツイ冒険”を選ぼうじゃないか。
「ん?」と、娘が小さく首をかしげる。
怪訝そうな顔を見たところで、すかさず“魔法の一言”を投げかける。
「最高の冒険、しに行こうぜ」
「いいわねぇ!」
……即答である。
ちょろすぎて、ちょっと将来が心配だ。
方針が決まり、エンジンを再始動。
目的地は少し距離があるので、娘にはお土産でもらったパンを渡す。
「食べて、少し寝とけ。最高の冒険にそなえてな」
早起きのせいか、少しもじもじしたあと、しばらくして静かな寝息が聞こえてきた。
移動は順調に進んだ。
目的地まで、あと40分というところでパーキングに車を寄せ、一度車外へ。
大きく伸びをした、その瞬間――
「……うぐっ、腰が……」
嫌な痛みが、背中をビリッと走る。
……ああ、これはヤバいやつだ。
急いで車に戻り、湿布を腰にぺたりと貼る。
正直、使うとは思ってなかった。でも――持ってきててよかった。旅の経験、侮れない。
そのあと、娘を起こしてトイレへ向かわせる。
「しっかり出してこいよー!」と背中に声をかけて見送る。
だが、待てどもなかなか戻ってこない。
しばらくして、見知らぬ女性と一緒に戻ってきた娘。
鼻にはティッシュが詰まっていた。
どうやら、鼻血を出したらしい。
「鼻がこちょこちょしたから、ほじったら出た~」
と、本人はまったく悪びれず、けろりと言う。
……困ったもんだ。
助手席に乗せ、少しだけ声を落として話しかける。
「いいか、ちゃんと聞けよ。
これ以上血が止まらなかったら――冒険は、ここで終わりだ。
……ほんとに、終わりだからな?」
娘はシュンとしながら、真剣にうなずいた。
車がふたたび走り出す。
しばらく進むと、鼻血はすっかり止まったようだった。
「ちょっとだけ、タブレット見ていい?」とたずねてくる。
「いいぞ」と返し、静かな時間が戻る。
そして、車窓の向こうに――山が見えてきた。
「おっ、見えてきたぞ! あれだ、でかいだろ? てか、あの白いの……上、雪か!?」
少し興奮気味に助手席の娘に声をかける。
けれど娘はタブレットの画面に夢中で、反応がない。
……完全に無だ。
もう一度、少し声を張って言ってみる。
「おーい、外見てみろよ。すごいぞー」
「んー」
返事はあった。でも、目線は画面に釘付けで、窓の外には向かない。
まったく興味を動かされていない様子だった。
胸の奥に、じわりと黒い感情が溜まっていく。
だが、冷静に、冷静に――自分に言い聞かせる。
これは怒るべき状況なのか?
それとも単に八つ当たりをしているだけなのか。
わからない。ただ、言うべきことは言わなければいけない気がした。
感情を抑え、ゆっくりと静かな声で伝える。
「なぁ……。一緒に楽しむために、あれこれ考えてここを選んだんだ。
一人だけの世界を楽しむんなら、今じゃなくてもいいんじゃないか?」
――そこで止めるつもりだった。
けれど胸の奥の黒い何かが、さらに余計な一言を押し出してしまった。
「そんなにタブレットが面白いなら、このまま家に帰るほうがいいんじゃないか?」
言い終わった瞬間、空気が変わったのがわかった。
助手席の娘が、ぴたりと動きを止める。
画面をじっと見つめたまま、しばし沈黙――
やがて小さく息をつき、静かにタブレットを閉じると、膝の上でゆっくりバッグへとしまった。
その様子を横目で見て、自分の胸にじわりと鈍い痛みが広がる。
……やっちまったな。
せっかく楽しい時間を作ろうとしていたのに、
車内の空気は氷点下のように冷え込んでしまった。
ただ、沈黙だけが重く漂っている。
何か、言わなければいけない。
でも頭に浮かんでくるのは、説教めいた言葉ばかりだった。
唯一の救いは――
怒鳴り声にはならなかったことだ。
冷静に話せていたと、自分を信じたい。
少し間を置いて、静かに問いかける。
「なあ……なんで怒られてるかわかるか?」
小さな声が返ってきた。
「……タブレット、ずっと見てたから」
わかっているんだな、ちゃんと。
――そうだ。
こいつも、俺と同じなんだ。
一度集中し始めると、周囲の声が本当に聞こえなくなる。
俺も、高校くらいの頃にはもう自覚していたけど、
一度スイッチが入れば、ざわめきさえ消えて、世界は“無音”になる。
楽しいことに夢中になれば、家族の声だって遠ざかる。
大人になって、やっと「切り替えること」を覚えた。
状況を見て、周りに配慮する余裕もできた。
けれどそれは、年齢と経験を重ねたから身についただけだ。
根っこの部分は何も変わっちゃいない。
……それを、たった6歳の娘に求めるのは、少し酷だったかもしれない。
でもだからといって、何も言わずに飲み込むわけにもいかない。
「タブレット、見ていいって言ったよな。
だから、見るなとは言わないよ。
けどさ、せっかく一緒に遊ぶって決めて、ここに来てるんだ。
父ちゃんが声かけたら……ちょっとだけでいいから、一緒に見てくれよな」
締まりのない、どこか中途半端な言葉だった。
でも、今の自分にそれ以上のことは言えそうになかった。
娘は少し肩をすくめて、「うん、わかった」とだけ言った。
気まずそうに、それでもどこか安心したように、にへっと笑った。
その笑顔に、胸のつかえが少しだけ軽くなった。